「さらばノウハウ、さようならハウツー、立ち去れ短絡的今日性…」なんとも勇ましい、刺激に満ちたテーマだろう。論客で鳴る同志社大学教授の浜矩子氏は舌鋒鋭く私たちに問いかけるのだった。
11月17日(日)午後、プリンスホテル国際館において“文理共鳴”というテーマのもと「一橋大学・東京工業大学合同移動講座」が開催され、聴講の機会を得た。
移動講座は、それぞれの大学の同窓生が一人ずつ基調講演を行い、次いで両大学の学長がそれぞれの大学の特徴などについて講演するものだった。私は二つの基調講演のみ拝聴した。
ここでは、一橋大学卒業生である浜氏の講演についてレポートすることにする。
浜氏の正確な講演テーマは「さらばノウハウ、さようならハウツー、立ち去れ短絡的今日性:知的探求で未来を抱きとめよう」というものだった。
浜氏の問題意識は、世の中が実務礼賛の空気に満ちていることに対する問題提起だった。
グローバル化の時代を迎え、企業は他に後れを取るまいと即戦力の人材を求めている。若者はそれに応えるためにハウツーやノウハウに満ちた資格を得ることに血道をあげている。大学もまたそれに呼応するようにビジネススクールのような教育に力点をおいていると浜氏は指摘する。
なぜこうした状況になったのかについて、浜氏はその要因を次のように挙げる。
〔要因1〕グローバル時代の大いなる誤解、〔要因2〕企業のひるみとあせり、〔要因3〕大学の迎合主義と敗北主義、となかなか勇ましい。
そして浜氏は自らの主張を次のように解説した。
グローバル時代は、厳しい競争時代である。弱肉強食、強い者が勝利するサバイバルの時代。それはグローバルジャングルとも、ヒューマンジャングルとも称されるものである。人も金も容易に国境を超える時代。国境なき時代にあって、国境を前提としている政治の世界だけが右往左往している。
そうした中、企業は即戦力を求め、実学を尊ぶ傾向がある。そうした企業の志向性が教育に影響を及ぼしている。
教育界は顧客ニーズに応えるために実学教育に力を入れることになる。浜氏自身、同志社大学においてロシアビジネススクールの校長を兼務している立場として内心忸怩たるものがあるという。
実業の世界においても、教育界においても“隣がやっているか止められない”的な心理が働いているという。
しかし、と浜氏は言う。
グローバルジャングル=大競争の場 それをマクロの視点で見てみると、そこに〔共生〕の生態系という底面が見えてくるという。
現実のジャングルにおいて、動物たちの間には〔共生〕の原理が働き、それぞれが捕食し、捕食される関係ながらも、誰も一人(単一種)だけでは生きていけないという掟のもとで動植物は生きているという。
かつての日本企業は国内で製品として完成させてから、世界へ送り出していた。
しかし、現代は外地で材料を調達したり、外地の人の手を借りたり、日本から外地へ部品を持ち込んで製品化したりして、それを販売している。いわゆる〔made in JAPAN〕から〔made by 日本企業〕になっている。このことをとってみても大いなる〔共生〕の世界となっている、と主張する。
つまり、誰もが、誰かから何かを借りることによって成り立っている世界だと…。
世界的に見て、個人の豊かさで上位にランキングされる国はおしなべて〔人のふんどしで相撲を取る〕国々だという。それはルクセンブルクであり、ベルギーであり、アイスランド、オランダ、デンマークなど小さな国が多いと…。これらの国は大きな企業を誘致することで人々を富ませているという。
アジアにおいてはシンガポール、香港、台湾、インドネシアが同じような態様だという。
それでは日本のような国はどうすれば良いのか?浜氏は次のように言う。
日本のように資本のある国は〔人の土俵で相撲を取らせてもらう〕のだと…。土俵を借りるのだから、当然分かち合いの精神がなければならない。
グローバルジャングルでは〔人のふんどしで相撲をとるか〕、〔人の土俵で相撲をとるか〕ではないか。そしてグローバルジャングルの善き住民となるために掲げるべき言葉は《シェアからシェアへ》である。以前のシェアは市場占有率(人から奪い取る)を指したが、これからのシェアは分け合う(分かち合う)時代へと移行することが望ましい。
グローバルジャングルの時代にあっては、多様性と包摂性(包容力)こそ求められる。これまでの日本は人と違うことが許さない世界で、多様性の部分が弱かった。
奪い合いの世界から、分かち合いの世界へ、感覚的な今日性に惑わされずに進むべきである、と浜氏は締め括った。
聴いている分には大変面白いお話だった。そして「奪い合いの世界から、分かち合いの世界へ」というスローガンにも共鳴できた。しかし…、現実に厳しい競争にさらされている企業人たちの心を捉えることはできただろうか?
経済学者としてのグローバル時代を生き抜くための浜氏の具体的な処方箋を聞きたかったのではないだろうか?などとも思ったのだが…。
その問い自体がノウハウを求める短絡的今日性である、と浜氏は言うのだろうか?
11月17日(日)午後、プリンスホテル国際館において“文理共鳴”というテーマのもと「一橋大学・東京工業大学合同移動講座」が開催され、聴講の機会を得た。
移動講座は、それぞれの大学の同窓生が一人ずつ基調講演を行い、次いで両大学の学長がそれぞれの大学の特徴などについて講演するものだった。私は二つの基調講演のみ拝聴した。
ここでは、一橋大学卒業生である浜氏の講演についてレポートすることにする。
浜氏の正確な講演テーマは「さらばノウハウ、さようならハウツー、立ち去れ短絡的今日性:知的探求で未来を抱きとめよう」というものだった。
浜氏の問題意識は、世の中が実務礼賛の空気に満ちていることに対する問題提起だった。
グローバル化の時代を迎え、企業は他に後れを取るまいと即戦力の人材を求めている。若者はそれに応えるためにハウツーやノウハウに満ちた資格を得ることに血道をあげている。大学もまたそれに呼応するようにビジネススクールのような教育に力点をおいていると浜氏は指摘する。
なぜこうした状況になったのかについて、浜氏はその要因を次のように挙げる。
〔要因1〕グローバル時代の大いなる誤解、〔要因2〕企業のひるみとあせり、〔要因3〕大学の迎合主義と敗北主義、となかなか勇ましい。
そして浜氏は自らの主張を次のように解説した。
グローバル時代は、厳しい競争時代である。弱肉強食、強い者が勝利するサバイバルの時代。それはグローバルジャングルとも、ヒューマンジャングルとも称されるものである。人も金も容易に国境を超える時代。国境なき時代にあって、国境を前提としている政治の世界だけが右往左往している。
そうした中、企業は即戦力を求め、実学を尊ぶ傾向がある。そうした企業の志向性が教育に影響を及ぼしている。
教育界は顧客ニーズに応えるために実学教育に力を入れることになる。浜氏自身、同志社大学においてロシアビジネススクールの校長を兼務している立場として内心忸怩たるものがあるという。
実業の世界においても、教育界においても“隣がやっているか止められない”的な心理が働いているという。
しかし、と浜氏は言う。
グローバルジャングル=大競争の場 それをマクロの視点で見てみると、そこに〔共生〕の生態系という底面が見えてくるという。
現実のジャングルにおいて、動物たちの間には〔共生〕の原理が働き、それぞれが捕食し、捕食される関係ながらも、誰も一人(単一種)だけでは生きていけないという掟のもとで動植物は生きているという。
かつての日本企業は国内で製品として完成させてから、世界へ送り出していた。
しかし、現代は外地で材料を調達したり、外地の人の手を借りたり、日本から外地へ部品を持ち込んで製品化したりして、それを販売している。いわゆる〔made in JAPAN〕から〔made by 日本企業〕になっている。このことをとってみても大いなる〔共生〕の世界となっている、と主張する。
つまり、誰もが、誰かから何かを借りることによって成り立っている世界だと…。
世界的に見て、個人の豊かさで上位にランキングされる国はおしなべて〔人のふんどしで相撲を取る〕国々だという。それはルクセンブルクであり、ベルギーであり、アイスランド、オランダ、デンマークなど小さな国が多いと…。これらの国は大きな企業を誘致することで人々を富ませているという。
アジアにおいてはシンガポール、香港、台湾、インドネシアが同じような態様だという。
それでは日本のような国はどうすれば良いのか?浜氏は次のように言う。
日本のように資本のある国は〔人の土俵で相撲を取らせてもらう〕のだと…。土俵を借りるのだから、当然分かち合いの精神がなければならない。
グローバルジャングルでは〔人のふんどしで相撲をとるか〕、〔人の土俵で相撲をとるか〕ではないか。そしてグローバルジャングルの善き住民となるために掲げるべき言葉は《シェアからシェアへ》である。以前のシェアは市場占有率(人から奪い取る)を指したが、これからのシェアは分け合う(分かち合う)時代へと移行することが望ましい。
グローバルジャングルの時代にあっては、多様性と包摂性(包容力)こそ求められる。これまでの日本は人と違うことが許さない世界で、多様性の部分が弱かった。
奪い合いの世界から、分かち合いの世界へ、感覚的な今日性に惑わされずに進むべきである、と浜氏は締め括った。
聴いている分には大変面白いお話だった。そして「奪い合いの世界から、分かち合いの世界へ」というスローガンにも共鳴できた。しかし…、現実に厳しい競争にさらされている企業人たちの心を捉えることはできただろうか?
経済学者としてのグローバル時代を生き抜くための浜氏の具体的な処方箋を聞きたかったのではないだろうか?などとも思ったのだが…。
その問い自体がノウハウを求める短絡的今日性である、と浜氏は言うのだろうか?