ようやく、数学・物理通信9巻6号の送付をした。先週の半ばに準備ができたとこのブログで書いたが、それからでも数日は過ぎた。
昨日、9巻7号の発行の目安がついたので、6号のほうを送付した。なんでも簡単にできているようだが、そんなことはない。
毎回あくせく苦闘である。
メール配布のサーキュラーであるので、費用はかからない。だれからも別に褒めてはもらえないが、だからといって落胆もしてはいない。
ようやく、数学・物理通信9巻6号の送付をした。先週の半ばに準備ができたとこのブログで書いたが、それからでも数日は過ぎた。
昨日、9巻7号の発行の目安がついたので、6号のほうを送付した。なんでも簡単にできているようだが、そんなことはない。
毎回あくせく苦闘である。
メール配布のサーキュラーであるので、費用はかからない。だれからも別に褒めてはもらえないが、だからといって落胆もしてはいない。
一昨夜、就寝しようとしたら、しゃっくりが止まらなくなった。それでしかたなく一度ベットに横たわっていたのだが、起き出して階下に水を飲みに降りた。
これは水を飲むとしゃっくりが止まることがあるからである。それで水を飲んだら、しゃっくりが止まったが、もう少し余分に飲んだ方がいいように思ったので、また、飲みに降りて飲んだら止まっていたしゃっくりがまた起きた。
それでもうしかたがなく、ベットに横になっていたら、いつのまにか眠ってしまってしゃっくりは止まっていた。ところが昨朝起きて水を飲んだら、またしゃっくりが再発した。
今朝もすこししゃっくりを引き起こした月、そのうちにおさまっていた。
先刻、昨日の講演会のyoutube画像を見た。それが終わったので、いまブログを書いている。
エッセイ「自然対数の底、再論(改訂版)」の図の入力が昨日できたのだが、文章が最新版に直っていなかった。それでそこいらを修正するのに今日一日を費やしてしまった。
もっとも途中で友人の「アメリカ滞在の記憶」というエッセイを2回ほど読んだ。これは今月の雑談会で話をしてもらう予定の原稿である。
また、毎日新聞に出たという講演会「武谷思想に学ぼう」の記事のコピーも読んだ。それで今日一日が終わりというわけである。
9月16日の午後に江戸東京博物館(東京の両国国技館の横にある)で講演会「武谷三男の思想に学ぶ」が開催される。
これは武谷史料研究会が主催するものであるが、新聞にそのニュースが出たらしい。史料研究会の方が送ってくれたものをコピーしようとしたがうまくコピーできない。残念。
日本の学校では15時30分くらいまで授業がある。ところがドイツでは13時くらいで授業はおわってしまうという。
2時間30分くらい一日の授業が長いのだ。それで日本人がドイツ人よりも賢くなっているという話も聞かない。
だったら、日本でも時間短縮ができるのではなかろうか。もちろん、日本では学校の掃除を生徒にさせるということもある。それにしても時間の使い方がへたくそなのか不合理なのかもうちょっと見極める必要があるのではないか。
日本の学校ではクラブ活動が長くあったりして、どうも教師をこきつかっているようだ。もっと合理性をもたねばならない。
数学・物理通信9巻6号の発行準備ができた。著者の点検に先ほど送った。
今朝はその発行はいつのことになるか、まったく予定など立っていなかった。夕方にはその見通しがたった。
もっとも9巻7号はまだ予定がたたない。9月中の発行をしたいとは考えているけれども。
「本の索引は重要だ」。これはいくら強調してもしすぎることはない。
いくつかの本においてとても興味深いのだが、索引が完備していない、または、まったくないためにあまり本としては便利でない本がしばしばある。
私はたいてい何かを調べるときに本の索引を利用している。例えば、ごく最近では「平行移動」とかいったキーワードの記述を索引で探している。
本によってはその目次ですら、簡単な章のタイトルだけしかないものもある。こういう本はほとんど何かを探すには役立たない。
小著『数学散歩』を書いたときに、索引をつけなかったのは失敗だった。それでその中から抜粋した書『物理数学散歩』を出したときには、索引をつけた。もっともそれがどれほど役に立っているかは知らない。
『四元数の発見』(海鳴社)にも索引はつけたが、あまり役にたっているかどうかはわからない。でもまったくないよりはいいという程度であろう。
というのは『四元数の発見』は使い勝手がもう一つよくないかもしれないから。ハンドブック的な使用にこたえるのは、今野先生の『四元数』(森北出版)のほうかもしれない。そういう本の使い方があると今野さんの本がでてようやくわかった。
「Tikzでグラフを描く」とはいっても別に難しいグラフを描くわけではない。2次関数のグラフをかくだけである。
昨日、「グラフの平行移動」という数学エッセイのためにグラフを描こうとしたのである。ところがマニュアル通りに入力しているつもりだが、コマンドが未定義だとエラーメッーセージが出て、それのどこが悪いのかわからない。しかたなく別のマニュアルにあった通りに入力したら、直線を描くことができた。
それでも前に入力した部分のどこがわるいのかまだわからなかった。それで、もうひとつマニュアル通りに入力してsinカーブを描かせたら、これもうまく描けた。
それでようやく気がついた。plotというコマンドを使うのだが、latexのときのようにplotの前に\の記号を入れて\plot としていた。これが本当は単にplotで\は必要なかったのだ。
そのことに気がつくのに2時間以上ロスしたこととなった。
副詞的接続詞とはドイツ語の接続詞のことである。
並列接続詞、従属接続詞はもちろん知っていた。が、副詞的接続詞は知らなかった。何年ドイツ語をやっているだろうと情けない。
副詞的接続詞はもしかしたら、副詞と思っていたのかもしれない。どんな語があるのだろうか。
trotzdem(それでも), deshalb(なので), daher(ゆえに), sonst(さもないと), dann(それから)だという。
これらは並列接続詞、従属接続詞とはどうちがうのかというと、副詞的接続詞の後は定動詞が倒置される。
よく知られているように、並列接続詞の後ろでは定動詞の位置は文の2番目の位置にある(注1)。それから従属接続詞の後では定動詞は後置されるので、従属接続詞と定動詞で文の枠をつくっている(注2)。
私はつい先日まで大体その2つだけしか知らなかった。trotzdem(それでも), deshalb(なので), daher(ゆえに), sonst(さもないと), dann(それから)の語を知らなかったのではなく、それが副詞と同じ役割をする,接続詞だと知らなかったのである。
他にもあるのかもしれないが、すくなくともこの6つの接続詞は副詞と同じように見ていいのだという。
あわててもっているドイツ語文法書を覗いてみたが、副詞的接続詞への言及はなかった。
(注1)並列接続詞は並列した主文をつくるので、定動詞の位置は定動詞第2位の原則にしたがっている。
(注2)従属接続詞は副文をつくるので、副文では定動詞は後置されるという風に覚えているだろう。
(付記)ドイツ語は学び始めが難しい言語である。だいたい、こんな変な言葉は学びたくないという気がする。こんな変な言葉を学ぶくらいなら、フランス語を選択すべきであったなどと後悔したものである。
学びにくい科目にもう一つ物理学がある。物理は数学みたいに一本筋の道ではない。
物理においては、およそ重要な概念の定義が循環論的性格もつのでほんとに困るが、そういうものだと達観できるのは何年も物理を学んだ後である。
夜も暑いのでなかなか寝付けないだけではなく、人にいじめられた夢を見た。
環境が夢まで支配することがあるらしい。これは昨夜のことではなく、一昨夜のことである。妻も昨日起きて来て、ひどい夢を見たと言っていたから、寝苦しいと見る夢も悪いものになってくるのだと結論できるのではないかと思う。
そういう心理学の研究があるかどうか知らないが、相関関係はあるだろうと思う。冬の朝などで、布団の中がほかほか暖かいときなどはいい夢をみているのではなかろうか。
これにこりて、ゆうべはエアコンをかけて寝たら、ぐっすりと眠れた。
「あの日のオルガン」という映画を昨日見た。これは東京にあるある保育園が埼玉の田舎に疎開するという昔話である。
なかなか資金が集まらず、映画が撮影できなかったが、何年もかけてかつかつの資金が集まり、撮影された映画だということである。それでもやはり負債が生じているらしい。
映画監督の平松さんが映画の後で、ちょっとしたお話をされた。質問を歓迎されたので、4番目の質問者となり、質問と感想を述べた。
監督には批判ととられたようだが、あまり批判するという気持ちはなかった。9月20日に再度、松山市総合コミュニティーセンターキャメリアホールで2回の上映がある。
1回目は14:30ー16:30であり、2回目は18:30-20:30である。
1945年3月10日の東京大空襲で保育園児の親御さんも亡くなったとあった。自分でつくった防空壕に自信をもっておられた方もあるようなことが、描かれたいたが、これはまったく根拠のない自信であると思われた。すなわち、大火で窒息死した家族もあるのではないかと思われた。
現在の私などは1945年3月10日の東京大空襲を歴史的事実として、いろいろ知っているので、「あぶない、あぶない」と思わず映画の上映中に声をあげそうになった。
ラヴィーアンローズ(La vie en rose)とはフランス語である。日本語に訳せば、「バラ色の人生」とでもなろう。
ラヴィーアンローズは物理学者、武谷三男が生を終えた、たぶん東京都清瀬市の老人施設の名前でもある。
たぶん、日本ではいろいろなところで、ラヴィーアンローズという名前が使われているのではなかろうか。
また、だれかの有名なシャンソン歌手の歌のタイトルにもなっていそうだか、そのことは調べていない。
ラヴィーアンローズはLa vie en roseと知っていれば、ラヴィとアンローズとかが意味的には離れていると知れるが、日本語だけを聞くとラヴィーアンとローズに分かれるように思ってしまうかもしれない。もっとも、フランス語では言葉を続けて発音することは他の言語と比べても多いので、ラヴィーアンローズと一気にいうのだろう(注)。
ドン・キホーテは私などはドンキ・ホーテのようにとってしまうから、知らない言語だとどこで意味上の切れ目があるのかは、すこしその言語を知らなくてはならない。
そろそろ徳島科学史会の論文に着手しなければ、ならない時期となった。これは締め切りが10月1日である。