西郷南洲の軌跡を追って
ある意味で今回の旅は西郷隆盛の軌跡を追う旅でもあった。特に最後に訪れた沖永良部島の「西郷南洲記念館」の説明員から受けた90分のレクチャーは奄美群島での西郷南洲翁を深く知ることのできた貴重な機会だった。
今回の旅ではまず鹿児島市にある「西郷南洲墓地」を訪れることから始まった。続いて訪れようと思っていた「西郷南洲顕彰館」は月曜休館にぶつかってしまい見学できなかったのは残念だった。
その後、以前訪れた時にはバスの窓からしか見ることのできなかったメインストリートに立つ西郷隆盛像を傍から仰ぎ見ることができた。上野の西郷さんはどちらかというと親しみのある西郷どんだが、鹿児島市の西郷像は軍服をまとった威厳のある西郷隆盛像である。
※ 西南の役で戦死した2023名の将士が眠っている「南洲墓地」です。
※ 月曜休館だったために残念ながら入館できなかった「西郷南洲顕彰館」の前面です。
※ 鹿児島市立美術館近くのメインストリートに立つ「西郷隆盛」像です。
またこれは史跡ではないが、桜島には道路際に面白い形の溶岩がいくつも残っているがその一つを「西郷岩」と称しているのがあった。まあこれは鹿児島人に人気のある西郷どんにあやかった感じであるが、西郷に関わりあるものを見たということで挙げておくことにする。
※ 桜島の観光道路脇にあった「西郷岩」です。そう見えますか?
奄美大島では藩の命令で蟄居を命ぜられおよそ3年間を過ごした龍郷町の「西郷隆盛の謫居跡」を見学した。(ここで私は島時間を体験させられたのだが)この時は流罪ではなく安政の大獄の処分から西郷を逃がすための藩の措置だったので、住居もそれなりの家が用意され、米も藩から支給されるなど、割合と優雅(?)な生活だったようだ。そのこともあってか、ここでは愛加那という妻をめとり二人の子をもうけている。
また、西郷を乗せた船が龍郷湾の阿丹崎にある松にとも綱を結んだという「西郷松」があるとのことだったが、地元の人に聞くと「もう枯れてしまった」ということで松の根元だけが残っていた。
※ 奄美大島の龍郷町にある「西郷隆盛の謫居跡」に復元された住居です。
徳之島では沖永良部島に行くまでの約2ヵ月半をこの島で過ごしているが、その謫居跡である岡前という集落に「西郷南洲先生謫居之跡」の碑、そして上陸した湾屋港には「西郷南洲翁上陸記念碑」が立てられていて、それぞれカメラに収めた。
※ 徳之島・岡前地区に立つ「西郷南洲先生謫居之跡」の碑です。
※ 徳之島・湾屋港近くに立つ「西郷南洲翁上陸記念碑」です。
最後は沖永良部島である。
こちらは当時の藩主の島津久光公の怒りをかっての遠島処分だったので、西郷にとっても厳しい日々だったようだ。
まずは、現在の伊延港の近くに「西郷隆盛上陸の地」碑を訪れた。
次いで、次の日沖永良部島の中心地である和泊地区にある「南洲神社」、そして最後に「西郷南洲記念館」を訪れた。
この西郷南洲記念館の庭には、西郷が閉じ込められたという独居房(牢獄)の複製が展示されていたが、夏の暑さや冬の寒風から逃れる術のない独居房で座禅・瞑想する西郷は酷く痩せ衰えたという。しかし、西郷の仁徳は監督役(警察官)である土持政照を動かし、沖永良部島での後半は境遇が改善されていうことだ。
※ 沖永良部島・伊延港近くに立つ「西郷隆盛上陸の地」碑です。
※ 沖永良部島・和泊地区の独居牢の中で座禅を組む西郷の様子を再現したものです。
※ 和泊地区にある「西郷南洲記念館」のエントランスです。
※ 「西郷南洲記念館」内に展示されている西郷の曾孫にあたる陶芸家の西郷隆文氏が作成した西郷像です。
西郷は沖永良部島での1年半にわたる過酷な牢獄生活の中で、彼の確固たる思想である「敬天愛人」を完成させたといわれている。また、彼は島の人たちへの教育にも熱心に取り組み、「与人役大体」、「横目役(警察官)大体」、「社倉法」などを島民に伝授してくれたと記念館の説明員である宗氏は熱心に私に伝えてくれた。
島の和泊地区にある「南洲神社」はけっして豪華なものではないが、そうした西郷の島への貢献に感謝した島民たちが浄財を持ち寄って建設したものだという。
※ 「西郷南洲記念館」の近くに建つ「南洲神社」の社です。
沖永良部島での牢獄生活も1年半が過ぎようとしていた頃、西郷は藩の事情もあり赦免され国元へ帰還を果たした。その後、明治維新に向けて獅子奮迅の活躍で大政奉還の立役者となったことは多くの人の知るところである。
西郷の二度にわたる遠島処分を受けた地を今回訪れることができたことは、今回の旅を一層豊かなものにしてくれたと思っている…。