ノンフィクション作家合田一道氏のお話はいつ聴いても心躍るものがある。豊富な取材体験を基に、数々のエピソードを披露してくれるお話に聴き入ることのできる時間が楽しい。氏のお話を札幌市資料館で聴くことができました。

11月5日(土)、札幌市資料館教養講座は「時代に見る日本人の遺書」と題してノンフィクション作家の合田一道氏が講師を務められました。
合田氏は「日本人の遺書」(この本は5,040円ということでなかなか手が出ない)という著書を発刊されていますが、今回はその中から9名の方の遺書を取り上げてお話いただきました。その9名の遺書とは…、
◇明治42年、塩狩峠の列車事故で身を投じて同乗客を守った「長野政雄」さん
◇昭和20年、特攻隊員として戦死した「前田啓」さん
◇昭和20年、敗戦後の満州で長男を残し自殺した「山本直樹」さん
◇昭和20年、同じく敗戦のため軍人の夫と共に自決した「幸田明・美智子」夫妻
◇昭和22年、ヤミの食糧を拒み餓死した裁判所判事の「山口良忠」さん
◇昭和40年、日高山脈山中で雪崩のために事故死した北大山岳部の「沢田義一」さん
◇昭和43年、「もう走れなくなった」と自殺したマラソンランナーの「円谷幸吉」さん
◇昭和60年、降下する日航ジャンボ機の中で家族に遺書を綴った「河口博次」さん
◇昭和43年、美唄炭鉱事故の時、地底で遺書を書いた「坂口新八郎」さん(氏は平成5年に没)
合田氏はこれら9名の方々の遺書の写しを示しながら、そのエピソードを語ります。そのエピソードとは、可能なかぎり現地に赴き関係者からの聞き取りや、実際にその地に立った感想などを述べられるのです。
例えば、長野さんの場合には、「塩狩峠」を著した三浦綾子さんと長野さんの死の原因について語り合ったということです。
また、前田さんの場合には、実際に知覧の地に赴いて前田さんが知覧基地を飛び立つときの心境に思いを馳せたということです。
さらには、日航ジャンボ機事故が起こった御巣鷹山にも実際に登られたと話されていました。

合田氏のお話から、ノンフィクション作品をモノにするということは相当な取材を基にして作品を描いていることをあらためて知らされた思いでした。こうした豊富な取材が話を面白く深くしてくれているのだと思います。
合田氏の講演があればこれからもできるだけ駆けつけたいと思った今回の講演会でした。
なお、演題の「時代に見る~」とは、遺書そのものが昭和20年代前半ころまでは自分の意思を包み隠し国のため、誰かのため、というものであったが、昭和の後半になると率直に死を恐れ、死を嘆く心情が現れた遺書になっていると合田氏は締め括りました。

11月5日(土)、札幌市資料館教養講座は「時代に見る日本人の遺書」と題してノンフィクション作家の合田一道氏が講師を務められました。
合田氏は「日本人の遺書」(この本は5,040円ということでなかなか手が出ない)という著書を発刊されていますが、今回はその中から9名の方の遺書を取り上げてお話いただきました。その9名の遺書とは…、
◇明治42年、塩狩峠の列車事故で身を投じて同乗客を守った「長野政雄」さん
◇昭和20年、特攻隊員として戦死した「前田啓」さん
◇昭和20年、敗戦後の満州で長男を残し自殺した「山本直樹」さん
◇昭和20年、同じく敗戦のため軍人の夫と共に自決した「幸田明・美智子」夫妻
◇昭和22年、ヤミの食糧を拒み餓死した裁判所判事の「山口良忠」さん
◇昭和40年、日高山脈山中で雪崩のために事故死した北大山岳部の「沢田義一」さん
◇昭和43年、「もう走れなくなった」と自殺したマラソンランナーの「円谷幸吉」さん
◇昭和60年、降下する日航ジャンボ機の中で家族に遺書を綴った「河口博次」さん
◇昭和43年、美唄炭鉱事故の時、地底で遺書を書いた「坂口新八郎」さん(氏は平成5年に没)
合田氏はこれら9名の方々の遺書の写しを示しながら、そのエピソードを語ります。そのエピソードとは、可能なかぎり現地に赴き関係者からの聞き取りや、実際にその地に立った感想などを述べられるのです。
例えば、長野さんの場合には、「塩狩峠」を著した三浦綾子さんと長野さんの死の原因について語り合ったということです。
また、前田さんの場合には、実際に知覧の地に赴いて前田さんが知覧基地を飛び立つときの心境に思いを馳せたということです。
さらには、日航ジャンボ機事故が起こった御巣鷹山にも実際に登られたと話されていました。

合田氏のお話から、ノンフィクション作品をモノにするということは相当な取材を基にして作品を描いていることをあらためて知らされた思いでした。こうした豊富な取材が話を面白く深くしてくれているのだと思います。
合田氏の講演があればこれからもできるだけ駆けつけたいと思った今回の講演会でした。
なお、演題の「時代に見る~」とは、遺書そのものが昭和20年代前半ころまでは自分の意思を包み隠し国のため、誰かのため、というものであったが、昭和の後半になると率直に死を恐れ、死を嘆く心情が現れた遺書になっていると合田氏は締め括りました。