オンラインサービスで武谷三男のプログレスに出た論文はおよそプリントした。一つか二つだけ私の前のレポートで落としていたのが今回見つかったような気がしたが、どうもはっきりとはわからない。いまのところ過不足はないみたいだ。
ある論文のページ数がどうしたものか間違っていたのに気づいた。その他収録すべきものに落ちがあるのかどうかはもう一度調べて見る必要がある。
湯川、朝永、坂田の三博士の論文集は出版されているが、武谷の論文集は出版されていない。これは出版するとするとかなり大部なものになり、その費用は膨大なものになる。
またそれだけの業績を上げたのかという点の世間的な評価では残念ながら上記三博士ほどではないかもしれない。しかし、重要な論文を選んだ論文選集ということなら可能性があるかもしれない。だが、彼の物理にかけた情熱はこの論文のページ数の多さからも伝わってくるようだ。
ダイソンが彼の論文選集で述べているように、物理学の論文は歴史的に回顧するとかならずしも全部が意味を持って生き延びる訳ではない。
それが数学との違いである。それで物理学者については論文全集ではなく、論文選集が発行されるとダイソンは言う。それに比べて数学者は論文全集が発行される。
武谷三男は論理的にも行動でも潔癖な人で他人に対して批判が厳しかった。それで熱狂的な信奉者がいる一方で物理学者の中でかっての門下生にも晩年そっぽを向かれたという風でもある。
これは単に風評とか単なる私の感じている雰囲気にしか過ぎないので歴史的な研究としてはその裏付けとかをする必要がある。
その評価を自ずと伝記とか年譜を書くとすれば、しなければならない。そのときには自分がどういう立場に立つかをしっかりさせなければならないと思う。
メモとして記しておくとゲージ理論の創始者の一人である、内山龍雄氏の武谷に対する拒絶反応(下記の付記参照)とか高木仁三郎氏との「時計か金鎚か」という論争もある。そういうテーマを一つ一つ調べて行かねばならない。
(2013.3.16 付記)上に書いた内山龍雄氏の武谷に対する拒絶反応というのは私の推測であって、内山の回顧には武谷に感謝していると思われる一節もある。
それに伏見康治の書いた文には内山にゲージ理論のはじめの論文(ネターの論文?)の存在を教えたのは科学史に関心のあった、武谷であるとの記述があった。
内山はその点を武谷に感謝していると思われる。