ご存じNHKの朝ドラで空前のブームを巻き起こしたあの「おしん」の映画版である。主演の濱田ここねちゃん(おしん役)の意外な好演、そして泉ピン子の存在感のある演技で期待以上に楽しめた映画だった。
この映画も旅する前に見た映画である。
道新販売店が購読者に提供する映画会で、2月18日(火)夜、道新ホールで観賞した。
NHK朝ドラをリアルタイムで見た記憶は定かではないのだが、「おしん」の中でもおしんが生家から最上川を下り、酒田の米問屋「加賀屋」に奉公にでる少女期が一つのハイライトであったと思う。
映画版はその時期を中心としたものだった。テレビ版では健気にふるまうおしんの役を小林綾子ちゃんが演じ一躍ブームになった。「あの小林綾子ちゃんの演技に伍する子役はいないだろう」と思いながら映画を観たのだが、映画版の濱田ここねちゃんの演技が意外なほどのはまり役だった。小林綾子ちゃんを超えたとは思わないが、十分に観賞に耐えうる好演であった。
また、この映画ではキャスティングの妙も興味深かった。テレビ版でおしん役だった小林綾子さんが米問屋「加賀屋」の若奥さんに、またおしんの母親役の泉ぴん子さんが「加賀屋」の大奥様を演じていたが、時代の移り変わりを感じさせるようなキャスティグが興味深かった。その中で、泉ぴん子の大奥様役はさすがであった。芸達者の彼女の面目躍如といった演技であった。
ただし、おしんの両親役を演じた稲垣吾郎、上戸彩のキャスティングには彼らのイメージとの落差が大きく、私としては疑問のキャスティグだと思った。
興行成績は思ったほど良くないらしいが、それはどうしてもテレビ版と比較してしまうためと思われる。しかし、長い時間の中で丁寧に描いたテレビ版とわずか109分の映画版を単純に比較するのはどうかと思う。
映画だからこそ描ける奥の深い風景、画面の美しさ、そして主役の濱田ここねちゃんの好演等々…。映画として観るとなかなかの佳作だったと私は思ったのだが…。
重く、辛いテーマである。これまで正義だと固く信じていたことが、突然否定されたとしたら…。ましてやそれが14歳の少女の身の上に起こったとしたら…。残酷な運命に晒された少女ローレの物語である…。
※ 写真の真ん中の少女が主人公ローレです。
話は古くなるのだが、旅する前に見た映画である。
新聞の映画評欄を読んで「これは見ておかねば」と思い、札幌での封切間もない2月16日(日)にディノスシネマズ札幌で見たのだった。
アドルフとは、諸氏もご想像のとおりあのアドルフ・ヒトラーのことである。
映画評の最初に「信じていた価値観が崩れたとき人はどんな思いを抱くのだろう。そして、何を信じて生きていけばいいのだろう。本作はナチス幹部の子供たちがたどった運命に焦点を当てた珍しい作品だ」とある。
少女ローレはナチス幹部の娘である。敗戦したドイツにあって両親は連合軍に拘束され、ローレは幼い妹や弟と取り残される。頼るもののないローレは妹たち4人と遠く900キロも離れたハンブルグに住む叔母の家を目ざして旅に出る。
旅の途中で、ナチス軍がユダヤ人を虐殺する写真を見て、ローレは父親たちが何をしていたかを初めて知ることになる。少女の心の中に微妙な変化が起きていることをカメラは長廻しで描写する。
幼い妹たちを引き連れながらの旅は、ナチスの子供だと知ると冷たく、誰も救いの手を差し伸べてくれない過酷な旅だった。そんな中、彼女が嫌悪していたユダヤ人の青年が窮地を救ってくれ、しばらく旅を共にすることになる。
そして何とか辿り着いたハンブルグの叔母はけっして彼女たちを歓迎してはくれなかった。
映画はハッピーエンドで終わったのではない。余韻を残し、その後もローレは信じていたものが崩れ、世の中が変わっていく様を思春期の彼女はどのような思いで生きていくのだろうか…。
ローレと同じような思いを抱いた日本の少女もあるいはたくさんいたのかもしれない。
たまたま先日、NHK・BSプレミアムで、敗戦後ルバング島で29年間生き抜き生還した小野田寛郎さんのロングインタビューの番組を見た。
彼はあるいは特別な人なのかもしれない。自分が戦前の軍隊を信じて29年間もジャングルの中で生きてきたことに悔いもなければ、そう仕向けた戦前の日本国に対して恨みもないと語る。そうした体験が今に生きているという。
あるいは彼の場合は、曲がりなりにも自らの意志で軍隊に入隊するという選択をした結果ということも影響しているのかもしれない。
対して、ローレの場合は、自らは何も知らない中で過酷な運命に身を委ねなくてはならなかったところにいっそうの残酷さを感じた映画だった。
旅の全てを今終える…
実に一か月以上にわたって旅関連のブログを綴ってきた。さすがにもう日常に還らねばなるまい。そこで今回の旅をもう一度初めから振り返ってみて、今回の旅を終えたいと思う…。
私の今回の旅ブログにしばしばというよりは、ほぼ毎回にわたってコメントをお寄せいただいたあさぎさんからある時、次のようなコメントをいただいた。
「旅する楽しさとは、行く前にプランを考える楽しさ、旅に出て実体験する楽しさ、最後は回想し反芻する楽しさ、の三つの楽しさがある」と…。
※ 今回の旅で私の瞼に強く焼きついたのは何といっても奄美の青い海だった…。
まさにこの一か月間、私は旅立つ前のプランを語り、旅する地からドキュメント風にレポートし、旅から帰ってからは旅した思い出を冗長に語ってきた。
※ 桜島をバックに、フェリー「波之上」は新鹿児島港から出港しようとしています。
※ 沖縄本島を含めて五つの島をフェリーで乗り継いだ証のチケットです。
旅する前のプランを立てる作業は…。
私は「旅する形」にこだわった。つまり、旅行会社が提案する旅の商品に頼らずに、自らの企画で、自らの手配で旅することにこだわった。自分の思うがままの旅を企画した。こうした旅は一人旅だからこそ可能な旅だということも言えそうだ。
そしてもう一つ、今回意識したことは、土地の人たちとの交流を図りたいということだった。
そんな思いを抱きながら、10日間の旅程を立てていった。
空はこの航空便を、宿はこのホテルを、島内の移動手段はこれを、訪れるところの取捨選択は?などなどオーダーメイドの旅は、苦労も多いが、それ自体が楽しみでもある。私はこの時間を大いに楽しんだ。
※ 今回の空の旅はすべてLCCのピーチエアを利用しました。
そして実際の一人旅である。
旅日記の中でも触れているが、海岸線を走っていて飽きがきた。そのときフッとハンドルを山側に切った。このシーンなど一人旅の醍醐味である。
その後、予定にはなかった湯湾岳登山が飛び入りで入ったのも一人旅ゆえの気安さである。
そして思わぬ人との出会いがあった。これも二人以上の旅だと、仲間内の会話に終始してしまって、なかなか土地の人との交流の機会ができないのではないか。
私は3人の方と名刺を交換するほど親しく話をさせていただいたし、その他にも多くの島人たちと会話をすることができた。
私は初めて出会う光景、初めて感じる島の空気を存分に楽しんだ。
※ 各島を巡るために、レンタカー、レンタバイクを駆使した。写真は徳之島を巡ったバイクです。
願わくば、もっと島の人たちの生活を垣間見れるほどの関係になりたいとも思ったが、今回の日程ではそれは適わぬ夢なのかもしれない。
私にとって初めての土地、これまでは関心外の土地だったところが、これからはニュースに島の名前が出てきたときには、これまでとは全く違った思いでニュースに接することになるだろう…。
※ サービスショット。那覇の市場で湯たんぽが売られていたのにはビックリしました。
旅から帰ってきて、私は十分すぎるほど旅の余韻を楽しんだようだ。何せブログの中で2週間もその余韻を楽しんでいたのだから…。
余韻は身体にも及んでいる。いまだに身体の芯の疲れが取れていないような気がする。歳なんですかねぇ…。仕方のないことですが…。
そんな私に昨日、宇検村の若い学芸員から返信葉書が届いた。宇検村の博物館的見どころをイラスト風に描き出した絵葉書には、次のような言葉が添えられていた。
※ 宇検村の見どころがイラストで描かれた葉書が届きました。
先日は、当館にお越しいただき、ありがとうございました。
ご丁寧にハガキも頂き、感謝いたします。北海道から南の島へ行くと、同じ日本なのかと思うほど文化が異なります。いつか、北海道で皆さまにお伝えできたらいいなと思っています。今回は素敵な出会い、有難うございました。また、いらしてください。
こうした葉書をいただけただけでも、今回の旅もまた素晴らしい旅だった、と振り返っている私である…。
五大ご当地麺比べ
旅日記№3において、「四大ご当地麺比べを思いついた」と記した。今となってはつまらない企画だったと反省しているが、企画を立てた者として結末だけはきっちりとしなければなるまいと思った。
今回の旅で千歳から鹿児島へ向かう途中、関空でトランジットの時間がかなりあった中でこの企画を思いついた。「そうだ!大阪、鹿児島、那覇、札幌の麺を食べ比べてみよう!」と…。そこで私は律義(?)に各地の麺を食べ歩いたのだが、ここで少しだけ企画変更をして、大阪、鹿児島、奄美、与論、那覇の5ヵ所を「五大ご当地麺比べ」としてレポートすることにする。
まず、2月23日(日)関空の第一ターミナルビルにあった塩ラーメン専門店を謳う「龍旗信(りゅうきしん)」という店で、店の看板メニュー(?)「龍旗信ラーメン」(750円)を食した。
写真を見るとおり盛り付け方などは洗練された上品さを感じさせた。ところが、味の方は魚介系ということだが、私にはコクも、旨みも感じられず、ただあっさりというなんともインパクトに欠けた印象だった。
翌24日(月)鹿児島市内の繁華街である天文館の一角にある「豚とろ」という店名のラーメン店に入り「豚とろラーメン」(650円)を食した。トンコツベースのスープは炒りタマネギが入っているせいか褐色だったが、コクがありながらもしつこくはなく、また店名どおりにとろけるようなチャーシューが抜群だった。
後で知ったことだが、この「豚とろ 天文館本館」は鹿児島でも相当の人気店らしいことが分かった。知らぬとは恐ろしいことぞよ!
25日(火)は「奄美の食」の中でも紹介したが、博物館的施設の奄美パーク内の「レストランたかくら」で食した「油ソーメン」(850円)である。
写真で見るとおり美しい盛り付けで食欲を誘ってくれる。メニュー名に油と付くので脂っぽいイメージが浮かぶが、けっしてそうではなく薄塩味のソーメンに野菜と薄切りの肉の絡み具合が絶妙でとても美味しく感じられた。もちろんその上にトッピングされたエビの味も…。
3月1日(土)与論島でホテル近くの居酒屋「かよい舟」というところで夕食を摂った。
そこで注文した一つが「ソーメンチャンプルー」(550円)だった。
見た目は「油ソーメン」に似ていたが、こちらはやや油ぽかったように感じた。居酒屋らしく豪快な盛り付けだが、味は「油ソーメン」と似て非なるもの、という印象だった。
最後は3日(月)に食した「沖縄そば」だ。
以前に沖縄に来たときは、空港ビルとか、観光地のそば店で食していたので、今回は地元の人たちが食するようなところで、と思っていた。すると、牧志公設市場の奥の方にお世辞にもきれいとはいえない一軒のそば店「田舎」が「ソーキそば 一杯350円」の看板を掲げていた。見ると若い女性たちもたくさん入っていたので、大丈夫と思い入店した。
出てきたソーキそばは、写真のようにまったく簡素な盛り付けだった。しかし、味の方はかつおだしのスープが美味しく、沖縄そばの旨みが感じられるものだった。私が食している間も次々とお客さんが入ってきたので相当の人気店なのかもしれない。
と5カ所の麺を食べ比べてみたが、麺好きの私としてはどの麺も美味しくいただくことができた。
私が食した時のコンディションもあるが、敢えて私の好みで順位付けをすると、盛り付けの美しさと味で奄美の「油ソーメン」に軍配を上げたいと思う。
続いては、鹿児島の「豚とろラーメン」と那覇の「ソーキそば」が続くだろうか?
あ~ぁ、美味しかった!!
Photo at 那覇
今回の旅で最後の宿泊地となった那覇である。今回の旅「奄美群島を往く」旅は、ある意味では与論島で終わったともいえる。最後の街・那覇をゆったりと巡った。
3月2日(日)の夕刻(19時過ぎ)那覇に入った私は、翌3日の1日だけが那覇での時間だった。1度訪れている那覇では、どこかへ行ってみたいという強い希望もなかったため、レンタサイクルでゆっくり那覇の街を楽しもうと思っていた。
ところが、当日の朝はまたも雨だった。そこで急遽ゆいレール(モノレール)に切り替えて市内を巡ることにした。
まずは徒歩で那覇の中心街「国際通り」に向かった。国際通り沿いにある「那覇観光案内所」でまずは情報を収集しようと考えたのだ。国際通りは中心街とはいえ、まだ朝早い(午前9時頃)こともあり人通りはそれほど多くはなかった。
観光案内所を目ざしていた私だったが、どうやら目ざしていたところが違ったのか見出すことができずにいたところ、「牧志公設市場」に至る案内標識を見つけた。
「牧志公設市場」は前回来たときに行っていなかったところなので、まず訪れることにした。市場は迷路のようにあちらこちらへと伸びていた。しかし、市場とは名ばかりで観光客相手の土産物屋さんが目立つばかりだった。枝道などに入り込むとあるいは違っているのかもしれないが、あまり立ち入らなかった。
その牧志公設市場を抜け、それに続く「新天地市場」という通りを抜けると、なんとそこには「農連中央市場」といういかにもディープな雰囲気を醸し出す看板がかかっているではないか!
昭和の雰囲気を残したノスタルジックな庶民の台所、という謳い文句がウェブ上で踊っていたので、「できれば行ってみたいなぁ」とは思っていたけれど、とても行く着くことはできないだろうと思っていたので、その看板を見つけたときは嬉しかった。
私が着いた10時過ぎはすでに商売の時間が終わっていたようだが、店を閉じ忘れたように野菜の前に座っていた老女としばしお話することができたが、「最近はあまり商売にならないね。でも、ボケ防止のために止めないよ」と商売抜きで話をしてくれたのが嬉しかった。
農連市場は老朽化のため、今年から再開発工事が始まるらしい。ということは最後の見納めだったのかもしれない。
市場巡りを終え、国際通りの片方の終点である「牧志駅」からゆいレールに乗り「首里城公園」に向かった。
「首里駅」から首里城公園へは、バスや車などが入る「守礼門」側とは反対側から入るルートだった。公園内に入り、首里城の城壁に沿いながら正面入り口にある「守礼門」に立った。
守礼門から、案内標識に導かれて「歓会門」をくぐり首里城内へと入った。
そこからいくつの門をくぐったろうか? おそらく4つくらいの門をくぐって「下之御庭(しちゃぬうなー)」という本殿前庭に出た。この後は「首里城本殿」に至る有料ゾーンである。しかし、私は前回訪れていて、再度800円の入場料を払って見る価値があるとはどうしても思えなかったので、思い切ってパスすることにした。
その有料ゾーンとの境にあるのが最後の門「奉神門」である。
その後、城内の「西のアザナ」と称される物見台から遠く那覇市内を望んだが、そこまで来る観光客はそれほど多くなかった。
首里城公園を後にし、近くにあった「金城町の石畳道」を訪れた。琉球石灰で舗装された道だが、往時は10キロちかくあったということだが、現存するのはわずか238メートルと短いものの、往時をしのばせてくれる古道だった。
沖縄地方に来て感ずることの一つであるが、建物の外観がなんとなく汚れているように感じる場合が多い。私の予想では台風など、強い風雨に晒された結果なのでは?と思って見ているだが、果たしてどうなのだろうか?
それとは反対に住宅街など道端に咲くブーゲンビレアの花は、南国らしい鮮烈な赤い色が目にまぶしかった…。
ゆいレールで一度ホテルに帰った後、再び中心街に出てきて、「那覇市立壺屋焼物博物館」を目ざした。別に焼物に興味があるわけではない。徒歩圏内に博物館的施設があったので覗いてみようとしただけである。ところが! この日が月曜だということを忘れていた。月曜休館にぶつかってしまったのだ。今回の旅では、月曜休館にずいぶんぶつかってしまった…。
博物館の周囲は、古くから陶芸の街・壺屋ということで、多くの工房が店を構えていたので、一応散策してみたが私には関心外だった。
この後、私は国際通りにある琉球島唄のライブハウスへ繰り出したのだが、その帰り、国際通りは観光客向けのお土産屋さんが派手な電飾を凝らして客を招いていた。
ということで那覇の一日は終わったのだが、さすがに那覇まで来ると観光客も多く、修学旅行生も目立った。
私はいつのときもそうなのだが、自分が観光客の一人であるはずなのに、観光客が目立ってくるとどうも居心地が悪くなってしまうことに気づく。これはいったいどういうことなのだろう??
Photo at 与論島
与論島でのハイライトは何といっても幻の白い砂浜「百合が浜」に自分の足で立てたことだろう。そして印象的だったのは島中を囲む南国特有の白い砂浜が広がった青い海岸線だった。
3月1日(土)沖永良部島からのフェリーの遅れもあり、与論島のホテルにチェックインしたときには午後3時近かった。その日は島を一周するバスで島の概観を把握するのが精一杯だった。
翌2日(日)、当初はレンタサイクルを予定していたのだが、雨模様ということもあり急遽レンタカーに替えて島内を巡った。
最初目ざしたのは、島内ではちょっとだけ小高いところにある「サザンクロスセンター」といういかにも南国を感じさせる名前の施設を目ざした。ここは島の博物館的施設であるが、5階建ての建物の展望室からは島内が展望でき、しかもその名のとおり南十字星を観測できる北限の施設ということだ。
その隣には「与論城跡」があった。実際に城が完成することはなかったと伝えられているが、城の石垣など一部が残っていた。
その後は、できるだけ海岸線を走った。最初に立ち寄ったのは、赤崎海岸というところだった。通称「サンライズビーチ」と称されているようだ。海岸の砂を見ると、サンゴ礁が砕けたものが一面に広がっていた。
続いて、「クリスタルビーチ」と称される大金久海岸に寄った。
この海岸に寄ったときは午前10時過ぎだった。前日、観光協会の事務所に立ち寄り大潮の時間を問うたところ、13時30分頃と伺っていたので幻の砂浜「百合が浜は見るのも難しいかな?」と思っていた。
ここで幸運に巡り会った。海岸に着いて車を降りたときに、ちょうど傍を通りかかった初老の方が「これからお客さんを百合が浜に案内するが、一緒に行かないか?」と誘われた。「えーっ?浜に上陸できるんですか?」と私が問うと、「まだ広くはないが、浜には上がることができる」と言いますので、同行することにした。
浜から離れること1,500~600メートルと意外に遠かったが、確かに洋上に白い砂浜が現れ、そこへ上陸することができた。長さ7~80メートル、幅2~30メートルの何もない白い砂浜だった。潮の満ち引きによって浜が現れたり、海面下に没したりするという幻の浜に立てたことは本当に幸運だった。
クリスタルビーチの北端に船倉という集落に小さな海岸がある。そこは「鳩の湖」と呼ばれる水たまりがある。そこは鳩が水を飲んだり、水遊びに来ることからそう呼ばれるようになったということだ。
船倉の近くには与論島をこよなく愛したという作家・故森瑤子の墓碑が立っていた。
さらに海岸沿いを行くと、映画「めがね」のロケ地になったという「寺崎海岸」に出た。映画は見ていないが、ロケ地に相応しい光景だと思われた。
まだ海岸沿いの道は1/4ほど残してはいたが、ここから私は島の中心地「茶花地区」へ戻った。
そこの茶花海岸には海に向かって真っ白なモニュメントが立っていた。それは白一色の島として有名なエーゲ海のミコノス島と与論島が姉妹提携していることによるもののようだ。
モニュメントの近くにはミコノス島を代表する光景の白い風車の複製も建っていた。
与論島だけでなく、奄美の島々は観光的にはシーズンオフだったようだ。島は閑散とした印象を私に与えた。
ただ、一週間後には参加者が1,300人にも達するという「ヨロンマラソン」が開催されるとあって街の中には期待感のようなものが漂っていた。何せ、ホテルなどの宿舎のキャパ一杯の選手が訪れるらしい。もし私の旅が一週間遅れた旅程であったらホテルの予約は難しかったかもしれない。
実質およそ半日の滞在だった。島の人たちの島の生活に対する思いなども聞いてみたいと思ったが、、それも適わなく私は午後発の那覇行きフェリーの乗客となったのだった。
Photo at 沖永良部島
沖永良部島はフェリーの時間帯の関係から、島を巡る時間は半日の日程になってしまった。少し急ぎ足になってしまったきらいがあったが、予定していたところはおおよそ訪れることはできた。
2月28日(金)徳之島から沖永良部島の和泊港に着岸したときには正午を回っていた。
島に上陸後、直ちにレンタバイク店に直行し、ホテルのチェックインは後に回して直ぐに島巡りとなった。
レンタバイクは半日だったからだろうか?レンタル料がわずか1,000円という格安で、走行距離が80キロに満たない新品同様のバイクを借りることができたのはラッキーだった。
バイクにまたがり、島の北部にある国頭小学校を目ざした。国頭小学校の校庭には「日本一のガジュマル」があるということで、そのガジュマルとの対面が楽しみだった。
や がて国頭小学校に到着すると、その樹は堂々として校庭の一角を占めていた。まるであのCMの「この木 何の木 気になる木 ♪…」と同じような姿でそこに立っていた。
根回り8m、枝張りの直径22mというスケール感が素晴らしかった。
そのガジュマルからさらに北に向かった海岸に「フーチャ」と呼ばれる一見奇岩にも見える海岸線に出た。フーチャとは、隆起サンゴ礁の洞窟を指すということだ。
私はその一帯のゴツゴツした風景に驚いたが、見どころはその隆起サンゴ礁が浸食されてできた洞窟に東シナ海の荒波がぶつかり時には10m以上もの潮を噴き上げるところらしい。私が訪れたときは海が荒れていなかったため、残念ながらそうした光景は目にすることができなかった。
それよりは、この時点では空が晴れていたため、素晴らしい海の青さが印象的だった。
フーチャを後に、県道620号線という道を淡々と島の南西に向かって走る。行き交う車はほとんどいない。翌日、私が出港することになる「伊延港」を横目に、「西郷隆盛上陸の地」の碑と海岸を見た後、「ワンジョビーチ」というところに寄った。
奄美の島々で見る海岸はどれをとっても素晴らしく、このワンジョビーチもその一つだった。
県道620号線はここから内陸に入り、私は「和泊町歴史民俗資料館」に立ち寄った。ここで沖永良部島がユリの花の栽培で歴史のあることを知った。
しかし、それより衝撃的だったのは、特別展で展示されていた本土復帰に関する展示だった。奄美群島の本土復帰に関して、奄美大島・徳之島と沖永良部島・与論島が一時分離されて、沖永良部島・与論島の復帰が置き去りにされそうな動きがあったそうだ。そのことに対して、沖永良部島々民が一大住民運動を展開してそのことを回避したことを、資料館のスタッフが私に非常に熱心に説明してくれたことが印象的だった。
その資料館で、島の内陸部にある「昇竜洞」へ行く道を訊いたのだが、二人のスタッフはあまり自信がなさそうだった。そこへ幸いなことに詳しい人が資料館を訪ねてきて、親切に教えてくれた。それほど複雑な道を辿って「昇竜洞」に辿りつくことができた。
その昇竜洞は、入場料(1,000円)もしっかり徴収されたが、想像以上に規模も大きく素晴らしいものだった。
昇竜洞からの帰り道も不安だったのだが、付近の住民に尋ねながら、なんとか島を周回する県道620号線に出ることができた。
のある和泊地区への帰途、「ジッキョヌホー」というところに立ち寄った。方言が謎めいていて「何のことだろう?」という期待感があったのだが…。後から調べると「ジッキョヌホー」とは「瀬利覚の川」という意味で、水道が普及する以前に地域住民の水源として重宝されていたということだ。周辺は小公園風に整備されていたが、他所からの者にとってはそれほど意味のあるものとは映らなかった。
「昇竜洞」を見るために内陸に入ったこともあり、島内を一周したとは言い難い沖永良部島巡りだったが、おおよそのところは押さえたかな、という思いである。
翌3月1日の朝「西郷南洲記念館」を訪れ、説明員から90分間にも及ぶレクチャーを受けたことは先に記したが、そこを訪れる前に「南洲神社」を訪れた。その境内には東京・上野の西郷像を小さくしたような犬を従えた西郷像があった。
私はこの後、着岸した和泊港からフェリーが出ると確信していたのが、急に島の対岸の伊延港から出港すると知り、慌ててタクシーで伊延港に向かったのだった…。
Photo at 徳之島
徳之島は今回の旅した島の中では見どころがたくさんあった島だったのではと振り返っている。すでにレポートし終えた西郷隆盛関連を除いても、載せる写真を絞るのに悩まされた私だった。
2月27日(木)徳之島をレンタバイクで一周した。
この日も天候はけっして良くなかったが、幸い雨に見舞われることなく一周することができた。
フェリーを降りて、港から街に入ってきてまず目に入ったのが「徳洲会病院」の大きな建物だった。今回、奄美群島のどの島を訪れても徳洲会病院の大きな建物が目立ち、少なくともこれらの島の人たちは、他の島々に比べて医療面では恵まれているのではないかと思われたのだが…。
徳之島町の中心街の亀津地区のとなりの集落の井之川地区には、この集落出身の大相撲第46代横綱朝潮太郎記念像が立っていた。朝潮というと、太い眉と胸毛に特長があった人気力士だったことをおぼろげながらに記憶している。
その朝潮像が立っている同じ公園に、これもこの島出身のコメディアン八波むと志さんの記念碑も立てられていた。その碑文が素敵に思ったので紹介してみたい。「南国に生まれ 情熱に死す 喜劇に生き 悲劇に死す いまは生きるか 珊瑚礁の花」というものだ。
井之川地区からはひなびた印象の海岸線をひたすら走った。そして島の北端に位置する金見崎にある「ソテツトンネル」を見た。頭上を覆いつくすように林立するソテツの木が見事だった。
さらに島の北端の道路を行くのだが、路傍のところどころに「実業団陸上部練習コース」という表示と共にキロ数が表記されていた。あのマラソンランナー高橋尚子も練習したコースである。
この道路をバイクで走ってみて「なるほど」と思った。それは道路が適度なアップダウンになっていることと、交通量が少ないという利点を感じた。もちろん気候も適しているだろうし、一周31キロの周回コースがとれるのも選定された理由のように思われた。
そこから島の北端部分を西に走り、島の北西端の浜にある「ムシロ瀬」という面白い形をした岩石が露出しているところを見た。岩石に縦横に切れ目が入り、まるでムシロを並べたように見えるためそうした名前が付けられたと説明板には記されていた。
そして行ったり来たりと迷ってしまったのだが、シドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子選手が練習コースとして利用したことを記念する「尚子ロード」の顕彰碑が道路脇に立っていた。
その後、松原地区に入り、この島の名物でもある闘牛が行われる「松原闘牛場」にいたった。円形の闘牛場は小規模ながら観覧席も完備し、闘牛の開催日には相当に賑わうのではと想像されたが、私が訪れたときはもちろん閑散とした感じだった。
続いて、「西郷南洲顕彰碑」、「西郷南洲上陸記念碑」(写真は省略)を通り、「犬之門蓋(インノジョウフタ)」という奇岩が聳え立つ海岸に立った。奇岩に東シナ海の荒波がぶつかって砕け散る様が壮観だった。
そこから島の南側の道路をしばらく走った後、「戦艦大和慰霊碑」を見るため脇道を入り、犬田布岬を目ざした。犬田布岬は島の中でも少し東シナ海に向かい突き出したような位置に立っているのだが、慰霊碑はその東シナ海に向かい無念の叫びを発しているようにも思えた。
続いては、当時世界一長寿を誇った「泉重千代翁の像」を目ざしたのだが、内陸部にあるために狭い道を走り、なんとか辿りつくことができた。享年120歳ということだが、銅像は泉さんの生家の横に立っていた。泉翁は長生きの秘訣を「お天とう様任せの生き方」と「ほうらいの心」と語っていたそうである。「ほうらい」とは奄美方言で「うれしい」という意味だそうである。
泉さんの銅像のあるところから、再び県道が走る海沿いに近い道を走った。
この頃になると、陽はかなり西に傾いていたが、ゴールの亀津地区も近くなってきた。
その道路沿いに黒光りのする牛の像が立派な四阿風の建物の中に納まっているのが目に入った。それはどうやら公の施設ではなく、島内の闘牛大会で優秀な成績を収めた闘牛のオーナーがその活躍を記念して個人として建設した施設のようだった。徳之島における闘牛の存在の大きさを見た思いだった。
最後に、魚津地区にある「ドーム闘牛場」に向かった。この施設も少し内陸部に入った少し小高いところにあったのだが、どうやら伊藤観光という会社が経営する闘牛場のようで、ちょっと寂れた感があったのが残念だった。
最後にサービスショット(?)を!
そのドーム闘牛場を目ざして坂を上っているときだった。路上に見慣れぬものが目に入った。「スワッ!コブラでは!?」と一瞬驚いた。しばらく行き過ぎてから、恐る恐る引き返した。すると、なぁ~んとそれは、何か(自転車か?)のタイヤを引き裂いたものだった。 人騒がせな!! いや、人騒がせと思ったのは私だけなのかもしれない…。
というわけで、徳之島を一周してきた。小さな島ながらけっこう見どころの多い島と思ったが、バイクを借りたレンタ店の店主は「自分は20年もこの島で生活しているが、島のどこにも行ったことがないなぁ…」と語っていた。
島の人にとっては、どうしても島の外に目を向けることが多いのだろうか??
Photo at 奄美大島
写真レポート奄美大島編である。まるまる二日間にわたって巡り歩いた奄美大島を、厳選に厳選を重ねた(?)末の15枚を紹介することにする。
島の景勝地というと、基本的には海岸風景なのかもしれない。ところが私はマリンスポーツをはじめとして、海への関心はいたって低い。 とは言っても島はやっぱり海である。海岸風景を中心とした奄美大島をレポートする。
奄美大島一日目(2月25日)は島の北部を巡った。
西郷隆盛の謫居跡のあるところの龍郷集落からほど近い龍郷湾に面して三沢あけみという歌手が歌いヒットした「島のブルース」の歌碑が立っていた。作曲したのは沖縄生まれ、龍郷町育ちの渡久地政信という方で歌碑の横に彼の顕彰碑も併せて立っていた。
次に私が訪れた中では奄美大島の最も北部に位置する「あやまる岬」である。奄美十景の一つである岬からの眺めは素晴らしかった。
あやまる岬に至るまでの一帯はソテツが群生していた。「ソテツジャングル」という標識が立っていたが、奄美では食糧難の時にソテツの実や幹を原料とした「ソテツがゆ」や「ナリ味噌」を食べて切り抜けてきた、との説明書きが傍に立てられていた。
続いて、あやまる岬からそれほど離れていないところにある、奄美大島では最も美しい海岸といわれている「土盛海岸」に寄ってみた。海岸には二人連れのカップルが佇んでいたが、シーズンオフとあってひっそりとしていた。
「奄美歴史民俗資料館」、「宇宿貝塚史跡」、「奄美パーク」、「奄美民俗村」と巡ったが、博物館的施設の「奄美パーク」内にソテツの実がなっているところを造形で模したものがあった。じつは奄美歴史民俗資料館でソテツの実をもらったのだが、どのように実がなるのか興味があったのだが、この造形を見てその謎が解けた思いだった。
翌二日目(2月26日)は島の南部を巡った。
南部は、面積は広いものの、人口が少なく、海岸道路(山道)ばかりを走っている印象だった。
まず訪れたのは、名瀬地区郊外(市街から5~6Km?)に位置する「大浜海浜公園」である。雲がどんよりと垂れ込め、南国特有の真っ青な海を拝むことができなかったのは残念だった。
道路は海岸線に沿って、大きく曲がりくねっており、そのときどき見事な海岸線を眼前に現してくれた。写真は「国直海岸(思勝湾)」である。
名瀬から海岸線を走ること20キロくらいだろうか、東シナ海に面した大和村にいたった。
ここでは「奄美野生生物保護センター」(改装中のためPRフイルムを見た程度)と「群倉」を見た。群倉は現地語(奄美方言)で「ボレグラ」と言うそうだ。高倉式の穀類などの貯蔵庫として活用された倉庫ということだ。
海岸風景に飽きた(?)私は内陸部へと車を乗り入れた。そして奄美大島の最高峰「湯湾岳」(694.4m)を目ざした。途中の道路脇には、多くの樹木に混じりヤシの木がそこにあるのが当然というように立っていた。おそらく自然に生えて来たものと思われる。南国らしい光景である。
その湯湾岳の頂上から奄美大島内陸の山々を見た光景である。
山頂付近には「奄美マングースバスターズ」が仕掛けたマングース捕獲のためのワナを見ることができた。
山を下り、島の南に位置する宇検村に入った。この辺りの海岸線は非常に複雑で、そのことで何度も美しい光景を目にすることができた。
写真は宇検村に面する「焼内湾」の光景である。
こちらは隣の瀬戸内町に属する「伊須湾」の光景である。
瀬戸内町から北上して、奄美市住用町地区には「マングローブ原生林」が広がっている。写真は展望台から原生林全体を撮ったものである。
最後に名瀬市内に帰ってきて、「おがみ山公園」に上った。公園の展望台から名瀬市内を望んだ図である。
南国の光景を写真に撮るにしては天候がイマイチだったのが惜しまれる。いずれもが色調が暗くなってしまった。
二日間、奄美大島をレンタカーを駆って巡って歩いたが、合計250Kmくらい走ったようだ。奄美大島の全てを見たとはとても言えないが、ぐるっと一周したことによって、概観だけは掴めたかな?と思っている。
Photo at 鹿児島・桜島
私があれこれ語るより、その地で撮った写真の方が雄弁にその地を語ってくれるのかもしれない。そこで本日からは鹿児島、そして奄美群島を旅して印象的だったところを写真でレポートすることにする。
今回の鹿児島では何といっても桜島がメインだった。その桜島の火口部分である御岳が薄曇りの中でなかなか全貌を見せてくれなかった。一番よく見えたのが桜島からの帰りのフェリーからだった。
その御岳に私が最も近づいたところ(烏島展望所)で撮ったのがこの写真である。ちなみにこの展望所の名前の烏島は独立した島だったものが大正大噴火でもって飲み込まれてしまい、その島があったところに展望所を造ったということだ。
桜島は度々噴火を繰り返しているが、人々を震撼させた大噴火としては1914(大正3)年の死者58名を出したという大正大噴火が記憶されている。その時の溶岩は錦江湾まで流れ出したが、そのときの溶岩が今も荒々しい形で海辺を覆っていた。
その荒々しい溶岩を見ながら歩く「溶岩なぎさ遊歩道」はその後も続く桜島噴火で生ずる火山灰が遊歩道の両側に溜まっていたが、清掃が追いつかないようだ。こうした光景は鹿児島市内でもところどろで見ることができた。
※ 遊歩道の両側に黒っぽく見えるのが火山灰です。
遊歩道には、たくさんの詩碑や句碑が立っていた。桜島を訪れた詩人たちが創った短歌や俳句のようだ。短歌とか俳句の世界にはまるで弱い私だが、かろうじて水原秋櫻子の名前だけは記憶にあった。彼がたまたま明治43年5月に桜島を訪れ時に大噴火に遭遇したらしい。その時に詠んだ句が「さくら島 とどろき噴けり 旧端午」という句だそうだ。その句碑に俳句心をうずかされた私が創った句が「桜島 その雄姿より ブリ大根」というなんともおバカな俳句である。(私は一人含み笑いをこらえることができなかった…)
この桜島巡りに私はレンタサイクルを利用したのだが、帰りは自動車道のスーパーマグマロードというところを走った。すると、散水車が水を撒きながら走行していた。道路上に薄く溜まっている火山灰が舞い上がるのを阻止する措置のように思えた。
※ 散水車が通った後のスーパーマグマロードです。
桜島名物の桜島大根は収穫が終末を迎える頃だった。道の駅の庭に観光客用に栽培されていたが、すでに大根の花が咲いている状態だった。
鹿児島・桜島ともにそれほど桜が目立ったわけではないが、公園の一角に咲いていた桜をカメラに収めた。
鹿児島市内の市電は走行路内に芝生を敷いていることで知られている。季節が季節なので少し枯れ気味ではあったが、夏の暑さや粉じん対策のためにそうした措置をとっていると聞いた。
最後は、夕方6時発の奄美大島行きフェリーに乗って、出航直後に太陽が鹿児島市内をバックに沈んでいくところを撮ったものである。