北海道新聞の連載記事が受賞したもう一つの賞はJCJ(日本ジャーナリスト会議)賞という賞だそうだ。受賞した連載記事は福島原発事故を扱った「原子力 負の遺産」という記事である。
ウェブ上を繰っていると、北海道新聞の連載「『原子力 負の遺産』~核のごみから放射能汚染まで~」がJCJ賞を受賞した受賞理由が載っていたので、それを転写すると、
「原発問題でも極めて深刻な「核のゴミ」問題に、多角・広範囲の取材と長期の連載で挑んだ。10万年以上の密閉が不可欠な「核のゴミ」を人類がどう取り扱っていくのか。核のごみや核燃料サイクル政策、放射能汚染などをテーマに、丹念で広範囲の取材で現状を浮き彫りにし、問題の所在を的確に伝えた。(2012年4月から13年2月まで、第1部から第6部にわたり朝刊1面で連載)」
と載っていた。
最近の私はブログに投稿するためにかなりの時間を費やしていることに気付く。それは最近の私の傾向として体験したことのレポートより、講演・講座において聴講したことに関するレポートが多くなっているからだ。講演・講座のレポートの場合、単に聴いたことだけではなく、それに対する私の思いも少しは加えねばと思う気持ちがある。そうなるとどうしても慎重にならざるを得ない。そこで自分の考えをより確かなものにするために、その背景を調べたり、他者の考えを確認したりという作業が伴う。
特に今回のように国論を二分(?)しているような問題にはより慎重にならざるを得ない。今日のテーマについても、昨夜から今日にかけてさまざまなサイトに目を通し、賛否両論の主張をいろいろと読ませてもらった。
※ 須藤真哉記者です。
さて、今回の北海道新聞連載の「原子力 負の遺産」は、須藤真哉、関口裕士両記者による連載ということで二人が登壇し、取材の裏側を語った。二人の記者の関心事はその副題にもあるとおり「核のゴミ」すなわち使用済み核燃料の処理には、現在の科学技術では地下奥深くに厳重に密閉した上で10万年以上もの長期間にわたって封印し続けなければ人類にとって安全なものにはなり得ないということだ。
しかもその処理施設が稼働しているところは世界中に無く、わずかにフィンランドのオンカロというところに地下400メートルのトンネルを掘り、2020年の稼働を目指して工事中だというこことだが、日本ではその処理施設を建設する地さえ決まっていない現状だという。
二人の記者は、無害化のために10万年以上も要し、しかもその処理施設の目途も立たない中での再稼働論議に疑問を禁じ得なかったことが連載の発端だと語った。
※ 関口裕士記者です。
さて、私はこの「原発問題」について、これまでもさまざまな講演・講義を聴くたびにその時点、その時点で問題について考えることを繰り返す中で、控えめながら、おずおずと自らの考えを表明してきた。今の時点で原発再稼働ってありなの?と…。今回の講演を機会に、もう一度自分をフラットにして考え直してみることにした。
そもそも私たちが生きている社会は人為的に構成され、その中で私たちは生きている。
私たち一人ひとりは自らの意志を大切にしつつ、社会と和して生きている。(自らの意思を大切にしてとは言いつつも、多分に人為的な社会の動きに左右されてはいるのだが…)私もまたこれまで60数年、自らの意志で生き方を選択し、社会に和しながら生きてきた。
ところが時に、人為的な作用が大き過ぎて(人為的な作用の誤りで)、人の人生や命運までも左右されかねない事態に追い込まれてしまうケースが出てくる。例えばそれは戦争であり、企業公害であり、原発事故などである。私はシリアやアフガニスタンの市民が砲弾に倒れる姿や、チェルノブイリや福島の人たちが自ら住む地を追いやられる姿などを見ると、率直に「他人が人の人生や命まで左右する権利はないだろう」と思うのである。
私はやみくもに原発反対を唱えるつもりはない。核廃棄物の処理が自分たちの世代で処理できる方法が開発されたり、事故が発生した際に他に迷惑をかけることなく対応する技術が産み出された際には他のエネルギーと同様に活用することにすれば良いと思っている。
※ 私の考えを記すときにキーワードとして「人為的」という言葉を使用した。その意味するところは「自然のままでなく、人の手が加わるさま」として使用した。
ウェブ上を繰っていると、北海道新聞の連載「『原子力 負の遺産』~核のごみから放射能汚染まで~」がJCJ賞を受賞した受賞理由が載っていたので、それを転写すると、
「原発問題でも極めて深刻な「核のゴミ」問題に、多角・広範囲の取材と長期の連載で挑んだ。10万年以上の密閉が不可欠な「核のゴミ」を人類がどう取り扱っていくのか。核のごみや核燃料サイクル政策、放射能汚染などをテーマに、丹念で広範囲の取材で現状を浮き彫りにし、問題の所在を的確に伝えた。(2012年4月から13年2月まで、第1部から第6部にわたり朝刊1面で連載)」
と載っていた。
最近の私はブログに投稿するためにかなりの時間を費やしていることに気付く。それは最近の私の傾向として体験したことのレポートより、講演・講座において聴講したことに関するレポートが多くなっているからだ。講演・講座のレポートの場合、単に聴いたことだけではなく、それに対する私の思いも少しは加えねばと思う気持ちがある。そうなるとどうしても慎重にならざるを得ない。そこで自分の考えをより確かなものにするために、その背景を調べたり、他者の考えを確認したりという作業が伴う。
特に今回のように国論を二分(?)しているような問題にはより慎重にならざるを得ない。今日のテーマについても、昨夜から今日にかけてさまざまなサイトに目を通し、賛否両論の主張をいろいろと読ませてもらった。
※ 須藤真哉記者です。
さて、今回の北海道新聞連載の「原子力 負の遺産」は、須藤真哉、関口裕士両記者による連載ということで二人が登壇し、取材の裏側を語った。二人の記者の関心事はその副題にもあるとおり「核のゴミ」すなわち使用済み核燃料の処理には、現在の科学技術では地下奥深くに厳重に密閉した上で10万年以上もの長期間にわたって封印し続けなければ人類にとって安全なものにはなり得ないということだ。
しかもその処理施設が稼働しているところは世界中に無く、わずかにフィンランドのオンカロというところに地下400メートルのトンネルを掘り、2020年の稼働を目指して工事中だというこことだが、日本ではその処理施設を建設する地さえ決まっていない現状だという。
二人の記者は、無害化のために10万年以上も要し、しかもその処理施設の目途も立たない中での再稼働論議に疑問を禁じ得なかったことが連載の発端だと語った。
※ 関口裕士記者です。
さて、私はこの「原発問題」について、これまでもさまざまな講演・講義を聴くたびにその時点、その時点で問題について考えることを繰り返す中で、控えめながら、おずおずと自らの考えを表明してきた。今の時点で原発再稼働ってありなの?と…。今回の講演を機会に、もう一度自分をフラットにして考え直してみることにした。
そもそも私たちが生きている社会は人為的に構成され、その中で私たちは生きている。
私たち一人ひとりは自らの意志を大切にしつつ、社会と和して生きている。(自らの意思を大切にしてとは言いつつも、多分に人為的な社会の動きに左右されてはいるのだが…)私もまたこれまで60数年、自らの意志で生き方を選択し、社会に和しながら生きてきた。
ところが時に、人為的な作用が大き過ぎて(人為的な作用の誤りで)、人の人生や命運までも左右されかねない事態に追い込まれてしまうケースが出てくる。例えばそれは戦争であり、企業公害であり、原発事故などである。私はシリアやアフガニスタンの市民が砲弾に倒れる姿や、チェルノブイリや福島の人たちが自ら住む地を追いやられる姿などを見ると、率直に「他人が人の人生や命まで左右する権利はないだろう」と思うのである。
私はやみくもに原発反対を唱えるつもりはない。核廃棄物の処理が自分たちの世代で処理できる方法が開発されたり、事故が発生した際に他に迷惑をかけることなく対応する技術が産み出された際には他のエネルギーと同様に活用することにすれば良いと思っている。
※ 私の考えを記すときにキーワードとして「人為的」という言葉を使用した。その意味するところは「自然のままでなく、人の手が加わるさま」として使用した。