らしい。昨日、クレディットカードの支払いの件で疑問があったので、M銀行にしばらくぶりに行った。ちょっと用を申し出て、しばらく待ち時間があったので、椅子に座ったのだが、その近くに松山市及びその近郊の句碑の写真と説明をした本がおいてあった。それをとりあげて子規の句碑のところを見たら、その最初が実は私が松山の句碑で一番好きだと、先日述べた毘沙門坂の句碑であった。
これにはびっくりした。その句碑巡りの作者のお名前はよく覚えていないが、松山在住の医師の方であり、かなりたくさんの句碑の紹介があった。その冒頭が私が一番好きだとこのブログで書いた「牛行くや、毘沙門坂の秋の暮れ」の句碑だった。この句碑はちいさなものであり、観光客のだれでもが見るものでもない(注)。
そういえば、松山に住むようになる前に一度松山を訪れたことがあったが、そのときにJR松山駅前にある、句碑「春や昔、十五万国の城下かな」という句碑がとても印象的だった。この句碑はかなり大きなものであり、誰でも松山を訪れる人が一度は目にするものである。
句碑巡りの著者は医師であるので、物理学の研究者であった、私とある意味で理系の者は、同じような感覚をもっているのかもしれない。しかし、この人の著書の最初にとりあげられているとは思いもしなかった。
もう一つ、句碑にまつわる思い出を述べておこう。これは大学に勤めていたころで、通勤で松山市駅を利用していた。あるとき、市内電車に乗り換えるために電車の停留所のところへやってきたとき、句碑に幕がかけられていた。そして数人の方がそのまわりに立っておられた。中学生か高校生かとも思われる若い少女も立っていた。その除幕まではそこに留まってはいなかったので除幕の様子は知らないが、後で見たら、「城山の浮かみ上がるや青嵐」という句碑だった。
あの少女は子規の遠縁の縁者の少女だったのかもしれない。市駅前には演劇の井上正雄の胸像があり、この句碑に近いところにある。句碑の思い出は他にもあるが、これは一つの大きな思い出である。
(注)この毘沙門坂のところに「五味鳥」という名の居酒屋があり、そこに40歳代のころよく行ったという個人的な経験が私に大きく影響を与えているかもしれない。この五味鳥の将棋のすきな、マスターは病気で亡くなり、その後女主人が数年頑張って営業していたが、私が大学を定年になった2005年にお店を閉めた。その後、お店を他の人に貸したりされているが、その後どうされたかは知らない。
確か、息子さんが東京で喫茶店かなにかをされているということを聞いていた。