「雨に詩を感じることができるか」。これは詩人でもない身にはなかなか難しい問いである。小学生の頃に父が失職して、貧乏のどん底だったことがある。母がよく私たちの学校にもっていく費用がなかなか出せなくなって、妹の貯金箱の中までさらって、お金をなんとかしたことがあり、いつもよくあの頃の苦しかったときを回顧していた。
その頃に兄が新聞の朝刊を配るアルバイトを始めた。まだ中学生の頃であった。そのためもあって私もその新聞の夕刊を26部だったか配達するということをした。少しでも家計の足しにしたいとの考えからであった。部数は少ないが、遠く離れた家があって、2時間ぐらいはかかったと思う。
そういうときに小学生の小さい身には雨はつらかった。特に冬の時雨は手がかじかんできかなくなる。そういう体験をした身にはとても雨に詩を感じる余裕などはなかった。
中学生になって、国語の教科書に仏文学者の辰野隆さんが雨が好きだというエッセイを書いていて、「自分の前世は田んぼのタニシかなんかだったにちがいない」とあって「ほうっ」と内心思ったものだった。そういうことは家族にも友達にも言ったことはないが、それが実感だった。
その後、雨についてはそれほど悪い印象をもったことはないが、それでも好感をもったとまではいえない。多分、中性的な感じでもあろう。これは室内にいて、屋外にひどく雨が降っているとき夏ならやっと暑さが少ししのげるかという期待感もあるだろうし、冬ならそしてその雨を重ねながら春を待つという期待感があるからでもあろう。
wet to the skinという英語の表現は日本語のびしょぬれという感じで小さいときの経験にぴったりだし、またOn va sous la pluis. というフランス語の表現は日本語なら雨の中を歩くとなろうか。フランス語では雨の「中」ではなく雨の「下」を歩くとなる。その発想が微妙に違っているのがおもしろい。
しかし、いずれにしてもなかなか「雨に詩を感じることができない」のはもって生まれて詩心がないせいであろう。