津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・長(永)瀬氏

2009-10-12 09:46:25 | 歴史
 「細川家家臣略歴」や「先祖附」では長瀬氏とされているが、「肥陽諸士鑑」では永瀬氏との表記がある。その家祖は志水宗加入道清久である。清久の三男・雅楽の子牛之介が江戸に赴く時舟の事故で亡くなり、嫡子新九郎が家督したが「不満・若年絶家」し、妹蝶の壻・長瀬助之丞がこれを継ぐことが許され、あに新九郎の三百石を家禄とした。

      宗加
 ---+--志水清久---+--九左衛門---次郎兵衛(九兵衛)===久馬・・・・・→凍家
   |          |
   |          |日下部与助
   |          +--元五---+--新之允・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→新九郎家(嫡家)
   |          |       |
   |          |       +--権之助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→隼太家
   |          |       |
   |          |       |新之丞克重
   |          |       +==恵重---吉之允・・・・・・・・・・・・・→源九郎家
   |          |       |        ∥     
   |          |       |       圓光院(筑紫重門・細川幸隆女兼夫婦の女)
   |          |       |
   |          |       +--久馬(九兵衛為養子)
   |          |
   |          | 雅楽      牛之介       
   |          +--恵之---+--元茂--+--新九郎
   |          |       |      |
   |          |       |      +--●蝶(兄・新九郎跡目相続)
   |          |       |          ∥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→長瀬家
   |          |       |        長瀬助之允
   |          |       |
   |          |       +--恵重(元五為養子)
   |          |     
   |          +--要善院日富 志水家菩提寺・真浄寺創建
   |   
   |            志水清久・子
   +--悪兵衛清秀======加兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→八代松井家家臣・志水家 


  志水雅楽 
  志水牛之助
    1、助之允 (1)御詰衆 三百石 (真源院様御代御侍名附) 
           (2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・永瀬助丞
           (3)有吉頼母允組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)・・永瀬助丞
         細川光貞公宛行状(寛永十八年)三百石 永瀬助丞宛
    2、助左衛門  御詰衆・九番佐久間平右衛門組 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、助之進  著作:長瀬助之進覚書(一名:妙応院様御備頭え御茶被為頂戴節御意之覚)
    4、助左衛門・正勝(初・弁之助)
    5、助左衛門(養子 喜平太・正遊) (1)八百石 御側御中小姓 屋敷・手取
                          (2)御長柄頭 八百石
                                            以下略

   
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芥川龍之介「忠義」

2009-10-11 09:28:37 | 歴史
 細川宗孝の不幸な事件について、加害者側からの視点で書かれた芥川龍之介の小説が「忠義」である。宗孝の悲惨な状況の描写は果たして真実なのか、資料があってのことなのか・・・
       www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/173_15216.html

熊本大学の図書館報「東光原」の№20および21に、西田耕三氏(当時熊本大学教授)の、事件にかんするレポート「宗孝の死」がある。
       http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/tokogen/
ここで芥川の「忠義」についても紹介されているが、出典と思われる幾つかの資料も紹介されている。「八代蜜柑」などにどのように記されているのか、早々に調べたいと思っている。上妻文庫に所載されているが、これもまた膨大な資料でコピーが大変だ。
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清源院さま

2009-10-10 14:00:27 | 新聞
 今日の熊本日々新聞は、「細川重賢の妹・清源院の手紙みつかる」と報じている。まったくの偶然だが「宣紀の憂鬱」で取り上げた子供のひとりである。天明四年甥で宇土藩主・和泉守立禮に宛てた書状である。立禮はのち本藩を相続(天明七年)して斉茲になるのだが、こちらも偶然だが県立美術館・永青文庫展示室で斉茲に関する展示が始まっている。

2007-08-09のブログ「清源院様湯治の旅」を書いた。一部再掲する。

 清源院とは細川宣紀の第九女(幾姫・軌姫)で、宇土細川家五代藩主興里に嫁いだ。延享二年正月の事だが、その年の十月興里は亡くなっている(22歳)。わずか十ヶ月にも満たない結婚生活である。その清源院が天明二年肥後国日奈久温泉(現八代市)に湯治のため熊本にやってきている(58歳)。歳の変わらぬ義弟興文(六代藩主・当時は隠居し月翁)が、大津(熊本市の東・現大津町)まで出迎えている。その旅の行き返りの様子を記した紀行文「海辺秋色」「山路の青葉」が残されている。ぜひ読んでみようと思っている。

 処で宗家の細川治年(九代当主)室は、宇土の興文女「埴姫」である。男子は各々夭折したため後継ぎ問題が起る。「埴姫」の弟、即ち興文の子立禮(宇土家七代当主)に白羽の矢が立つが、なぜか新田藩を慮って容易に受けなかったらしい。六代宣紀が新田藩から宗家に入り、宗孝・・重賢・・治年はその血脈の中にある。しぶる立禮を応援したのが清源院であった。立禮は宗家に入り十代斎滋となる。天明七年十一月のことであった。

 清源院は寛政六年七十歳で江戸で没している。夫君の分まで長生きした。


手紙の内容によると義弟興文の容態(中風)を尋ねたりしている。興文は翌天明五年の正月に死去した。貴重なこの書状は宇土市に寄贈されるらしいが、ぜひとも本物にお目にかかりたいものだ。
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宣紀の憂鬱

2009-10-10 07:48:50 | 歴史
 宣紀には正室が無い。以下の一覧は宣紀の子供達である。宣紀は細川新田藩・細川利重の二男だが、綱利により5,000石が内分され寄合衆となった。宝永五年正月十九日に綱利の養嗣子となり、正徳二年七月十一日に家督した。六人の妾に八男十三女をもうけた。処が男女十人が夭折している。

   竹之助(夭折・三歳)
   蔵(夭折・六歳)
   亀(夭折・六歳)
   八三郎(夭折・六歳)
 ・・・養子となる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   名世(夭折・五歳)
   萬次郎(夭折・一歳)
 ・・・家督相続す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   村(夭折・三歳)
   富(夭折・三歳)
   勝(夭折・三歳)
   宗孝(七代)
   花(松平讃岐守頼恭室)
   喜和(宗対馬守義如室)
   重賢(八代)
   千代(安藤対馬守信尹室)
   豊、常、岑(織田山城守信舊室)
   紀休(65歳)
   衛世、悦(長岡助右衛門是福室)
   幾、常、成、軌(細川大和守興里室)
   津與(小笠原備前長軌室)
   興彭(長岡図書興行・養子)
   龍五郎(家老・木村半平戸豊持養子・夭折三歳)

 宗孝の誕生を迎えるまで、宣紀は九人の子供を亡くしている。やるせない気持ちで続け様になくなる子等の死を眺めていたのだろう。鬱々たる気持ちであったろう。最後の子龍五郎も養子先で三歳で亡くなっているが、其の他の人たちは立派に成人した。正室を迎えぬままの宣紀の心の内は、窺い知ることは出来ない。
              
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織田信長 最後の茶会

2009-10-09 16:54:29 | 書籍・読書

織田信長 最後の茶会 (光文社新書)

「本能寺の変」前日に何が起きたか
著者:小島 毅
出版社:光文社
価格:780円+税


【本の内容】
本書は、本能寺の変について「東アジア」という視点から考察を加えていく。私の本業は東アジアの思想文化についての研究である。したがって、室町時代の政治史に関しては門外漢であり、単なる「愛好家」にすぎない。だが、信長の「変」前日の行動をめぐる従来の研究・叙述のほとんどが、視野を日本国内に限定していることに対して長いこと違和感を懐き続けてきた。十六世紀後半の世界情勢のなかに「天正十年六月一日」を置いて眺めてみると、同時に存在していたさまざまな動きが見えてくる。

【目次】
  プロローグ-本能寺の変とその前日
第1章 信長はどう描かれてきたか-天皇との関わり
第2章 本能寺の変の黒幕候補たち
第3章 永楽銭、石見銀山、倭寇-東アジアの経済交流
第4章 安土城、名物茶道具-信長と唐物
第5章 東アジアの暦と太陽暦、太陰暦
第6章 明暦と日本
第7章 宗教と信長王権
  エピローグ-そして太陽暦が採択された

【著者情報】
小島 毅(コジマツヨシ)
1962年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、東京大学人文社会系研究科准教授。専攻は、儒教史、東アジアの王権理論。文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」(2005~2009年度)の領域代表
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「こう姫さま」に会えますよ

2009-10-09 15:51:33 | 熊本
 熊本県立美術館・永青文庫展示室が今日から展示替えとなった。

http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20090911_Renaissance/index.html

 今日10月9日から12月24日まで、「華ひらくルネッサンス-肥後文化の黄金期」と銘打っての、細川斉茲時代を中心とした展示である。斉茲筆による、四歳で夭折したあの可愛らしい「耇姫(こうひめ)像」が展示される。近々早速出かけたいと思っている。みなさまもどうぞ。

 又、「講座 細川コレクション」が下記要領で行われる。
      11月7日(土)13:30~15:00
     「細川斉茲と肥後の陶磁器」 
      講師:八代市立博物館未来の森ミュージアム 福原 透氏
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綱利の苦悩

2009-10-09 11:57:17 | 歴史
               +--與一郎 元禄十三年死去(14歳)
               |
               +--吉利  宝永三年死去(18歳)
               |
 光尚---+--綱利---+=============宣紀       
      |       |          宝永五年綱利養子 正徳二年家督(32歳)
      |       |
      |       +--女子 養女を含み9人
      |       |
      |       +--吉(眞性院)
      |          ∥元禄四年婚姻 同十二年眞性院死去(27歳)
       +--利重---+--利昌
              |
              +--------利武(宣紀)

 こうして綱利に係わる略系図を書いてみると、綱利の苦悩を見る思いがする。男子二人が誕生しているが、長男與一郎を14歳で亡くし、二男吉利は婚姻が約され従四位げ侍従に叙任されたが18歳で亡くなった。その悲嘆は如何許りであったろうか。新田藩の利昌の元に嫁いだ女・吉も同時期に亡くなっている。
 綱利はその後、徳川綱吉の側用人・柳沢吉保の男子を養嗣子にしようと画策する。吉保の了解は得られたとされるが、老中稲葉氏の反対で頓挫する。その結果として甥の利武(宣紀)の養嗣子が決まるのである。その間の心情はいかばかりであったかと、推察するに余りある。
 
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細川家家臣・高見氏

2009-10-09 09:54:56 | 歴史
   和田但馬守
   和田兵衛尉
 1、和田少(庄)五郎・重治(高見権右衛門)
        江戸江相詰衆 「丹後」和田 百石 (於豊前小倉御侍帳)・・高見権左衛門
     始ハ大和大納言秀長の小姓なりしを御もらい被成、文禄二年弐百石被下、関原事の
     後忠隆君の御供仕加賀に罷越、高野山にて御剃髪の後筑前中納言ニ居、秀秋御卒
     去の後浪人いたし候処、慶長十六年帰参、五百石拝領なり、御番頭被仰付、其砌高
     見権右衛門と改、高見ハ母方の名字なり
     阿部兄弟仕者被仰付たるハ右権右衛門子の権右衛門なり(綿考輯録・巻十四)
 2、高見権右衛門
       (1)鉄炮頭 三百五十石 御側弓鉄炮頭并組外衆 (肥後御入国宿割帳)
         阿部一族誅伐に当り裏手門よりの討手被仰付、後加増三百石
       (2)御使番衆 八百弐拾壱石四斗 (真源院様御代御侍名附)
       (3)八百二十一石 (真源院様御代御侍免撫帳)

 和田氏について調べているが良く判らない。高見氏というのは母方の名乗りだというが、これも良く判らない。高見氏の名を高らしめたのは、何と言っても阿部一族誅伐の討手を仰せ付けられてのことであろう。三百石の加増とは戦場での高名と同様のことである。一気に高禄の士となった。そして後代、用人などを務める人が出、加禄されている。

 二代権右衛門の兄弟である少(庄)五郎の家系が有る。どうもこちらが嫡流なのではないか、先祖附が手元に無くて確認できないでいる。

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細川家家臣・神西氏

2009-10-08 17:22:03 | 歴史
 このような苗字に出くわすと、その読みに戸惑ってしまう。正解は「じんざい氏」である。

       武家家伝-神西氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/zinzai_k.html
       神西城        www.k3.dion.ne.jp/~tnk/01siro/zinzai/zinzai.html

 これらの資料と、肥後細川家家臣・神西氏とどう繋がるのかは、現況はきとしない。

侍帳を見ると、初代を長右衛門としている。 
     与三右衛門
     金右衛門(与三右衛門) 
              (1)御弓二拾挺頭 千石  (於豊前小倉御侍帳)
              (2)御弓頭衆 千石 (肥後御入国宿割帳)
              (3)千石  (真源院様御代御侍免撫帳)
    1、長右衛門  (1)一番長岡右馬助組 二百石 (真源院様御代御侍名附)
              (2)二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
              (3)長岡帯刀組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)

しかし父親・金右衛門(与三右衛門)は、豊前から肥後に入り光尚代までの消息がはっきりしている。細川幽齋の葬儀に当たっては、「惣奉行ハ長岡式部興長・沢村大学吉重・益田蔵人正重、御火屋廻之警固、神西与三右衛門・牧丞大夫なり」と記録されている。
また、豊前時代の忠利の参勤のお供の名附けにもなまえがあり、弓頭-四十挺とみえる。
長右衛門の家禄は別禄であり、父親の禄は収公されたのであろうか。
千石の家禄を考えると、その出自が相応の者でなければならない。武家家伝-神西氏へ繋がる資料はないか、ご存知の方がおられたらご教示賜りたい。
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細川家家臣・田部氏

2009-10-08 10:02:57 | 歴史
                             違い山形紋

 川口恭子先生が編纂された「細川家家臣略歴」には記載されていないが、「肥陽諸士鑑」に五代にわたる田部家の記載がある。松本寿三郎先生の「肥後細川家侍帳」その他の記事を抜書きすると、総体次のようになる。

    一、主水  御鉄炮三十挺頭 九百五十石  (於豊前小倉御侍帳)
    子、平助入道水月 
          (1)御鉄炮頭衆・三拾挺 七百石  
          (2)御側物頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
          (3)千石  (真源院様御代御侍免撫帳)
          (4)有吉頼母允組 御小姓頭 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
          (5)御詰衆・六番岩越忠右衛門組 御花畑御目付 千石 
                            (御侍帳・元禄五年比カ)
          (6)人持衆、番頭并組迯衆 千石            

            寛文四年(三拾挺頭)~延宝元年十二月 小姓頭
            延宝元年~延宝八年(隠居) 番頭

    子、十郎兵衛   細川綱利公御書出(天和三年)千石
    子、平助(養子 実・佐分利作左衛門二男)
    子、平助一政(養子 実・貴田孫兵衛三男) 
            千石 御番方七番組 屋敷・千反畑


佐分利作左衛門とは八百石の佐分利家だが、初代・二代・三代と作左衛門を名乗っており、人物の特定が出来ないが二代目ではないかと思われる。御鉄炮三十挺頭等を勤めている。
貴田孫兵衛とは、貴田家二代の孫兵衛・入道休意 御弓廿張頭・大九郎組 五百石 (御侍帳・元禄五年比カ)と思われる。

これ以降のことが判らないでいるが、田部家に何が起ったのかようとして知れない。
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高橋由一の絵

2009-10-07 11:12:43 | 徒然
 「愛宕山」をキーワードにぐぐっていたら、横浜美術館が収蔵している高橋由一の「愛宕山より品川沖をのぞむ」という絵に行き着いた。
    www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_442/atagoyama.html
1877年(明治十年)に書かれたとあるが、江戸末期の風景とそうかわるものではないのだろう。納得しながらもしやとひらめいた。あの「干し鮭」を書いたのが高橋由一ではなかったか・・・? ウィキペディアで調べると間違いない、「鮭」が本当の作品名で写真が紹介されている。いろいろ調べていると、上記二つの作品が同じ時期にかかれていることが判る。東京藝術大学が収蔵しているらしく、そちらのサイトを眺めてみた。
    http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=4126
こういう状況で作品を見ると、まるで板に書き込まれているような錯覚をしてしまう。
この作品が重要文化財であることは今回知ったのだが、作品自体に興味をもったのは数年前あるエッセイを読んでのことである。(息子達の美術の教科書で見たような気もする)

 昨晩はそのエッセイを探し出すのに一時間ほどを費やした。「86年度ベストエッセイ集」にそれはあった。東京大学教授・芳賀徹氏の 『鮭』の画家高橋由一 その文化史的背景 である。改めて読み直すと、まったく熟読していなかった事に唖然とした。
高橋由一について詳しく紹介されているし、季語ともなっている「乾鮭」についての論考があった。数種の俳句も紹介されているのだが、そんなことさえ覚えていない。しかし、うろ覚えの からざけの帯刀殿の台所 がここに記されているところを見ると、此の文章を読んで覚えたのだろう。

 荒縄でくくられて吊り下げられている一匹の「鮭」が、見る人の五感を揺さぶっている。それは最後に紹介されている正岡子規の 乾鮭の切り口赤き厨かな が、まさにこの絵を解説している。

 よい秋の夜長を過した。
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細川家家臣・・長塩氏

2009-10-07 08:47:23 | 歴史
 当方「新・肥後細川家侍帳」には、長塩清右衛門を祖とする「長塩家」が三軒記されている。召出しは綱利代と下るが、古くは細川京兆家の家臣であったようだ。清右衛門の祖父・長塩阿波守は、阿波国中之郡の領主だとされ、足利義輝に殉死したとされている。

良峰(良岑)流の長塩氏の家紋は、「丸に上文字」紋だとする資料があるが、細川家家臣・長塩氏の家紋は「上」の文字が左右にひっくりかえっている。まずは桓武天皇まで遡る長塩氏の末裔と考えてよいだろう。

長塩清一郎家・・四百石、長塩新兵衛家・・四百石、長塩平格家・・二百五十石、この三家が揃って明治に至った。
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姫様の名前

2009-10-06 16:38:55 | 歴史
 今日の新聞を読むと、徳川家定夫人篤姫の鹿児島時代の名前のことが出ている。「一」と書いて「かつひめ」と読んできたが、叔母に当る人が勝姫を名乗った為、「いちひめ=於一」としたらしい。

 細川忠利夫人は「千代姫」と呼ばているが、彼女の輿入れに従ってきた岩間六兵衛の記録によると「おせんさま=(千姫?)」と呼んでいたという。同時代の家光の娘に「千世姫」がいるから「おせんさま」が本当かもしれない。処がよくよく考えると、誕生が々慶長ニ年の徳川秀忠の娘「千姫(豊臣秀頼→本多忠刻室)」があり、だとすると六兵衛の記述も怪しい。保壽院様と申上げるのが、いらぬ心配も無い大正解である。

 加藤清正の研究家・福田正秀氏によると、清正の息女については今迄語り伝えられた名前が違っていたり、生母が取り違われていたりしていたことが明らかになっている。すばらしい研究成果であるが、これが修正されて当り前に使われるように成るには、相当な時間を要する。

 歴史を極める醍醐味である。
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佐田右平・嘉永六年癸丑日記より ・・(Ⅱ)

2009-10-06 10:18:05 | 歴史
御奉行 
    ■ 佐田吉左衛門 (佐田右平)
        9代、右門(右平・吉左衛門) 
                     右門-御目付 三百石
                     右平-旧知二百五十石
                     吉左衛門-旧知三百五十石
                細川斎護公御書出(文化九年)
                         同上     (弘化四年)
              天保元年七月(大組付)~天保三年二月 高瀬町奉行
              天保三年二月~天保五年九月 奉行副役
              天保五年九月~安政元年八月(病死)奉行-吉左衛門ト改名

         佐田右平 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百五十石、
                奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を廃せず。
                安永元年八月弐拾日没す。享年七十四。

    ■ 真野源之助
        8代、源之助  御知行取諸御目付・学校方御奉行触 時習館句讀師 百五十石
              文政十年九月~天保三年三月 八代郡代
              天保三年三月~天保三年九月 阿蘇南郷郡代
              天保三年九月~天保三年十二月 野津原鶴崎郡代
              天保三年十二月~天保七年十一月 上益城郡代
              天保十年八月~天保十二年六月 奉行副役
              天保十二年六月~嘉永四年三月 奉行
              嘉永四年六月~安政四年四月 奉行・大奉行助勤
              安政四年四月~万延元年十一月 大奉行

         真野源之助 名は景豊又景福、字は子純、通称を源之助と云ふ。大観堂の号あり。
               禄三百五十石、奉行職より大奉行職に昇り蕃の要路に在る事廿二年
               秩禄職俸を併せて千五百石に至る。又蘰園の学を好み康済に志あり、
               持論鑿々條理あり、時勢に明にして頗る機宣に達せり。
               万延元年十一月朔日没す。年六十八。墓は京町往生院。

    ■ 上野十内
         8代、十平(十郎)  旧知二百石
              天保十二年七月~弘化四年二月 奉行副役
              弘化四年二月~安政二年五月    奉行

         上野十平 名は惟遠、藩に仕へ奉行副役を経て、奉行職となる。
                文久二年閏八月廿七日歿す。年八十。

    ■ 小山門喜
         6代、権八郎(養子 実・久野岡右衛門・長子) 四百石
              天保十年十二月~天保十二年二月 菊池郡郡代
              弘化三年三月~嘉永三年九月    奉行副役
              嘉永三年九月~嘉永五年十月    奉行
              嘉永五年十月~嘉永五年十一月   用人
              嘉永五年十一月~文久二年十二月  奉行

         小山閑山 名は武、門喜と称し、閑山と号す。藩に仕へ世禄三百石。
                使番、江戸留守居、郡代、目付等を歴て奉行職、用人等の要職を勤む。
                又梅堂新地、八代新地築造に功あり。仍て禄百石を加増せらる。
                明治三年九月廿五日歿す。年七十五。墓は五町尼光塔。
                *梅堂新地築造に両三度崩壊す。其時の狂歌に「切時に木六竹八葦九月
                 小山が腹は今が切りとき」以て閑山当時の苦心知らる。
                   
  同副役 
    ■ 早川十郎兵衛
          8代、幾次(十郎兵衛) 大組附留
               弘化二年八月~弘化二年十二月 阿蘇南郷郡代
               弘化二年十二月~弘化四年四月 八代郡代
               弘化四年四月~嘉永三年一月 山本郡代(山鹿郡兼)
                       同上         山鹿郡代(山本郡兼)
               嘉永三年八月~嘉永六年九月 奉行副役
               嘉永三年八月~嘉永六年五月 奉行・後用人ニ転

          早川鶴隣 名は景佳、十郎兵衛と称し、鶴隣と号す。又別号を摘園と称す。
                 世禄百五十石。性機敏事に遭うて善断ず。
                 副奉行より用人に転じ中太夫に進む。
                 明治元年十二月二十七日没す、年六十五。墓は京町往生院。
    ■ 荒木甚四郎
          4代、丑之助(後・甚四郎)   御擬作高百石
               天保十四年四月~天保十五年十二月 菊池郡郡代
               天保十四年十月~天保十五年十二月 合志郡郡代兼
               天保十五年十二月~弘化二年十月 上益城郡郡代
               嘉永四年三月~安政元年十二月 奉行副役
               安政元年十二月(副役)~慶応三年十一月 奉行

          荒木既翁 甚四郎と称し、晩に既翁と改む。世禄百石、郡代、目付、郡目付を歴任し、
                奉行副役を経て、奉行職となる。依りて禄百石を加増せらる。
                明治九年一月六日歿す。年八十四。墓は高橋稲荷山東麓。

  御目附 
    ■ 藤本津志馬
          9代、直次(津志馬)  大組附留 三百石
               安政元年十月~安政六年十二月 奉行副役
               安政六年十二月~文久元年三月 奉行

           名は正心、津志馬と称す。世禄三百石、使番、目附役、奉行副役、奉行、作事頭
           中小姓頭等を勤む。明治三年五月廿七日没す、年五十七。墓は高麗門禅定寺。
  
    ■ 高本慶太郎
          7代、慶太郎(敬太郎)  旧知二百石
               嘉永六年六月~安政元年九月(病死)奉行副役

    ■ 佐久間角助
               寛政三年五月頃~    野津原鶴崎郡代
               寛政六年四月 ~     飽田詫摩郡代
               嘉永三年三月 ~     小国久住郡代
               元治元年九月~慶応三年九月 奉行副役

    ■ 黒川才右衛門
          
    ■ 松崎九郎平
          勇八(九郎平)  御奉行副役 五百石
               天保十二年四月(留守居切米取触頭)~天保十五年九月 
                                        高瀬町奉行・長柄頭ニ転
               弘化四年(穿鑿頭)~嘉永三年七月 川尻町奉行・目付ニ転
               安政六年十二月~文久二年六月 奉行副役 
    ■ 井上加左衛門
          7代、加左衛門(初・友之助) 御鉄炮頭 三百石
               安政五年二月~万延元年十二月 奉行副役
               文久三年三月~慶応三年十一月 奉行

          井上加左衛門 名は政房、加左衛門と称す。世禄三百石、少時窮乏因苦し人の書を借
                    りて誦讀せり。後擢でられて奉行職となる。明治九年六月十四日歿す
                    墓は高麗門禅定寺。


    ■ 吉見十内
           8代、十内    御昇頭 四百石
  
    ■ 小川次郎助
           
    ■ 須佐美九郎兵衛
           8代、九郎兵衛(養子)  川尻御町奉行 五百石
               安政三年八月(五十挺副頭)~慶応元年十二月 川尻町奉行・後普請奉行二転
               安政二年十二月本役
               慶応三年九月~慶応三年十二月 中小姓頭
               慶応三年十二月~明治元年一月 用人・後御前様附
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家紋・・鬼州浜

2009-10-06 07:31:59 | 新聞
 今日の熊本日々新聞は、「相撲道の神様」日田永季の歿後905年祭りが、藤崎八旛宮内で執り行われたことを報じている。財津氏をはじめ子孫30名ほどが各地から集まられた。私が注目したのが、皆さんの家紋が「鬼州浜」だということである。財津氏、日隈氏、竹田津氏、江嶋氏などである。日田地方を収めた日田氏が、大友氏没落後豊前ニ於いて細川家に召し出された。肥後入国後は特に阿蘇地区に領地が与えられた。俳優「財津一郎氏」も一族の一人である。

   日田社  www3.ocn.ne.jp/~tohara/hachi-fujisaki.html
   日田氏  www2.harimaya.com/sengoku/html/oku_hita.html

 私は「鬼州浜」という紋の名前がずっと判らずにいたが、今朝の新聞をみて「目からうろこ」である。名前が分かればサイトからいろんな情報が得られる。間違いなく日田氏の家紋だと紹介している。「肥陽諸士鑑」をひもといて確認したいと思っている。
コメント (10)
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