物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

「数学ガール」のファンの人

2016-07-06 12:28:51 | 日記
結城浩さんの著書『数学ガール』(ソフトバンク・クリエイティブ)のファンの人は多いのではないかと思う。

昨日のブログの閲覧者が急に300名を越えた。大体80人から100人前後のビジターが普通であるのに300人を越えるビジターは私の予想を超える。

これはたまたま『数学ガール 秘密のノート (ベクトルの真実)』の感想を書いたことによるのではないかと思った。それ以外に思い当たるところがない。

結城さんの書は以前に『数学ガール』を読んだきりであったが、最近は中学生とか高校生用の『秘密ノート』シリーズを書かれていて、これが懇切丁寧でやさしい。もっとも私が読んだのは『微分を追いかけて』と『ベクトルの真実』だけである。『式とグラフ』『丸い三角関数』とかはまだ読んでいない。

特に三角関数については私もエッセイを「数学・物理通信」に連載を始めて、2回書いたきりで、途中で休載中である。かなり書く内容については構想ができていたのだが、その構想がどういうものであったか忘れてしまった。

だから、『丸い三角関数』については読んでみたいと思っているが、この書は県立の図書館には入っていない。E大学の図書館にはあるようなのでそちらで借りることも考えられるが、どうしたものか。


内分点

2016-07-06 11:49:09 | 日記
を求めるということを「数学ガール 秘密ノート(ベクトルの真実)」の中のm:nで内分する点についてさっき自宅で読んできたところだが、ちょっと説明が足りないのではないかと思った。

この本はとてもよくできているので、文句をつけるのはちょっと気が引けるが、やはり内分点の定義をはっきりのべてから問題を解いた方がよかったのではないかと思っている。

ベクトルABをm:nに内分する点Pの定義をしっかり思い出せば、問題は解けるのだが、それが上記の書ではわかる人にはわかるように書かれてはいるのだが、もう一つはっきりとは書かれていないと思う。それがどうも曖昧さを生んだ原因ではないか。

いや、これは人の欠点を指摘することが目的ではなくて自戒するためにここに書いている。

ぎっくり腰

2016-07-06 11:18:48 | 日記
をドイツ語でなんというか。こういうコトバはおもしろいので、「一度聞いたら忘れない」なんてことはなくて、やはり忘れていた。

先週の土曜日に愛媛日独協会の講演会があったのだが、そこで数学者の Y さんがコンスタンツに滞在中にぎっくり腰になったという話があった。

Y さんはドイツ語はあまり話さないそうだが、自分がぎっくり腰にかかり2か月ベットに横たわっていたためにぎっくり腰をドイツ語でどう言うか覚えて帰ってきた。

これはder Hexenschussという。直訳すると「魔女の一撃」という。このコトバはすでにどこかで聞いて知っていたのだが、すぐにぎっくり腰といわれてそれに対応するドイツ語を思い出さなかった。

大体、外国語などは、覚えて忘れて覚えて忘れてのくりかえしで覚えるものだろう。

数学ガール 秘密のノート ーベクトルの真実ー

2016-07-05 11:48:42 | 日記
を昨夜読み始めた。それが結構興味深くて1時半くらいまで読みふけった。今朝も朝食後に仕事場に出てくるまでしばし読んだが、時間にして20分くらいのことであろうか。

結城浩さんのシリーズであるが、秘密ノートはどれも難しい話ではなく中学生から高校生くらいの話である。この「ベクトルの真実」も難しい話は出てこない。

それでもこういう内容があるということが目新しかった。結城さんはこのシリーズで日本数学会から出版賞をもらったらしい。それに値すると思う。

ただ、ちょっと私の気に入らないところはベクトルを文字の上に矢印をつけた記号で表すところである。これは太字で表すべきではなかろうか。もっとも導入のはじめの部分では文字記号の上に矢印のつけたベクトルの表し方も許されるだろうが、それは導入部分のごくはじめのところだけに留めるべきだと思う。

はじめの導入部分では矢線でベクトルを導入しているのでしかたがないのだが、それはできるだけはやく抜け出す方がいいと思う。

中学生から高校生宛てのこの秘密ノートのような本は日本ではたくさん出されているが、どんどん読んでいけて、かつ、おもしろいというのはなかなかないものである。

もし私に孫ができて、その孫が中学生になったら、これを勧めるだろう。もっとも中学生や高校生でなくても学ぶところが多いと思う。この秘密ノートは程度はそれほど高くはないけれども。やはり結城さんの数学の実力が現れていると思う。

raison d'etre

2016-07-05 11:18:06 | 日記
カタカナで発音を拙くつけるとレゾンデートルとなろうか。意味は普通には「存在理由」であろう。

この語を先週の土曜日にあった、愛媛日独協会の講演会で聞いた。この語はもともとはフランス語であるが、インテリなどの間ではフランス語であることも意識されないで使われている。

こういうフランス語は他にもある。engagementはエンゲージメントとは発音しないでアンガジュマンと発音する。普通に日本語で使われるときには社会参加とでもいう意味だろうか。何かの運動等に係るという意味である。

もう一つよく使われるフランス語にルサンチマンというのがある。le sentimentであろうか。leは定冠詞である。感情とか心情とかいう意味であるが、場合によっては恨みの感情だとか誰かに対するいうに言われぬ感情とかを示す。場合によっては韓国語の恨みを示す「恨」を示すこともある。

保存量

2016-07-04 11:51:13 | 日記
にはエネルギー保存則だとか運動量の保存則があるが、それらは時間の並進についての法則の不変性だとか、空間の並進の不変性から得られるというのが、解析力学を学んだ人の常識であろう。

方程式が与えられたときにその方程式をみたす保存量はいくつあるのか。それを決めるのはなにかということなどいままで考えたことがなかった。

私がいかにぼんやりとした人間であるかが分かって恥ずかしいしだいであるが、それが私の現実であるからしかたがない。

ということで1回も読んだことがないランダウ・リフシッツの『力学』(東京図書)を書棚からとり出してきたが、まだそれを読んではいない。近日中に読むかどうかも定かではないが、全く読んだこともなかった本を読む動機が出てきたことだけは確かである。

ピアノの音を比べる

2016-07-02 21:42:24 | 日記
ことのできる人がいる。これは今日の愛媛日独協会の講演会でそういうことに関心のある人 T さんが講演をしてくれたのだ。

確かにきいてみるとピアノごとにその音色はちがっている。私のような素人はやはりすんだ音色のするピアノがいいと思うのだが、この方はそれも悪くはないというが、必ずしもその音色のピアノがいいとは言わない。

ピアノの音のよさの独自の基準をもっておられてそれは私たちと同じではない。そのへんがプロフェッショナルのプロフェッショナルな由縁であろう。

実際に自分でピアノを弾いて判断されるということである。しかし、これぐらいの達人にもなるとヨーロッパに行ってもコトバはあまり重要ではない。英語の片言で十分用が通じるという。それはそうであろう。いずれの分野においてもそういう道のプロはやはりお互いの力を見分けることができるのであろう。

なかなか急に真似をしたくてもそんな真似はできない。

数学ガールの秘密ノート

2016-07-02 11:39:18 | 日記
はご存じ結城浩さんの「数学ガール」シーリズの中学生生版とでもいうべきものらしい。数学への入門を指南する本は日本では枚挙にいとまがないかもしれないが、この「秘密シリーズ」は中学生に数学をもっと深く知ってもらうために計画して出版されているかと思われる。

私はいま「微分を追いかけて」を読み始めたところだが、なかなかよく書けていると思う。一般の中学生を対象にしていると思われるが、結城さんが自分でlatexとTikzで書かれたので、比較的安価に定価が設定されている。この巻は1400円である。出版社はソフトバンククリエイティブである。

秘密ノートシリーズはどうもWeb連載であるらしいので、インターネットで読むことができるのであろう。中学生に数学を説くこのようなシリーズは遠山 啓さんの「数学の広場」があり、これも優れたシリーズだが、1冊3000円で結構な値段である。もっともその値段に見合っただけの価値はあるのだが、普通の人はなかなかこのシリ-ズを購入することはできない。

特に、最近では子どもの貧困が言われている。これはもちろん子どもだけではなく、大人も貧困ではあるのだが、そのために子どもに「数学の広場」のシリーズ本を買い与えることのできる家庭はそうは多くはないだろう。

そういう点では秘密ノートのシリーズはひょっとしたら大成功を収めるのではないだろうか。いや、私が知らないだけですでに大成功を収めているだろう。

それにしても教育とは何と地味な活動なんだろう。

声の出ない人の講演

2016-07-01 11:47:04 | 日記
をTEDで見た。もちろん手話の話を読んで、それを声の通訳をする人がいるので、私たちは講演の意味することを声として聴くことができた。

声を出さないとか音が聞こえない人は外国に出かけて英語とかその他の外国語を話せない人にちょっと似ているのではないかとジョイさんとスプツニ子さんが話をしていた。

もっとも彼らは英語を十分話せるという恵まれた環境にあるのだが、その類似性の指摘はおもしろかった。

音の聞こえない人とか目の見えない人とかハンデがある人に色とか音とかをどう教えるか、それは一種の知的ゲームのような感じがする。「ファインマン物理学」にも目の見えない人に色をどう教えるかという話題が出ていたと記憶する。

音が聞こえなくても触覚とか嗅覚もあるので、まったく何もわからないとか感じないわけではない。六感というから視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚等が人間のものごとの認識に役立つ。

視覚とか聴覚を失っていてもまったく何も感じないわけではない。そこが人間としての認識の余地が残されているということだ。

唐突だが、偉大な数学者のポントリャーギンは子どものころ爆発事故にあって目が見えなくなったが、お母さんの尽力等もあって、大数学者となった。

50年以上も昔のことだが、大学院のセミナーで『連続群論』上(岩波書店)の購読を池田峰夫先生からしてもらったが、その著者がポントリャ―ギンであった。

もっともこの連続群論はほとんど理解できなくて、私がおちこぼれる原因の一つとなった。もっともその初めの部分はあまり物理への応用には必要がないとのことを池田先生自らセミナーの最後にポツンと漏らされたことを思い出す。

それによると下巻の後ろの方の章が物理への応用に使えるとのことであった。

私たちは今ではカラーテレビを見るのが普通だが、テレビの普及して始めのころはモノクロのテレビであった。それは私の子どもたちが小さいころはまだそうであった。

だが、テレビの料理番組でも料理から出てくる匂いはかぐごとができないし、料理がおいしいとかゲストがいってもそれを味わうことはできない。

私の発行しているサーキュラー「数学・物理通信」にしても、印刷したものはモノクロであるが、メール配布しているものではカラーの図を楽しむこともできる。そういった限界を技術のお蔭で享受しているのである。

テレビのなかったころの大相撲の中継放送でも単にアナウンサーの声による実況中継であった。だが、いまはテレビ中継で見ることができる。もっとも私が大相撲を両国の国技館に見に行くことができたときはもう70歳を越していた。

例によって話があらぬ方向に散逸してしまったが、いろいろな制限を少しづつのり越える努力を人間はしているということを言いたかった。