「表現の自由」は憲法に定められた基本的人権の根幹をなすものといってもよいかと思うが、民法においては同じ「表現の自由」もさまざまな配慮しなければならない点が多い。そしてその枠は近年ますます狭められているという印象を持った今回の講義だった。
北大公開講座「表現の自由と秩序」の第3回講座が8月6日(木)夜にあった。この日のテーマはタイトルのように「表現の自由と民法」と題して、法学研究科の池田清治教授が講義を務めた。
池田教授は最初に、表現の自由と法律の関係について次のように整理した。
“憲法”における表現の自由の権利については、強大な国家権力が国民の自由を圧迫しないように国家権力の抑制を求めるように規制されたものであるとして、いわば『国家 vs 国民』という視点で見ることができるとした。
次に“刑法”においては、表現の自由を犯した者に対して刑罰に処するということから、やはり『国家 vs 国民』という視点で見ることができるとした。
一方,“民法”であるが、表現の自由に関わって加害者と被害者が生ずるケースが多々あるが、その判断の基準となるのが“民法”である。ということは、民法は『国民(私人) vs 国民(私人)』という構図となるとした。
次に「表現行為(言論活動)と民法」と題して、時代を昭和30~40年代、昭和50~60年代、それ以降と、時代を三つに区分けして、表現行為と民法の関係の変遷について紹介した(論じた)。
池田教授は、昭和30~40年代を“古典的事例”と称して、いわば今から見ると表現の自由を侵す典型的事例を紹介した。それは、事実適示による名誉棄損、私的生活の暴露といった私からみても当然というような事例だった。
そして古典的事例の特徴としては、違法性の判断が比較的簡明であり、表現の仕方が問題ではなく、表現された内容が問題となるような事例で主であるとした。
続いて、昭和50~60年代を“拡張事例”と称して三つの事例を紹介した。
ここでの事例で新たな言葉が出てきた。それは「総合判断」という単語である。
つまり、被害者の感情に配慮した判例が出てきたのがこの時代の特徴であるという。言葉を替えていうと「表現の自由」から守られるべき利益はその対象となる人たちの「気持ち」まで配慮する必要性が出てきたということだろう。
そして、さらに時代が進んで平成に入ってから、民法に関して「表現の自由」に関する判例はさらに複雑化してきたとされる。
例示として、作家・城山三郎が著した「落日燃ゆ」の中で主人公として描いた元首相・広田弘毅の遺族から名誉棄損で訴えられた民法裁判の件が例示された。これは遺族の「感情」について問われた事件である。
また、北朝鮮拉致事件に関わって、関係者が既に死亡していると報じられた件について、近親者の安否に関わる家族の心情を問うた裁判事例も例示された。
このことは「表現の自由」に対する制限の枠がさらに広げられたと解釈すべきなのだろう。
これらの変遷から感じられるものは、対国家という憲法上、刑法上の「表現の自由」と、対個人に対する「表現の自由」の間にはかなりの隔たりが見られる点である。
対国家ということに関しては、私たち庶民は直接的な関与は大きいとはいえないが、マスコミの報道や著名人の発言を注意深く見守る必要があると思われる。
一方、対個人ということになると、私たちは日常の発言において不用意な発言を慎まなければならないと改めて感じたところである。
特に私のようにブログを発信している者にとっては留意しなければならない点であると強く感じた今回の講座だった。
北大公開講座「表現の自由と秩序」の第3回講座が8月6日(木)夜にあった。この日のテーマはタイトルのように「表現の自由と民法」と題して、法学研究科の池田清治教授が講義を務めた。
池田教授は最初に、表現の自由と法律の関係について次のように整理した。
“憲法”における表現の自由の権利については、強大な国家権力が国民の自由を圧迫しないように国家権力の抑制を求めるように規制されたものであるとして、いわば『国家 vs 国民』という視点で見ることができるとした。
次に“刑法”においては、表現の自由を犯した者に対して刑罰に処するということから、やはり『国家 vs 国民』という視点で見ることができるとした。
一方,“民法”であるが、表現の自由に関わって加害者と被害者が生ずるケースが多々あるが、その判断の基準となるのが“民法”である。ということは、民法は『国民(私人) vs 国民(私人)』という構図となるとした。
次に「表現行為(言論活動)と民法」と題して、時代を昭和30~40年代、昭和50~60年代、それ以降と、時代を三つに区分けして、表現行為と民法の関係の変遷について紹介した(論じた)。
池田教授は、昭和30~40年代を“古典的事例”と称して、いわば今から見ると表現の自由を侵す典型的事例を紹介した。それは、事実適示による名誉棄損、私的生活の暴露といった私からみても当然というような事例だった。
そして古典的事例の特徴としては、違法性の判断が比較的簡明であり、表現の仕方が問題ではなく、表現された内容が問題となるような事例で主であるとした。
続いて、昭和50~60年代を“拡張事例”と称して三つの事例を紹介した。
ここでの事例で新たな言葉が出てきた。それは「総合判断」という単語である。
つまり、被害者の感情に配慮した判例が出てきたのがこの時代の特徴であるという。言葉を替えていうと「表現の自由」から守られるべき利益はその対象となる人たちの「気持ち」まで配慮する必要性が出てきたということだろう。
そして、さらに時代が進んで平成に入ってから、民法に関して「表現の自由」に関する判例はさらに複雑化してきたとされる。
例示として、作家・城山三郎が著した「落日燃ゆ」の中で主人公として描いた元首相・広田弘毅の遺族から名誉棄損で訴えられた民法裁判の件が例示された。これは遺族の「感情」について問われた事件である。
また、北朝鮮拉致事件に関わって、関係者が既に死亡していると報じられた件について、近親者の安否に関わる家族の心情を問うた裁判事例も例示された。
このことは「表現の自由」に対する制限の枠がさらに広げられたと解釈すべきなのだろう。
これらの変遷から感じられるものは、対国家という憲法上、刑法上の「表現の自由」と、対個人に対する「表現の自由」の間にはかなりの隔たりが見られる点である。
対国家ということに関しては、私たち庶民は直接的な関与は大きいとはいえないが、マスコミの報道や著名人の発言を注意深く見守る必要があると思われる。
一方、対個人ということになると、私たちは日常の発言において不用意な発言を慎まなければならないと改めて感じたところである。
特に私のようにブログを発信している者にとっては留意しなければならない点であると強く感じた今回の講座だった。