ポーランドにおいてボレスワフ・ブルフ著「人形」はポーランド文学史上もっとも重要な小説の一つとして今や古典としての地位を築いている。ところが、若い世代はこの「人形」という作品を違った形で解釈し、賛否両論が渦巻いたというポーランド文学界の実情を聴いた。
※ 日本語に翻訳・出版された「人形」です。
北大スラブ研の公開講座はすでに全7回の講座を終えているが、その難解さからなかなか筆が進まず、今夕ようやく第6回目のレポを投稿しようとしている。
5月27日(月)夜、北大スラブ・ユーラシア研究センターの公開講座(統一テーマ「再読・再発見:スラブ・ユーラシア地域の古典文学と現代」)の第6講が開講された。
第6回目は「19世紀文学のポストモダン的再読とその後:プルスの『人形』とトカルチュク『人形と真珠』」と題して東洋大学文学部の小椋彩助教が講義を担当された。
※ 分厚い「人形」の本を手に講義される小椋彩東洋大助教です。
小椋助教の講義は歯切れがよく、私としては最も理解が進んだ講義の一つだった。
ポーランドは歴史的に周辺の国々によって分割統治されたり、独立を勝ち取ったりということを繰り返し経験してきた複雑な歴史を負った国である。したがって、文学界もその歴史に翻弄されてきた側面がある。18~19世紀においては国土の分割、そして民衆の蜂起が繰り返されるも独立が叶わなかった1860年代までを「ロマン主義」の時代と呼び、その後夢破れた文学界は「ポズィティヴィズム(実証主義)」へと移行していく。その後、第一次世界大戦後に一時独立を果たすが長くは続かず、第二次世界大戦後はご承知のように共産圏に組み込まれた時期もあり、真の意味で独立を果たすのは1989年の東欧革命まで待たねばならなかった。
そうした歴史の中で、ボレスワフ・ブルフが「人形」を新聞小説として連載したのは1887年から1889年にかけてであった。3年間も新聞小説として連載したのだからその物語は壮大で、複数の挿話が並行して歴史や思想潮流、政治・社会情勢を語り、ヨーロッパ全体を視野に入れた一大パノラマの様相を呈したものだったが、その内容をごく簡明にまとめた文章を発見できたので、ここに転写することにする。
※ 「人形」の映画化の一場面です。実業家ヴォクルスキ(右)と貴族の末裔イサベラ(左)です。
この小説は、1870代後半のワルシャワを舞台に、実業家でありながらロマン主義も体現するヴォクルスキ。没落貴族の家庭に育ちながら、気高さと貴族の血筋に固執するイザベラ嬢。そして小市民、科学者、ユダヤ人、ドイツ人などが、当時の世相や思想を体現する形で登場します。この小説を通じて、当時のワルシャワの雰囲気をあたかもタイムスリップしたように感じることができます。しかし、この作品は、ポーランドへのノスタルジーを感じる人にしか理解できない小説ではありません。人間の生に対する苦悩、文化や社会の変化と人間の葛藤など、普遍的な課題をプルスは懐の深い眼差しで描いています。イザベラに対してさえもそうです。そうした意味で、この小説はポーランド文学の最高峰の一つであると同時に、一流の世界文学と言っても過言ではないでしょう。ロシアを描いたトルストイやドストイェフスキーの作品が世界文学として愛読されているのも、それらの作品の持つ普遍性が世界の読者の心をとらえるからですが、『人形』にも同じような普遍性、奥深さがあると言えます。
プルスのこの「人形」はポーランドが民衆蜂起に失敗し独立の夢破れた中、革命ではなく、科学や経済の力で社会変革を目指すというポズィティヴィズム(実証主義)の代表作としてポーランド国民に受け入れられたという。それはある意味でポーランド国民の悲哀を代弁した作品といえるのかもしれない…。
時代はずーっと下って、東欧の中にも共産主義に懐疑的な雰囲気が醸成されつつあった1962年オルガ・トカルチュクという女性が生まれ、彼女は20世紀後半から執筆活動を開始した。いわゆる彼女をはじめとした若い世代は1989年の体制返還後に、これまでのポーランド文学が伝統的に描いてきた「祖国の歴史」とは直接関わりのない文章を発表し始めたのだ。ポスト・モダン派の誕生である。その代表作として講師の小椋氏はトカルチュクの「人形と真珠」を取り上げた。トカルチュクは「人形」における歴史描写などは現実的に見えるが、それは表面的なものだけで、この小説の魅力は歴史とは無関係であると主張したという。このトカルチュクの問題提起(?)はポーランド国内において賛否両論が巻き起こったという。それはおそらく世代間によるものなのではないかと思われるが、どうなのだろうか?
今回の講座を通して、スラブ・ユーラシア地域の国々においてはその国の文学界が歴史の変遷に翻弄されてきた姿を見ることができる。(これ以上論ずることは墓穴を掘りそうなので止めにする)