いやあ本当に朝夕は涼しくなりましたね。とっても過ごしやすくなってきました。別に歓迎しているわけではないのです。どちらかと言えばまだ早い!と突っ込みを入れたくなるくらいです。
朝方ン散歩の時は虫の音とセミの鳴き声とが共存していましたが、夕方学校での打ち合わせが終わっての帰りの堤防は、どうしたというのでしょうか、もうすっかり秋の気配でした。セミの鳴き声が一つもないのです。全て虫の音でした。
いやあ、これには参りました。まだ早い!と言いたいのですが、自然はニンゲンの気持ちなんかにお構いなく動いていくのでしょうから。意外と人間以外の生物の味方というか、そっちの方を重視していたりして。それもこれもニンゲンの所業に愛想を尽かしてでしょうが。
ブラジルの大統領の”アマゾンは燃やしておけ”という発言にはびっくりしましたね。火事になっているというのに消火をしなくていいというのですから。まあ一応ローマ法王や世界的な非難に屈服したようですが。
びっくりしたといえば、アメリカでは先月までに銃乱射事件、銃による大量殺人事件が発生しているというのに、まあこんなことは毎度のことなのでべつにびっくりすることでもショックを受けることでもないのかもしれませんが、今銃の展示会が盛んに開催されてるようなのです。
こういう物騒な世の中だからこそ、自衛しなければならない、自分の身は自分で守らなければならないということになってしまうからでしょうね、銃を無くそうなんて発想は一部のニンゲンの浅はかな考えだということになるのでしょうか。
とくに女性や高齢者で銃の展示会は盛り上がっているようです。もうなにをかいわんやですね。アメリカで銃の刀狩(=銃狩り)を行うことは不可能なのでしょうね。絶対に懲りないようですから、何人が意味なく殺されようとも。
銃の所持を規制強化するのではなく”規制緩和”をする方向というのですから私には呆れてものが言えません。こうここまでくれば好きなだけお互いに殺し合いをすれば!!!とでも言いたくなります。
移民で成り立ってきた国なのに、今度は移民同士で排斥しあい、殺し合うようになるのでしょう。1960年代頃までですか、露骨な黒人差別が、差別ではない”区別”だとかいう理屈でまかり通ってきたのですから。 昔は至る所で黒人暴動が起きたものでした。暴動には略奪がつきもので、その規模の大きさに子ども心に呆れてみていたものでした。
まあ考えてみればアメリカという国は、先住民を殺し尽くすことで成立してきた国家ですから、それをいくら西部開拓とか、フロンティア精神とか言い繕っても所詮は先住民族を騙し略奪し殲滅し土地を奪い取っていって出来た国がアメリカですから。
もともと救いのない国なのです。極論すればならず者国家なのです。いくら民主主義国家だなんて言っても、戦後史を見ても常にどこかの国と戦争していないと国家が一つにまとまらない国なのかもしれませんし。
そう考えるとやはりバックには、底の底には経済がすべて、つまり常に最高の金を儲け続けることこそがアメリカ社会の暗黙の中で求められていることで、金儲けに奔走狂騒している一部のグループが政治を牛耳っているからでしょう。
また話しが逸れてきました。最早救いようのない国になり果ててしまったということです。その典型が頂点がトランプです。 でもその国に追従盲従する国があるのですから、もはや・・・・。
きょうから学校は給食が再開です。きょうも子どもたちは元気に登校していきました。でも坂になっているためか、信号待ちで数人は持参している水筒で水を飲みます。中にはもう疲れたという格好の子どももいます。 正直に学校に行きたくないなという子もいました。
先週の金曜日も結構荷物はあったとおもうのですが、きょうも荷物は多いですね、月曜日ですから。でも小学生はまだ前かがみになっている子の姿は見ません。中学生からです、きょうか初冬の入っているリュックが重いのでしょうね、くの字になって歩いて行きます。育ち盛りの子どもたちがこれでいいのでしょうか。
教科書は学校に置いておくと言っても、じゃあ復習や予習はどうすればいいのか、勉強する機会を奪ってしまうことにならないか。塾等に行く子どもが多くならないかとか、この前新聞でも話題になっていたようです。
(これもトリ?) (朝から多かった)
妙案はありませんが、世の中の知恵者が集まれば何らかのいい方法が見つかるはずです。 それとともに教科書の再利用ということも考える必要があるのではないでしょうか。先輩から後輩に教科書を引き継いでいくという慣習が出来上がれば何か変わっていくような気がします。
下水管の工事をまだやっていました。
澱橋下流のトロ場で