物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

言葉・ナショナリズム

2009-03-21 13:34:23 | 本と雑誌

「言葉・ナショナリズム」は加藤周一の「私にとっての20世紀」の第4章の標題である。この章の始めのほうは読むと眠たくなるので読むのを止めようかと思ったほどだったが、読み進むうちに興味深いところが出てきた。

彼の著作である「日本文学史序説」を書いた動機も書かれているので私はこの本を読んで見たくなった。しかし、ここで触れたいことはそれではない。

「文学の仕事」という節に書かれたことである。

孔子は重い荷物に苦しんでいる1頭の牛を見て、かわいそうに思って助けようと言った。すると弟子は中国にはたくさんの牛がいるのだから、一頭だけ助けたってしょうがないのではないかと言った。孔子は、しかし、この牛は私の前を通っているのから哀れに思って助けるのだと答える。それは第一歩です。

と書いている。続いて他の例でこういう孔子のような考えの大切なことを述べている。それで前から私の思っていることを述べてみよう。

インドは興味深い国だという。一度インドの魅力にとりつかれるとまたもう一度行きたくなるという。

私の聞いた話では例えば空港について降りてくると物乞いの少年や少女がやってくる。もしある少年または少女にいくらかの施しをすれば、他の多くの少年少女の物乞いが金を恵んでくれて手を出してくるという。

その話を聞いて私はインドへは行けないと感じるようになった。誰か一人二人は助けることができるかも知れにないが、その他大勢の人をすべて助けることはできないから。

まず眼前の一人を助けられないならば、他の多数を助けられないというのは加藤周一が言うように真理なのであろうが、すぐに他の人は助けられないという現実に突き当たる。そういう事態を避けたいと思うとやはりインドには行くことはできない。これが私の結論である。

こういう思考をする私のような輩は、加藤周一の主張では「けしからんやつ」ということなのだろうか。どうも難問がここにあるように思われるのだが、このブログの読者は、読者がいるとして、どうお考えでしょうか。