物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

書くことがあってもなくても

2015-04-20 18:09:44 | 日記
書くことがあってもなくても何か書く。

それが私のブログではあるが、やはりなかなか厳しいところもある。もちろん書くのは日曜日を除いてではあるけれども。

先日、私の先生の一人のS先生の追悼文はすでに書いていたのだが、それに追加するつもりで下書きをしていた補遺の分を今日は入力した。これは大学に在職中によく行っていたレストランとかスナック居酒屋の名前も忘れて思い出せなかったいうことがあるので、やはり記録にとどめておいた方がいいと思いはじめたからである。

よく行っていた出雲屋二番町店の名前を思え出せなくてショックを受けた。友人や知人が松山に来たときにはそこに夕食に連れて行くのが私の常にしていたのに。そこのお店のご主人が亡くなってしまって、もうお店はない。

記憶に残っているお店の一つということである。そういう風にいえば、行きつけだったスナックも居酒屋も閉店してしまってもう行ってみようにも行くことができない。そういうお店は私の知っているだけでも4軒から5軒はある。毘沙門坂にあった五味鳥もそういうお店の一つである。「牛行くや毘沙門坂の秋の暮れ」という小ぶりな句碑の前のお店であった。

御主人が亡くなった後もおかみさんが数年は学生のアルバイト店員を使ってお店を切り盛りしていたが、私の定年退職のときと同時に廃業された。別に相談があったわけではないので、示し合わせた訳ではないのだが。

将来の技術の発展は?

2015-04-18 13:35:15 | 日記
昨夜の11時からのニューヨーク白熱教室ミチオカクさんの話は未来がどうなるかということであった。

彼は300人の科学者・技術者と話をして未来がどうなるかを予想しようとしている。

彼はこれからの技術の発展は次の3つの分野だろうという。

1) 人工知能
2) ナノテクノロジー
3) バイオテクノロジー

繰り返しが必要な分野はロボットやコンピュータにとって代わられる分野だという。

建築作業者、庭師、芸術分野はコンピュータにとって代られない分野だろうという。くりかえし作業は人間がすることはない。

老化はDNAの細胞のコピーミスから生じるのだが、その一つ一つを修正する方法が発達して老化は防げるようになるだろうという。まあ、それでも多分不老不死にはならないあろが。

大学教育はすでにインターネットでアメリカの多くの大学が提供しているが、これから落ちこぼれる割合は90%だという。だから、アドバイスを与えたり、その他の分野で人と接触する必要は教育分野では必要だということがわかっているという。

私も放送大学にすべての大学教育が置き換わるという主張を以前にある人から聞いたことがあるが、そうはならないだろうと思っていたが、やはりそうらしい。

「生きがい」をどう言い表すか

2015-04-17 11:59:05 | 日記
昨夜のドイツ語のクラスで R 氏の知っているドイツ人の教授であるが、教授になるときにいい論文を一つだけ書き、本も1冊出版したが、大学の在職中は博士論文を書くことを目指す学生を指導することもなく、自分は論文も著書も書かなかった教授がいたという話を R 氏がした。

私は「それでは生きがいがなかったのではないか」という考えを述べた。これは日本語で。なぜなら「生きがい」をドイツ語でどういうかわからなかったからである。

R氏は Lebensziel(?) と言われたが、どうも Lebensziel という訳には違和感がある。というのは Lebensziel をそのまま日本語に訳すると「人生の目的」という意味になりそうだからである。

人間というものは何年生きても「人生の目的」などわかるものではない。そう思う。そもそも人生に「目的」などあるとも思えない。

私は人生の目的を探すなどという人がいるとすれば、そういう風に考える人の頭を疑う。大体そんなことは金輪際わかるものではないのだから、そういう問題設定をする人は間違っていると思う。

だが、生きがいは違う。生きがいは人生の目的ではない。それは自分がどう生きるかということだけであって、極端にいえば、どのように生きると自己満足を感じられるかということである。

だから、「生きがい」を Lebenswert(人生の価値)とか言い換えてもぴったりこない。Lebenszufriedenheit(人生の満足)とでも表現したいところである。もっと適切でぴったりくるようなドイツ語がないか探したい。

洋数字と漢数字の使い分け

2015-04-17 11:48:14 | 日記
今朝の朝日新聞で「洋数字と漢数字の使い分け」をどうしているかという読者からの問い合わせに答えた記事が出ていてその使い分けの理由を知った。

それは数字が出るときには原則は洋数字だという。だが、その数値が変化しないなら、漢数字を用いるという。なるほどなるほど。ところが数字が変わる場合でも漢数字が使われる場合があるという。

これは囲碁や将棋の段位とか「四代目中村鴈治郎」とかの場合には漢数字を使うという。一つ、二つというような言い方の場合には「1つ、2つ」も認めたそうですが、やはり社内外から「違和感がある」との声があり、漢数字に統一したという。

なかなか数字と言っても難しいものである。

私も『数学・物理通信』等で編集者であるので、この指摘は役に立った。

compromising

2015-04-17 10:57:06 | 日記
2015.4.12の朝日新聞に載っていた、つぎの英文

Compromising images were made accessible to third parties through online postings.

(訳:個人の名誉を傷つける画像が、インターネットへの投稿を通じて第三者の目にさらされた。)

の中のcompromisingが「妥協するような」ではなく、「評判を落とすような、疑いを招くような」などという意味があるとは思わなかった。

だから、読んでも意味が分からなかった。もっとも新聞にとりあげられる英語の文章は誰でもわかるような文章ならとりあげられないであろう。

これはNHKの外国語講座(注)で取り上げられる文にはあまり私たちが知らない語句や慣用句が使われていることが多い。これは「おっと、学ぶところがあった」と聴視者に思ってもらわないとつぎの放送も見てもらえないという気持ちがあるからであろう。

私なども大学に在職中は講義の中でちょっと「はっとするような」視点を提供するように心掛けてきたといういきさつがあった。

(注)私は「語学」という語が好きではない。それで意識して「外国語」講座という表現を用いている。


mantissaとcharacteristic

2015-04-16 16:11:37 | 日記
mantissaとcharacteristicなどという言葉を知っていたら、あなたは相当な数学通であろう。

先日、真夜中の3時過ぎに眠れなくなって起き出して私の父の蔵書であった、ガウスの5ケタの対数表、三角関数表のある本を眺めていた。そのときにドイツ語でMantisseという語があるのに気がついた。

もっともその意味が対数の仮数という意味だということはそのとき思いもつかなかった。今日ちょっと用事があって武藤先生の著書『算数・数学活用事典』を見たら、mantissaは仮数とあった。ついでにいうとcharacteristicは指標である。

log y=3.451とあれば、小数点の上にある整数は指標であり、0.451は仮数である。そして数yの桁を表すのが指標である。指標が3であれば、10の3乗の数である。そして、その前の有効数字を表すのが仮数である。

(注)mantissaとcharacteristicに対応したドイツ語はmantissa(仮数)に対しては-e Mantisseであることを述べたが、characteristic(指標)に対するドイツ語はと思ってLangenscheidtsを調べたが、characteristicに対するドイツ語と思われる、-e Charakteristikにはそのような意味が載っていなかった。それで独和辞典を調べたら、ちゃんと「(常用対数の)指標」という訳も載っていた。ガウスの数表にはもちろん、このCharakteristikも出ていたのであろうが、知らない言葉としてのMantisseしか頭に残らなかった。

これらはフランス語ではどういうのであろうか。

昨日のTED

2015-04-16 16:01:45 | 日記
昨日のTEDでテロリストの子どもだった人が講演をしていた。

いろいろな人がいる者である。父親がテロリストになってもそれでめげることなく平和運動家になったというのだからすごい。もっとも途中では何回もめげかけたようだけれども。

いずれにしても父親のせいにしなかったところがすごい。子どもときには小太りに太っていたことからいじめにあったらしい。そして友だちもつくれなかったとか。

その勇気に拍手喝さいを送りたい。人はあらゆる不幸に直面する。これは人生だからしかたがない。だが、それにめげないで生きることが必要であろう。

私のような老人ならまあどうでもよいが、まだ人生の半ばを過ぎてもいない人にはもっと勇気を持てといいたい。いままでがどうであったかはあまり大事ではない。いつ決意するかであろう。

ギュンター・グラス氏の死去

2015-04-15 13:21:20 | 日記
ドイツの作家で1999年にノーベル文学賞を受けたギュンター・グラス氏が13日にリューベックの病院で亡くなったと新聞に出ていた(注)。87歳だった。

グラス氏の小説を読んだことはないのだが、映画の「ブリキの太鼓」(Blech Tronmel)は見たことがある。特異な感覚の映画だったと思うが、あまりよくわからなかったので、もし死去に際しての再放送がどこかのテレビであれば、もう一度見てみたいと思う。

ミヒャエル・エンデとかこのギュンター・グラス氏がドイツの現代を代表する作家だったと言っていいだろう。

ミヒャエル・エンデは先年に亡くなっていたので、ドイツは相続いて優れた作家を失ったことになる。

ドイツ文学者の池内 紀さんの印象では「ギュンター・グラスは作家というより、農夫のようだった」と今朝の朝日新聞の天声人語に書かれていた。

エンデだったか、このグラスだったかの厚いエッセイ本をある懸賞としてもらったことがある。これはクイズに答えた葉書を送ったら、ドイツからその厚い本がクイズの賞品として送られてきた。

もっとも私にはこの本は猫に小判でなかなか読めないという感じがしている。ドイツ人の R 氏によれば、それほどは難しいドイツ語ではないという。だが、気楽には読めないところが私の現在のドイツ語の実力の程度である。

また作家の池澤夏樹さんによれば、「『ブリキの太鼓』ほどナチスの台頭するドイツの雰囲気を正確にシニカルに書いた小説はない。我々は第2次世界大戦中の生活について、日本の『ブリキの太鼓』を書く作家をもたなかった。これは日本とドイツの戦後の歩みの違いを象徴している」という。 心すべき評であろう。

敬愛すべき日本人の作家に大江健三郎がいるが、彼は私よりは年長ではあるが、グラスほど年長ではないので、たぶんグラスの役目をすることはできなかったであろう。これは生年の違いであり、しかたがない。少なくとも他にはいなかったということであろうか。

私は読んだことはないのだが、大西巨人の『神聖喜劇』とかがこれにあたるのではないのだろうか。亡くなった長兄の蔵書から私がもらった『神聖喜劇』を一度読んでみたい。

(注)カタカナでグラスと名前を書いたが、発音はグラースとラの後を伸ばすような発音をすると思う。もっともカタカナ表記は新聞にしたがった。

平方完成

2015-04-14 12:15:59 | 日記
「平方完成」といってそれが何を意味するかすぐに理解ができるような人は高校時代に数学が得意だった人に違いない。もっとも高校時代にあまり数学が得意ではなかった私が平方完成についてエッセイを書くことなどは50年以上も昔の私には想像もできなかった。

日曜日には妻は芹洋子さんのコンサートに行ったので、私はどこも行かないで、一日中コタツに入って居眠りをし、いくつかのエッセイの原稿の草稿を書いた。その中の一つに平方完成がある。大体、こんなエッセイを書こうと思うなどとは自分でも予想していなかった。

先日、雑誌『数理科学』を見ていたら、カルダノ変換が2次式の場合には平方完成にあたるとかいてあったので、それをちょっと計算をしてみて、雑誌『数学教室』の「こそあど」欄に投稿した。

これが掲載になるかどうかはわからないが、一つの話題としてはおもしろいと思った。ところが武藤 徹先生の三省堂のテキストをとりだして読んでいたら、この平方完成というか、2次方程式の解の公式のつくり方がちょっと興味深く覚えたので、それを含めたレポートをしたらどうかと考えた。

数学教育的な観点なので、別に新しいことはないが、まとめてみたいと考えたのである。その平方完成を面積図で表すことももちろんその構想の中に入っている。

平方完成は2次方程式の解を求める方法でもあるし、また2次関数の基本形(または標準形ともいう)を求める方法でもある。

この歳(75歳)になって来ると2次方程式の解の公式ですら、その記憶が定かではなくなって、その公式を書き下すのが難しくなってくる。だが、それを導いた方法までも忘れるということはまだない。

中学校の頃にしっかり覚えたはずの英語の単語の綴りすらあやしくなってくる今日この頃であるのだから。棒暗記の場合にはそれを回復するには辞書で確認するくらいしか方法がない。


自由度を増やす

2015-04-13 12:40:31 | 日記
武藤 徹先生から数学で自由度を増やすという方法が一般的に広く用いられていることを教わった。それで、先生の代わりに先生の名前でのエッセイを書こうとしている。

もっとも大部分は先生のテクストからの引用で埋めるつもりである。先生から教わった例では3次方程式の解のカルダノの公式をx=y+zとおくとか、1階微分方程式の解法で解をx=uvとおくとか、または1次分数変換を2回続けて行えばこれがマトリックスのかけ算と同じとなるのはすべて数学に自由度を導入する例だという。

他にも多分例があるのであろうが、私の知識が限られているために知らない分野もあろう。

ということで、土曜に文章を書く始めたが、なかなかうまく書けそうにない。もっともある程度書ければ、あとは先生が直してくださるであろう。

カルダノの公式の導出をあくまでx^{3]+y^{3}+z^{3}-3xyz=0を因数分解に帰着させるという私の考えはそれはそれでいいのだが、ほかにも考えがあるということを知った。

車のリモコン

2015-04-11 12:52:07 | 日記
このごろはどの車もリモコンキーで車のドアが開錠される。私の乗っているすずきのワゴンRも例外ではない。

その解除電波の周波数は315ギガヘルツだそうであるが、車に割り当てられた登録番号(ID)は車ごとに違っているので、他の車のドアが開くことはないのだとあった。

それはそれでいいのだが、そのIDの数は2の32乗であり、これは10進数でいうと約43億の数になるとあった。それでこれを計算して見ようと思ったのだ。悲しいことに計算の仕方を思い出せない。

2の10乗は1024になることを知っているので、2の20乗は約100万になる。その約100倍だと10の9乗のオーダーになる。ということは10億のオーダーである。それを4倍すれば、40億のオーダーになることは分かる。

それをきちんと対数をつかって計算しようとしたのである。ところがところができない。対数を高等学校で学んで約半世紀が過ぎたとはいうけれどもこれくらいのことはできてしかるべきであろうに。情けない。

これからタダ塾であるから、それが済んだらきちんと考えてみよう。

いまちょっと電卓で2の32乗を計算してみると42億9千万くらいになった。こんなことをしているから、簡単な対数計算もできなくなってしまったのか。それにしても。

(タダ塾終了後付記) 実際の計算はつぎのようである。

15時30分までタダ塾で小学生の算数の相手をしていた。その小学生の相手をする前にちょっとだけ時間をとって上にかいた課題を解いてみた。

2^{32}=yとおいてその常用対数をとる。これはlog y=32log 2である。log 2=0.3010であるからlog y=32log2=9.632となる。この場合の9は指標と言ってyの数としての桁数を表す。yは9桁の数であることがわかる。すなわち、10億のオーダーの数である。詳しい数値は小数点以下の仮数と言われる部分から計算できる。

この仮数部分は0.632である。log 4=0.6020であり、log 5=0.6990であるからその差0.0970で0.662-0.602=0.030をわると0.30が得られる。すなわち、

0.03/0.097=0.30

である。これは補間の比例部分の計算をするためである。この0.30を4にたせば、4.3が得られる。

したがって、yはおよそy=4.3 \times 10^{9}となって、43億という概数が得られる。これはきちんと計算してみると4,294,967,296となる(ここではlatexの数学入力記法を用いている)。

これを題材にして対数の初歩の入門についてエッセイを書いてみようか。

ドイツ語の落日

2015-04-10 12:45:40 | 日記
私の在職していた E 大学のドイツ語の先生は一時は10人近くいたのだが、現在は3人になってしまっているという。

大学の第2外国語としての「ドイツ語の没落」である。もうすでに私が大学の学生だったころに「ドイツ語第二漢文論」というのがあって、これは東京大学の物理の先生であった玉木英彦先生が唱えられた論である。

私が大学の学生のころすでに漢文が日本で不人気になったが、それと同様な運命をドイツ語が辿るというのであった。ところがその後、若い人が増えて大学への進学率も上がり、学生が増える一方であり、大学の物理の教師として就職することは困難になっていたが、ドイツ語の先生はどんどん増えて行った。

もっと私の妻などに言わせるとドイツ語を話せないドイツ語の先生が多かったとのことで、これは私などもそのことを見聞きして知っている。

そのために母語としてドイツ語を話す先生の苦労は並み大抵ではなかった。というのは少しでも日本人のドイツ語の教師がドイツ語を話せるようにしたいという思いからいろいろな試みをされたからである。

その中に日本円の価値が上がって来て、日本人がドイツやスイスやオーストリアに簡単に行ける時代が来て、だんだん達意のドイツ語を話せるとは言えないまでもドイツ語の先生がドイツ語を話すのが普通になってきた。

それでも達意のドイツ語を話せる方はそれほど多くはないが、それでもそこそこにドイツ語を話すことができる先生は多い。ところが段々世間の方の要求が小さくなってきて、ドイツ語を学ぶ人が少なくなってきた。

これは大学人でももう第2外国語はいらないとかいう人たちが出て来て、大学院の試験からも第二外国語を外すという時代になっている。これは第二外国語を大学院の入試に課すると学生があまり受験してくれない。

要するに次第に小さな器量の持ち主の学生ばかりになってきた。世の中がそういう風になってくると専門家もある程度それに対応しないといけない。

それでかとは思うが、テレビやラジオのドイツ語講座でも動詞の人称変化は1人称と2人称の変化しか教えないという現状である。それでないと学ぶ人が急激に少なくなるのであろうか。

誠に嘆かわしい時代である。

目を凝らせば

2015-04-09 10:55:53 | 日記
昨日と今朝は寒かったが、街路樹に黄緑の若葉が次第に萌え出してきた。冬の間は枯れた木のように思えたが、別に枯れているわけではなかった。木は生きて冬の寒さを耐えていたのだ。

もう40年近くの昔になるが、ドイツのマインツという町に住んでいた。そこの駅前の巨木が3月はまるで死んでいるとしか思えなかったのが、4月から5月にかけて緑の葉が萌え出してきて、やはりこの木たちが生きていたのだと分かったときには感激したものだった。

それぐらいドイツの冬は厳しい。はじめ3月の終り頃にこの町に来たときに駅前の巨木は枯れ木の如くであった。「ああ、この木も枯れてしまったのだな」という感慨を抱いたものだったが、それが1か月もたたない間に見事に芽がふきだして再生するとしか言えないさまは言葉にしがたい。

もちろん、常緑樹も山にはあるのだが、落葉樹の毎春での復活をみれば、やはり春が来たと人々に感じさせる。

現在私の住んでいるところは住宅地であるので、通りから赤い椿や白い木蓮のような花が咲いているのを見かける。それと黄緑の若葉である。私の家の庭にも黄色のまゆみが若々しい葉を出している。

今日の言葉

2015-04-08 16:41:51 | 日記
「愛がなければ見えてこないものがある」という言葉を哲学者の鷲田清一さんが朝日新聞で取り上げていた。これは人のと人との愛ということではなくて、学問的な話らしい。

鷲田さんがあるときに文化人類学者の研究会に出たときに聞いた言葉だという。その新聞を切り抜こうかと思ったのだが、まだ妻が読んでいない、新聞を切り抜くのは気が引けたので記憶に頼って書いている。

サンテクジュペリーの「星の王子さま」のように「心で見なければ見えないものがある」というのとある種の類似物である。使われている状況は違うけれども達人という方々の到達する境地という点では似通ったものがあるのではなかろうか。

数学・物理通信5巻3号

2015-04-08 14:46:25 | 日記
『数学・物理通信』5巻3号をここ数日準備していた。およそ不備だったところがなくなって来たのでそろそろ発行の秒読み段階に至ったと判断している。

3月に3号目を発行しようと思ったが、気力が続かず5巻1,2号の発行に留まっていた。だが、投稿原稿が続々と集まるので、6月まで待たないで、いま4月だが5巻3号を発行した方がよいと思うようになった。

それに時間が経ったので、私の気力が少し回復したということもある。ということで投稿者に何回目かの点検のお願いを先ほど出した。

そのOKがでれば、発行ということになる。今回は編集方針を変えたので、思わぬポカをしたりした。投稿者がそれに丁寧に付き合ってくれたので助かった。感謝、感謝である。