物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

声の出ない人の講演

2016-07-01 11:47:04 | 日記
をTEDで見た。もちろん手話の話を読んで、それを声の通訳をする人がいるので、私たちは講演の意味することを声として聴くことができた。

声を出さないとか音が聞こえない人は外国に出かけて英語とかその他の外国語を話せない人にちょっと似ているのではないかとジョイさんとスプツニ子さんが話をしていた。

もっとも彼らは英語を十分話せるという恵まれた環境にあるのだが、その類似性の指摘はおもしろかった。

音の聞こえない人とか目の見えない人とかハンデがある人に色とか音とかをどう教えるか、それは一種の知的ゲームのような感じがする。「ファインマン物理学」にも目の見えない人に色をどう教えるかという話題が出ていたと記憶する。

音が聞こえなくても触覚とか嗅覚もあるので、まったく何もわからないとか感じないわけではない。六感というから視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚等が人間のものごとの認識に役立つ。

視覚とか聴覚を失っていてもまったく何も感じないわけではない。そこが人間としての認識の余地が残されているということだ。

唐突だが、偉大な数学者のポントリャーギンは子どものころ爆発事故にあって目が見えなくなったが、お母さんの尽力等もあって、大数学者となった。

50年以上も昔のことだが、大学院のセミナーで『連続群論』上(岩波書店)の購読を池田峰夫先生からしてもらったが、その著者がポントリャ―ギンであった。

もっともこの連続群論はほとんど理解できなくて、私がおちこぼれる原因の一つとなった。もっともその初めの部分はあまり物理への応用には必要がないとのことを池田先生自らセミナーの最後にポツンと漏らされたことを思い出す。

それによると下巻の後ろの方の章が物理への応用に使えるとのことであった。

私たちは今ではカラーテレビを見るのが普通だが、テレビの普及して始めのころはモノクロのテレビであった。それは私の子どもたちが小さいころはまだそうであった。

だが、テレビの料理番組でも料理から出てくる匂いはかぐごとができないし、料理がおいしいとかゲストがいってもそれを味わうことはできない。

私の発行しているサーキュラー「数学・物理通信」にしても、印刷したものはモノクロであるが、メール配布しているものではカラーの図を楽しむこともできる。そういった限界を技術のお蔭で享受しているのである。

テレビのなかったころの大相撲の中継放送でも単にアナウンサーの声による実況中継であった。だが、いまはテレビ中継で見ることができる。もっとも私が大相撲を両国の国技館に見に行くことができたときはもう70歳を越していた。

例によって話があらぬ方向に散逸してしまったが、いろいろな制限を少しづつのり越える努力を人間はしているということを言いたかった。