11月3日(祝)道新ホールで開催された「『漢字の力』シンポジウム」に参加しました。基調講演に立った金田一秀穂氏は「外国語を上達させるためには、日本語に精通することが大切」と話された。私もそう思うのですが…。
金田一秀穂氏とは、祖父に金田一京助氏、父に金田一春彦氏と共に日本の言語学の権威の家庭に育った方として有名です。
ところが登壇してきた金田一秀穂氏はそうした権威的なイメージとは真逆なラフな服装で現れました。肩書は杏林大学外国語学部教授となっていましたが、試みにウィキペディアを繰ってみると、そこには「タレント、国語学者、日本語教師、評論家」とあって、最後に杏林大学外国語学部教授と紹介されていました。
なるほど最初はテレビのクイズ番組に出演した話から入ってきました。
テレビ番組では国語学の代表選手的な扱いを受けるそうですが、あまりにもマニアックな問題に苦労しているというような裏話を披露してくれました。
秀穂氏は話の中では触れませんでしたが、権威的だった祖父や父にあるいは反発するところがあり、今のようなライフスタイルを貫こうとしたのでは、と思いながらお話を伺いました。
お話はそのライフスタイル同様、型にはまらず柔軟な発想の持ち主のように感じられました。
例えば「ら」抜き言葉に話が及んだ時、氏は「言葉は私たちが良く暮らすための道具」であるから、「『ら』抜き言葉が氾濫したとしても、心地良ければそれで良いのではないか」と発言し、このことに神経質になることに釘をさされました。そして「すべての世代で言葉は変化してきたではないか」と指摘されました。
また氏は、「漢字は意味を伝える上で優れたアイテム」であると話されました。
例えば、「親子」の場合、どのような関係か分からないが、「父子」、「父娘」、「母子」、「母娘」などと表記することでその関係までも明らかになってくるというのです。
そして「漢字を知ること(語彙を増やすこと)は、言葉が豊かになる」ことだと結論付けられました。
ところで冒頭の秀穂氏の言ですが、以前数学者の藤原正彦氏が日本の学校教育における外国語教育重視の姿勢に激しく反論しているのを雑誌で読みましたが、激しくはなくとも金田一秀穂氏も同じような考えと受け止めました。秀穂氏は「日本人が考える基礎は日本語であり、自国語に精通することによって外国語の上達も可能になる」と説かれました。
私もこの問題については両氏の考えに頷く一人です。
金田一秀穂氏とは、祖父に金田一京助氏、父に金田一春彦氏と共に日本の言語学の権威の家庭に育った方として有名です。
ところが登壇してきた金田一秀穂氏はそうした権威的なイメージとは真逆なラフな服装で現れました。肩書は杏林大学外国語学部教授となっていましたが、試みにウィキペディアを繰ってみると、そこには「タレント、国語学者、日本語教師、評論家」とあって、最後に杏林大学外国語学部教授と紹介されていました。
なるほど最初はテレビのクイズ番組に出演した話から入ってきました。
テレビ番組では国語学の代表選手的な扱いを受けるそうですが、あまりにもマニアックな問題に苦労しているというような裏話を披露してくれました。
秀穂氏は話の中では触れませんでしたが、権威的だった祖父や父にあるいは反発するところがあり、今のようなライフスタイルを貫こうとしたのでは、と思いながらお話を伺いました。
お話はそのライフスタイル同様、型にはまらず柔軟な発想の持ち主のように感じられました。
例えば「ら」抜き言葉に話が及んだ時、氏は「言葉は私たちが良く暮らすための道具」であるから、「『ら』抜き言葉が氾濫したとしても、心地良ければそれで良いのではないか」と発言し、このことに神経質になることに釘をさされました。そして「すべての世代で言葉は変化してきたではないか」と指摘されました。
また氏は、「漢字は意味を伝える上で優れたアイテム」であると話されました。
例えば、「親子」の場合、どのような関係か分からないが、「父子」、「父娘」、「母子」、「母娘」などと表記することでその関係までも明らかになってくるというのです。
そして「漢字を知ること(語彙を増やすこと)は、言葉が豊かになる」ことだと結論付けられました。
ところで冒頭の秀穂氏の言ですが、以前数学者の藤原正彦氏が日本の学校教育における外国語教育重視の姿勢に激しく反論しているのを雑誌で読みましたが、激しくはなくとも金田一秀穂氏も同じような考えと受け止めました。秀穂氏は「日本人が考える基礎は日本語であり、自国語に精通することによって外国語の上達も可能になる」と説かれました。
私もこの問題については両氏の考えに頷く一人です。