ポーランドの辺地、または国境を接する地域においては、いわゆる「方言」を使った作品を「方言文学」として確立しようとしたスラブ系の少数民族がいたという。二つの民族が「方言文学」を確立しようとした葛藤を聴いた。
5月31日(金)夜、北大スラブ・ユーラシア研究センターの公開講座(統一テーマ「再読・再発見:スラブ・ユーラシア地域の古典文学と現代」)の最終講座(第7講)が開講された。
最終講座は「『方言文学』から『古典文学』へ:スラブ系少数民族文学再考」と題して東スラブ・ユーラシア研究センター長を務める野町素己教授が講義を担当された。
野町氏は「方言」と「言語」について次のように説明された。「『言語』とは、政治的(そのもっとも広い意味において)権限を与えられた言葉の変種、その変種を話す(そして書く)(民族)集団である話者コミュニティが置かれている政治状況を直接的に反映したもの」と規定したが、私流に言い換えると「政治的権力を握った者たちの集団が駆使する言語がその地域の“標準語”となり、そうでない者たちが使う言語は“方言”とみなされた」と解釈するのだが、大きく間違ってはいないだろう。
そうしたことを前提にしてポーランドの北方にスラブ系のカシュブ語を話すカシュブ人がいる。そのカシュブ語圏において、現代カシュブ文学の父とも称されるフロリアン・ツェイノヴァ(1817-1891)が、カシュブ語は独自の言語であると考え、北部方言に基き標準語形成を試み、精力的な執筆活動を展開したが、急進的過ぎたこともあり普及はできなかった。続いて現れたのがヒエロニム・デルドフスキ(1852-1902)だった。彼は「ポーランドなきカシュブなき、カシュブなきポーランドなき」と語って、方言で執筆しつつもポーランド人にも分かるようにポーランド語と同じ文字で執筆するなど、カシュブ文学はポーランド文学の一部であることを意識した活動をしたという。
※ アレクサンブル・マイコフスキ
さらに時代は下って現れたのがアレクサンブル・マイコフスキ(1876-1938)である。彼は「カシュブ的、すなわちポーランド的」と語り、カシュブ地方が文化的にドイツ化することに抵抗し、親ポーランド的立場に立ちながら、カシュブ語での執筆活動に取り組んだ。そうした姿勢がポーランド人からも受け入れられたのだろう。彼の代表作「レムスの生涯と冒険」はカシュブ地方ではもちろんのこと、ポーランド国内においても翻訳され広く国民の支持を得て、今やポーランドにおいて古典の地位を得ているそうだ。
一方、チェコの東部モラビア地方はポーランドと国境を接する地域にあり、やはりスラブ系の民族が住んでいる地域だそうだ。この地域の住民は「ラフ方言」を話していたというが「ラフ方言」の位置づけは①チェコ語である。②ポーランド語である。③チェコ語でもポーランド語でもない。④チェコ語でもポーランド語でもある。というように非常にあいまいな位置づけにある(あった)ようだ。
※ オンドラ・ウィソホルスキ
「ラフ方言」における重要人物は、この地域に生まれた詩人オンドラ・ウィソホルスキ(1905-1989)である。彼の生涯は波乱に富んでいる。詳しくは記すことができないが、1905-1939は生まれ故郷のシレジア(モラビア地方)やチェコの首都プラハ、あるいはフランス、イタリアなどに留学しながらラフ後での執筆活動も開始する。ところがナチスとの関係を嫌いイギリスに亡命を企てるが失敗してソ連に連行され、1939-1946までソ連で生活している。このソ連時代がウィソホルスキにとっては重要である。彼はソ連滞在時に精力的に詩集を刊行している。ということは彼の詩がソ連で受け入れられたことの何よりの証である。その理由は文学的に優れていたことはもちろんだが、彼が社会主義、労働者階級を礼賛し、民族自決、民族言語の創造を唱えたことがその理由とされている。彼はソ連においてラフ語の確立、ラフ民族独立を夢見たようである。しかし、その主張が危険視もされ、1946年にはソ連を追放されチェコ(当時のチェコスロバキア)に帰国することにもなった。彼は帰国後「独自のラフ語・ラフ民族」を放棄することになったという。彼にとっては夢破れたという言うべきか?ただし、文通や執筆は最後までラフ語で行われたという。
この二つの事例を通して、野町教授は次のようにまとめられた。
①「方言」のレッテルを張られた二つのスラブ系マイノリティ文学の優れた作品を世に出す過程は容易ではなかった。
②しかし、結果的には双方とも、いわゆる「言語」による文学と遜色ない作品を生み出している。
③どちらの事例も「○○語・○○文学」という、ややもすれば「自明」にも思われる分類は、実際には恣意的かつ流動的な要素も含んでおり、規定しがたい場合があることを示している。
全7回の講座を通して、スラブ・ユーラシア地域における文学とは、その時々の権力と向き合うことを余儀なくされる中で、苦悩し葛藤を繰り返しながら、自らの思いを発信していくという困難さと対峙していたことを私なりに少しは理解できたかな?と振り返っている。
このシリーズの第1回目の時にも記したが、「文学」+「古典」となると私の最も関心外のことであり、その理解力にはまったく自信が持てなかったが、その稚拙さも顧みず、こうして7回の講座のレポを一応にも書き続けられたことをヨシとしたい。