映画は1974(昭和47)年に完成したが、当時のソ連からの圧力により一部での上映に止まりお蔵入りしてしまった。その後、制作から36年後の2010年になってようやく全国で上映されることになったといういわく付きの映画である。
8月10日(月)午後、「めだかの学校」の8月例会として「映画の中の北海道~昭和編」が行われた。今回取り上げられた映画はタイトル名の「樺太1945年夏 氷雪の門」だった。
映画は、終戦間際の1945年(昭和20)夏、樺太の西海岸に位置する真岡における話である。
日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻によって樺太在住の日本人が脅かされようとしていた。ソ連軍の侵攻から逃れるため、真岡より北に住んでいた避難民は群れをなして真岡に向かった。
8月15日には玉音放送によって終戦が告げられ、樺太全土の婦女子に強制疎開命令が出された。そのため引揚者も順次出たが、8月20日のソ連軍の上陸掃討作戦開始まで間に合わなかった者や、自ら志願して樺太に残ることを決心した者もいた。(それが電話交換手たちなのだが…)
志願して職場に留まり、そのために追い詰められた女性交換手たちは、自ら青酸カリによる自決を選ぶしかなかった。稚内に立てられている9人の乙女の像にも刻まれた「みなさん、これが最後です。さよなら、さよなら」が彼女たちの最後の言葉になったという実話を描いた物語である。
映画でも描かれているが、当時樺太に駐留していた日本守備隊は8月15日の玉音放送によって終戦になったことから、侵攻したソ連軍との間で話し合いによる解決を試みようとするが、ソ連軍は日本側の要請を一顧だにせず樺太全土を武力で制圧していった。
このあたりの描かれ方が、ソ連としては事実の隠蔽を図りたい思惑もあり、日本側にクレームをつけたことによって、結果として完成した映画がお蔵入りになってしまったようである。
あらすじの中でも触れたが、終戦によって樺太全土の婦女子に対して強制疎開命令が出されたにもかかわらず、なぜ交換手たちが自決の道を選んだのかについて、戦後においては種々論議もあるようであるが、当時としてはあるいは当然の選択であったのかもしれない。
たまたま昨夜のことであるが、太平洋戦争をアメリカ軍が記録した記録映画をテレビで放送していた。その中で、どこの島だったか定かではないのだが、アメリカ軍によって島が奪還され、アメリカ軍は生き残りの日本人に対して投降を呼びかけるのだが、投降を良しとしない幼子を抱いた親が、子どももろとも崖から飛び降りるという衝撃的なシーンを映し出していた。そして、日本の新聞はそのことを英雄扱いで報じていることも伝え、アメリカ人たちが震撼するというシーンがあった。
おそらく、当時の日本軍は例え婦女子といえども敵に背を向けて逃げ出すなどという行為がはばかられるような雰囲気が国全体に醸成されていたのではないだろうか?私にはそんな気がしてならないのである。
※ 稚内公園内に建てられいる「氷雪の門」です。
真岡に散った9人の若い交換手たちは紛れもなく戦争の痛々しい犠牲者である…。
実は私はこの映画が全国公開になった2010年にシアターキノにおいて一度見ていたのだが、何度見ても見応えのある映画だった。
8月15日の終戦記念日を前にして、戦争の悲惨さを思い起こすことができた好企画だった。