きょうアユ釣りの解禁日を迎えた地方の河川、釣果の方はどうだったのでしょうか??釣れまくってもう沢山!なんて嬉しい悲鳴をあげたところなんかあったのでしょうか。 でも大半のところは渋い釣りに終始したのではないかと推察つかまつりますが、果たしてどうだったのでしょうか?
みちのくもあと一か月後に解禁となります。 なりますが、持ちたくても期待はもてません。 釣れる釣れないという以前にセシウムの検査をクリアしないと、楽しい釣りはできません。 量的なものは今後数年間、初めから期待はできないでしょう。
しかし、広瀬川の水量はますますひどくなっています。 時々雨は降るのですが、焼け石に無理な状態です。
1枚目の写真は分流の中ほどから下流域を撮ったものです。 分流の下流域はもう完全に岩盤底で、掘られた溝にのみ細々と水が流れているという感じです。
次はいつものところから(といっても、右岸側からですが)の分流の上流域の様子です。 もう完全に干上がっています。 伏流水となっています。
下流側を見たところです。
次は牛越橋の上下流の様子です。 上流域ではライフジャケットを着た大人たちが集まって何かしていました。ここでのこの浅さではライフジャケットは不要かと思いますが、それでもきちんと着用しているところを見ると、お堅い職業の皆様方か、川遊びの指導者養成講座の参加者とかでしょうか。
こちらは下流域ですが、若者たちの二つのグループが飲み会をやっていました。
この付近の堤防に寝ている酔っ払いが一人いました。 なぜか髪の毛が虎刈りなのです。 きょうの気温なら酔っぱらって寝たら気持ちよかったでしょう。 ある意味羨ましいとも思います。
きょうの豊齢学園ふるさと文化コースの学習は「四ツ谷堰用水」でした。この用水は近くを流れているので、とっても興味を持って話しを聞きました。とってもためになる授業でした。
仙台のまちなかを流れる広瀬川は、武家や町人の住宅地よりも低いところを流れているので、広瀬川の水を取水するには上流域から引いてこなければなりません。 そこで四ツ谷という地区から取水し、平堀と隧道によって八幡町まで引いて来て、北六番町までを取水の本流とし、その本流から分流や支流をつくり、まちなかに水を通したといいます。
寛永4年(1627年)のことです。三角測量やサイフォンの原理を利用して導水したというからすごいことです。
仙台は四段の河岸段丘からなるまちですので、用水は本流から、その高低差をうまく利用して仙台城下のまちなかを流れるようにしていたということです。
おもしろいのは、まちなかの用水はまちなかだけのもので、お城とは関係なかったということです。仙台城は山城ですので、取水は山から行い、武家や町人とは一線を画していたとのこと。
むかしだってまちづくりは大変なのですね。国内(藩内)の治水と利水、城下町の生活用水の確保というインフラ整備に励混ざるを得なかったわけです。 でも今はむかしの名残はほとんどが地下に、暗渠になってしまいました。これはちょっと残念ですね。
人間らしい生活を取り戻すためにも、まちなかの親水をきちんと考えるべき時に来ていると思います。