津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川家御用窯・松尾焼茶入れ

2020-08-26 07:12:59 | オークション

     肥後 松尾焼 藩主御物手付き茶入 細川家から肥後古流古市家から園田家へ正しい松尾焼 肥後古流 茶道具 茶入

  

 細川家が飽田郡松尾村の御用窯で焼かせた松尾焼の手付茶入れ、茶道肥後古流家元の古市家にわたり、その後朝鮮飴製造の「園田屋」に渡ったとされる。
さてこの茶入れ、お茶席でチリを払うにはどのような所作で行うだろうかと頭をよぎった。
殿さまのお声懸りかもしれない作為的なデザインが、ユニークである。

手に入れたいとも思うが、今ではすっかり「お茶」から離れた私には、無用の長物ではある。
茶道家の手に渡り、どこかのお茶席に登場して、衆目を浴びることを期待したい。

本田秀人氏の論考「肥後細川藩における御用窯について--松尾焼を中心に」(熊本史学 (53), p21-40, 1979-12)を思い出したが、どうもこの巻は持っていないようだ。

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■細川小倉藩(329)寛永五年・日帳(九月五~六日)

2020-08-26 06:38:23 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)五~六日

         | 
         |   五日

         |
長崎ヨリ花草幷薬 |一、長崎へ、河村喜左衛門舟ニ而、歩之御小性伊藤太左衛門乗遣候処ニ、今朝罷帰候、花草幷薬種積
種積来ル     |  来候事、
忠利松平忠重幷木 |一、松平大善様ゟ之御使者斎藤九郎右衛門、又木下右衛門様ゟ右之使者為案内者、日出ゟ被参候青野
下延俊使者を振舞 |  少左衛門、両人共ニ今朝被成御振舞候事、
         |一、財津善内兵衛ニ、御銀百目渡り申候事、
         |   (光直最上騒動により細川家御預中
忠利楯岡哲斎邸ニ |一、楯岡哲斎ニ、今朝被成 御成候、大判壱枚・御小袖三つ・御腰物一腰被遣候事、
臨ム       |
         |   (忠重)
         |一、松平大善様ゟ之御使者ニ、御腰物一被遣候事、
         |   (元五) (氏家元高)
         |一、志水伯耆・氏江志摩・筑紫大膳、大坂御普請ゟ被罷下候事、
         |         (上林)
うどん      |一、住江甚兵衛ゟ、甚介を以被申候ハ、今日ノ御使者へひる出禍申と存、うどんを銀一匁分調候へ
         |                                                         (八条宮智仁親王侍臣)
         |  共、被罷帰ニ付、入不申候間、山田将監所へ少遣、残分ハ黒瀬九郎右衛門手前へ渡禍申候哉と、
         |  被申候、一段可然候由、返事申候事、
継舟ノ番     |一、湯浅三太夫被申候ハ、今度御供ニ可被 召連旨ニ候間、然上ハ、継船之御番かわり可被仰付哉
         |  と、被申候、心得申由申候事、

         | 
         |   六日
         |
忠利放鷹     |一、今日ハ、御鷹野ニ被成御座候事、
出府供侍ノ小者ノ |一、今度江戸御供望被申御中小性衆、小者ふち可被相渡由、御積奉行衆へきりかミ遣候、但、宇野五
扶持       |  郎左衛門・釘本三太郎・弓削勘十郎・福田甚太夫・湯浅三太夫・宮部権十郎・磯谷半四郎・岩崎
         |  権平・本庄太兵衛・金子文三郎・寺川源太夫・野瀬甚介、此十二人也、
         | (佐賀ノ関、豊後海部郡)(取ニ)
佐賀ノ関ヨリ石ヲ |一、さかの関へ石ニ取被遣御船頭岐木九兵衛罷■戻候、弐斗五升ほと成をゑり候て、四十俵、又ゑ
回漕ス      |  り不申石八十俵ほと積来候事、
         |一、式ア殿ゟ、山本源太夫を以被仰聞候ハ、右ノ石つミニ被遣時、我等船頭をも一人可遣旨、被 仰
         |  付ニ付而、河野惣左衛門と申仁被遣由ニ而、源太夫めしつれ被参候、私ものをも一人付遣申由、
         |  申上候様ニと承候、得其意存候由、御返事申候事、
小笠原忠真ヨリ重 |一、小笠原右近様ゟ、九日之御小袖、杉ノ箱ニ入、御文箱壱つ、共ニ志水伯耆被持下事、
陽ノ祝儀     |
京ヨリ下緒二十具 |一、京ゟ、御さけお弐十具、箱壱つニ入候ヲ、志水伯耆被持下事、
佐賀ノ関ノ者礼銀 |一、岐木九兵衛、さかノ関ニて被遣銀子を渡し、石をとり可申由、申候へ共、礼銀をとり、重而せん
         |           (ママ)
ヲ受納セズ    |  さくニ成候ヘハ、むつ敷候間、とり申間敷由申ニ付、銀一枚包ノ儘とりかへり申由候、則お銀奉行
         |  衆へもとし候へと、申渡候事、
         |一、白井平介煩快気仕、登城仕候事、
         |  (規矩郡)
早鞆社ノ石燈籠五 |一、早友之石灯炉、国東ゟ阿岐浦替かわりの舟ニ積廻シ、早友御作事奉行衆へ相渡申由、白井兵助申
基廻漕      |               〃
         |  候、但、とうろ数五つ之由候事、 
江戸ヘノ金小判五 |一、長谷部文左衛門被罷出ニ付、先度文左衛門江戸へ被持下金小判五百両之請取切手、右被仕置候
百両ノ請取切手  |  を、此度渡申候事、
         |一、芦田與兵衛被罷出、被申候ハ、松平大膳様ゟノ御使者幷右衛門様ゟ被付遣候青野少左衛門、今日
         |  昼之休、椎田ニ而被仕、被罷返由、被申候事、
         |一、坂本二兵衛・森作兵衛両人被申候ハ、二兵衛・六兵衛ハ今度御供番に而御座候間、此中之御さん
         |  用を仕上、仕廻申度由被申候、左様に候ヘハ、作兵衛と小山善二郎両人にて相詰申筈ニ候へ共、
算用中ノ服忌ノ処 |  善二郎儀、去二日ニ母病死仕候忌有之間、如何之由被申候、歳山熊介なとも福万被果、忌有之候
置        |  へ共、得 御意候ヘハ、可罷出旨ニて被出候間、一七日過候ハヽ、 御前ニハ■不被出候共、御
         |  納戸ニハ被詰可然由、申渡候事、
長崎ノ唐人宿   |一、長崎ニ而、一官やと元、こんや町なんきん四官ニ而候由、明官申候事、  

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■夏ニ題

2020-08-25 16:36:06 | 徒然

                   物申(ものもう)
  これは俳句といえるかどうか、古い句に「たのもうの声に物着る暑さかな」というものがある。
誰の句か、いつごろのものか、私はどこで何を読んで覚えていたのかもよくわからない。ぐぐってみても出てこない。
裸ででも過ごしていたところに、外から来客の声がして、慌てて装いを正して飛び出したという風情である。

宅配便や郵便局、時には下の階の御婆さんがお裾分けにと尋ねてこられるから、ピンポンと音がすると慌ててしまうことがよくあつて、上の句には共感すること大である。

追記:縁戚のFY氏からコメントをいただき、横井也有の句であることが判った。御礼を申し上げる。
   也有については、熊本の横井小楠と先祖を一にする同族とあって、いろいろ本を読んだりしたから、その折に覚え
   た物だと思うが、爺様の記憶力はいい加減なもので、「たのもう」ではなく「物申=ものもう」だった。
   そしてこれを受けて、これは「江戸随想集」(古典日本文学全集35)にあったのではないかと思い至り、頁を追っ
   ていくと「年々
随想」という項の一番最後(25)に「夏籠(げごもり)」があり、ここに紹介されていた。
   也有の弟子・六林の俳書にのせてあるのだそうだが、FY氏はネット「増殖する俳句歳時記」で見つけられている。
                 物申の声に 物着る暑さかな 也有

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 高田宏のエッセイ「本のある生活」を読んでいたら、「涼風奄奄」という文に出くわした。
これは1978年9月の「ホームティーチング」に掲載されたものを転載してある。
     
      この夏は苦しかった。「熱帯夜」という、辞書にはまだ登録されてないことばが、とうとう日
     本語として安定しそうである。歳時記の季語に採られる日も遠くないだろう。

 高田氏は、1978年『言葉の海へ』で言語学者で「言海」の執筆者・大槻文彦の評伝を書き、大佛次郎賞亀井勝一郎賞を受賞した。上の文はまさしくその時期のものだ。
受賞の報道を見て本を購入して読み、大槻なる人物を知ったし、又高田宏も知った。
そんな高田氏のエッセイを読むと、言葉にたいするこだわりが見て取れる。

今年の猛暑は何なのだろう。「熱帯夜」という言葉が誕生したのが1978年だとすれば、42年が経過している。
この時期から地球が温暖期に入っているのだろうか?
気象用語も随分変化しているように思うが、「熱帯夜」にとって代わるような言葉はまだ見受けぬが、これ以上の暑さを表現できる言葉が見つからないのか・・・
歳時記に「熱帯夜」という言葉が登場したのはいつの頃か知らないが、当然掲載されている。


 

 

コメント (2)
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■「源姓細川家」家譜

2020-08-25 10:26:14 | オークション

源姓細川家家譜?」肥後藩 熊本藩 系図 細川藤孝(幽斎)細川忠興(三斎)細川忠利(肥後熊本藩初代藩主)江戸 写本 和本 資料
                

           割と状態良く保存されている。齊茲公に至るまでの細川家家譜である。

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■細川小倉藩(328)寛永五年・日帳(九月四日)

2020-08-25 08:22:57 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)四日

         | 
         |   四

         |
金山ノ白目ノ様ナ |一、御金山ニ在之しろめの様成もの、ためいけニ而、御やき物被仰付候御薬之御用ニ、急度くだかせ
ルモノヲ釉薬ニ砕 |  可申旨ニ付、しろかねや彦■丞ニくたかせ候へと申候而、橋本惣右衛門ニ手桶一ニ入、渡申候、
カシム      |  但、今日ひるゟ内之御まき物の御用ニ入早漏間、急候様ニと間太郎助申越候事、
江戸台所頭廻リ  |一、野田小左衛門儀、今度江戸へ被 召連、御台所之頭廻被 仰付候間、万事可被得其意由、伊藤甚
         |  左衛門ニ申渡候事、
         |                      (成政)
宇佐宮ノ宮成掃部 |一、宮成掃ア助当月ノ御守持参被仕候、則当番坂崎清左衛門ニ引合申候事、
九月ノ護符ヲ上ル |
明石源十郎羅紗ノ |一、明石源十郎ニ、御小袖五つ・御袴肩衣五下・らしやノ道服一つ、たち付一げ被遣候事、
道服等ヲ拝領ス  |
         |一、財津善内兵衛書物上申候処、様子ハ式ア殿・頼母殿へ被 仰付由候事、
物成ナキ知行ノ処 |一、物成無之知行之分ハ、御ふち方かしほと高ニて引渡、残分ハ御蔵納同前ニ、御内検可被申付由、
置     内検 |  加藤新兵衛ニ申渡候、付り、岩間清次知行も、右同前ニ申渡候事、
御物ノ請渡奉行  |一、奥・口之御納戸、其外ノ御物付、つゝミ、又ハ主ニ成候てとり置、御船頭/\ニ渡候事迄仕奉行
         |  ニ、栗田與兵衛・吉賀長右衛門、此弐人を申付候、但、横田権佐与也、
         |一、石本三介、今日ゟ御奉行所ニ被相詰候事、
国東郡ニテ石積ノ |一、御船頭中村二郎右衛門、国東郡へ御石積ニ遣候、御奉行ニハ歩之御小性渡辺六太夫・高橋久左衛
用        |  門両人遣候処、此両人ハ歩ニ而、今朝被参候、二郎右衛門ハ八つ時分ニ参着申候事、
松平忠重使者   |一、松平大膳様ゟ■之御使者御座候、斎藤九朗右衛門と申仁之由、吉田少右衛門被申候、上下十一人、
         |  馬一疋ニ而被罷下候事、
         |
         |一、木下右衛門様ゟ、青野少左衛門と申仁、右ノ案内者として被参候事、
         |                   (規矩郡)
鳬ノ見分     |一、山路勘左衛門、けり見せニ被遣候処、石田ニけり十斗ほと居申由、被申候事、
         |一、本條喜三郎もけり見ニ参候由ニ而、被申候ハ、長池ノわきニ、十五六ほと今朝居申候か、今晩罷
         |  帰候時、見申候ヘハ、い不申由候事、
使者へ風呂焼ノ用 |一、右ノ御使者ノため、風呂たき申候へ共、湯をとり、又ハもミ出し仕ためニ、御小人五人遣候処
草履取ノ年寄ニ命 |  ニ、中/\御小人ニ而ハ不成候間、さやうの事をよく仕ものをと、住江甚兵衛被申ニ付、御さう
ズ        |  り取ノ内、年ノ寄たるを弐三人ほと遣候へと、小頭勘四郎に申付候事、
         |                      (豊後速水郡)             (苅田村、京都郡)
使者振舞     |一、右之御使者明朝被成御振舞被成候、左候而、又日出へ被罷帰候間、昼之弁当、かんだ二て被 仰付
         |                   (築城郡)
         |  候、御奉行二ハ横田権助被遣候、明晩ハ椎田二被泊候間、上下共ニ、飯米・草・薪等不自由ニ無
         |  之ほと、芦田與兵衛見計、相渡候やうニと、坂崎清左衛門を以、被 仰出候、則お郡奉行衆へも
         |  申遣候、與兵衛所へも書状遣候事、
         |一、道中人馬なと入次第引渡、彼方ゟたちん等出させ不申様ニと可仕旨ニ而、歩之御小性林作左衛門
         |                           〃〃
         |  ・赤尾茂兵衛被付遣候、宇佐郡御境目迄可被参由申渡、其分ノ状を渡遣候事、
         |一、奥村少兵衛事、頓ニ相煩申候事、

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■ヤフオク二件

2020-08-24 14:32:58 | オークション

       其1 妙解院 御書②B 細川忠利 細川家 みょうげいん 戒名 江戸時代 古文書 肥後国 熊本県 

         

         
 これは数日前に出品されていた細川家家臣・鯛瀬氏の宛行状に関連する一連の鯛瀬氏の資料である。
四点が一包となって出品されている。あて名は家祖の鯛瀬善助となって居る。
上は忠利に対する「見廻(音信)」に対する内記を称していた時代の書状であり、同様のものが一点ある。
下は、記録が示す通り善助が「切支丹」であったことを示すもので、宗門を改めたことに対する内記の書状である。
これも二点存在し貴重な資料である。鯛瀬氏が所持されてしかるべきものだが・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      其2 【真筆】湯浅五郎兵衛 書状 (消息 江戸時代 武士 古文書 折紙 細川家 園部藩 細川忠利 大師流 掛軸)

          
  
 出品者による見事な商品説明がある。この湯浅五郎兵衛は、一時期細川藩に在った湯浅氏の縁類の人ではないかと考えるが、当事者が細川家を離れており、先祖付も存在せず関係を解き明かすのは難しい。
湯浅氏==愛宕山下坊・福寿院==細川忠利の関係がうかがえる貴重な資料である。
上記写真は、出品写真を加工させていただいた。

商品説明
 
    湯浅五郎兵衛の書状です。


湯浅家は、近世、園部藩別格上席の待遇を受けた郷士の家ですが、南北朝時代に細川頼之が丹波国を領したのに際し現地へ移住して以来細川家との関係が続き、忠興・忠利の代まで従軍・参戦しており、園部藩の郷士でありながら細川家との関係が続いていました。


本文書は細川家との関係が窺えるものとなっています。越中殿(細川忠利)が上洛に際して、手違いが発生したことを述べたもので、細川家ゆかりの愛宕山下坊の福寿院に宛てたものです。

◆湯浅五郎兵衛
江戸時代前期の武士。寛永頃の人。入道時哉と号す。書をよくし、江戸時代前期における上方の大師流の中心人物であった。

〔本文〕
(上段)(尚々書は省略)
今度越中殿
御上洛候砌、令
萩原殿之同道
被成可有候処、
左之理、申候前(先)
罷致参敷
披露得候疋ニ
員へ人ヲ進候処、
修理違候、殊向
(下段)
証迄候、舟ニテ御下
候共、不有其非之
兼上、登之助儀候、
茶壺両事、得
送代其道不共候、
此得能候、藤吉殿
被得上候、可有候て
申上候キ、万沢早
致参上候由、仍て恐悦
不仍、
     湯浅五郎兵衛
 二月十二日   (花押)
福寿院様
   人々御中
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■細川小倉藩(327)寛永五年・日帳(九月三日~四日)

2020-08-24 07:28:12 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)三日~四日

         | 
         |   三日

         |
         |   (勝定)    (慰英)   (武次)
髪型ヘノ書状ノ覚 |一、坂崎半兵衛・寺尾左介・牧丞太夫へ被遣 御書箱壱つ、
         |
         |一、寺嶋主水・仁保太兵衛・田中猪兵衛へ、我等ゟ遣申状、中ニ銀子有之、苻之儀、
         |  右之分、御船頭小出惣左衛門ニ相渡、上せ申候事、
         |                           右ノ分慥ニ請取申候、             (黒印)
請取       |                                    小出惣左衛門〇
         |一、右ノ舟ニ、谷右兵衛殿ゟ之御使者御のせ上せ被成候、舟中賄をも被遣候、
長崎ヘノ状    |一、長崎へ状共、河野惣右衛門尉ニ相渡、遣申候事、
狸一匹購入    |一、田川ゟ、たぬき壱疋持来候を、御かい物奉行衆、銭三拾六文に直段被相極候由に而、切手相調
注文ニアマリ安ク |                                   (之)
直段ツケ直シ   |  百性持来申候、三十六文ハ余やすく候間、態申遣、とらせ候て持来申たぬき□事候間、可然様ニ
         |  直段をなをし候て、代銭可被相渡通、御かい物奉行衆へ申渡候事、
         |   (幸長)
何度ヨリノ諸切手 |一、野田小左衛門尉幷御納戸衆同道ニて、被申候ハ、惣別御納戸ゟ出申諸切手ニ、小左衛門もうら加
ノ控ノ処置    |                                          〃〃
加判ノ控ニ裏判ス |  判可仕旨、被 仰付候、就夫、ひかへの儀、今迄ハ松の御丸にてひかへを付、うら判被仕上、各
         |  御加判被成候、右之被 仰付様ニ候ヘハ、いかゝ仕可然哉と被申候、我々申候ハ、諸切手しせん
         |  何とそ改申時、ひかへを一所ニ付置候ヘハ、何を尋候とても、其まゝ見出し申候、しかしなか
         |  ら、小左衛門殿御加判之分ハ、小左衛門殿おひかへ可有も、小左衛門次第ニ可被仕通申候ヘハ、
         |  小左衛門申分ハ、今迄之分一段可然儀ニ御座候間、我等ハ加判を仕迄にてこそ候へ、今迄之分ニ
控ハトラズ    |  ひかへハ松の御丸ニて付、各御加判可然候間、其分ニ可仕候、ぬし手前ニハひかへハ仕間敷通
         |  被申候間、其分ニ相極候事、
狸購入代銀    |一、右ニ付置候たぬき代銀之儀、御かい物奉行衆直段をなをし、切手仕かへ被差越候へ共、四十八文
百姓ノ迷惑セザル |  ニ被相極候、とかくお百性両人三日逗留仕、造作成儀候間、御郡にて御郡奉行計次第、百性迷惑
程        |                      御郡へ
         |  不仕ほと被渡候へと、書状を調、百性ニ持せ〇差帰候事、
         |    (右)
谷衛冬使者へ小袖 |一、谷宇兵衛殿ゟ之使者ニ、御小袖ニ被遣候也、
         

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■お安く読む・小学館新書「邪馬台国は別府温泉だった!―火山灰に封印された卑弥呼の王宮」

2020-08-23 20:05:53 | 書籍・読書

                   小学館新書<br> 邪馬台国は別府温泉だった!―火山灰に封印された卑弥呼の王宮

 面白そうな本を見つけると、なんでも購入してしまうたちの私だが、コロナ禍の中本屋さんにも出かけられず、ついつい「書評」のサイトhttps://www.bookbang.jp/  で本を見つけ出してはAmazonで購入している。
この本はそうではなくてヤフーニュースで偶然読んだ本の紹介記事からである。
「現代ビジネス」の 驚愕!邪馬台国は「別府温泉」にあった…地下には卑弥呼の王宮が眠る? という記事だ。
これを読んでさっそく注文した。これが届くと一両日の巣ごもりにはもってこいだ。

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内容説明

「距離の単位は短里」、「上陸地は洞海湾」、「不彌国分岐説」―生命科学者である著者が、科学的アプローチで「魏志倭人伝」の著作郎・陳寿が遺した“暗号”を解いた結論は…。幾多の知の巨人たちが挑んできた日本史史上最大のミステリーを完全解読。

目次

第1章 魏志倭人伝と新井白石の呪縛
第2章 魏の使節の上陸地・末盧国はどこか?
第3章 末盧国から伊都国、奴国を経て不彌国へ
第4章 不彌国から投馬国、そして邪馬台国へ
第5章 邪馬台国の王都・別府
第6章 邪馬台国の遺跡は火山の噴火によって埋没した
第7章 女王・卑弥呼の墓はどこに?
最終章 謎はすべて解けたのか

著者等紹介

酒井正士[サカイマサシ]
1955年、東京都生まれ。博士(農学)。東京大学農学部農芸化学科卒。株式会社ヤクルト本社中央研究所にて生命科学、生物工学分野の研究に従事。全国邪馬台国連絡協議会会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社内容情報

江戸時代から続くミスリードの呪縛を解く!

邪馬台国はどこにあったのか?――
新井白石、本居宣長、松本清張……江戸時代から現代まで、多くの知の巨人たちが挑んできた日本史最大のミステリー。この謎を解く鍵は、唯一の“一次資料”である「魏志倭人伝」にあります。
しかし、驚くことにこれまで邪馬台国について論じてきた多くの研究者は、この貴重な資料に明記されている「距離」と「方角」を、軽視してきたと言わざるを得ません。
著者は、生命科学や生物工学の研究に従事してきた経験から、当時(中国三国時代)の科学技術を再現し、「距離」と「方角」を忠実になぞることで、邪馬台国の場所を探っていきます。
この科学的アプローチによって、地図上には魏志たちが邪馬台国へと向かった道筋がくっきりと浮かび上がったのです――。
江戸時代から続くミスリードの呪縛を解く、驚きの新説。



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■細川小倉藩(326)寛永五年・日帳(九月朔日~ニ日)

2020-08-23 07:28:11 | 細川小倉藩

        日帳・寛永五年八月分は欠

                      日帳(寛永五年九月)朔日~二日


         | 
         |   朔日

         |
忠利泊所法光寺ヨ |一、田川郡添田の御宿法光寺ゟ、ひらたけ壱籠持せ差上候を、田内左兵衛持来候を、松井宇右衛門を
リ平茸進上    |  を以上候事
鏡善右衛門重病  |一、鏡善右衛門尉以外相煩申ニ付而、得 御諚申候へハ、いつれ成共、御薬師衆申付、羪生させ可申  
山田喜斎商材ヲ拒 |  旨、被 仰付候、則式ア殿へも談合申候ニ、山田喜斎可然候由、被仰ニ付而、喜斎へ申、薬
メドモ命ズ    |  を取、御鉄炮衆ノ内大羽理介ニ持せ遣候、喜斎ハ主手柄にて羪生調申間敷候間、薬を遣し申儀成
         |  間敷通、色々御理被申候へ共、仕切ニ申渡す候事
麦代官眼病ニヨリ |一、下毛郡麦代官、此中眼を煩罷居申候が、女房をも仕廻り、家ニひをかけ、ぬしハ鉄炮腹をきり申
妻ヲ殺シ家ニ放火 |  由、御郡奉行小崎太郎左衛門・木村苦労兵衛被申候、但、内田助左衛門と申もの也、狂気にて可
鉄炮腹ヲ切ル   |  有御座と申事候也、  
下毛郡奉行    |                                  
狂気       |  
忠利徒然ナル故投 |一、今日八つ時分ニ被 仰出候ハ、あまり御徒然ニ被成御座候間、豊後橋にてたうあミを打せ、可被  
網ヲ打タシム   |  成 御覧候条、あミ打ともをあつめ可申候、左候て、あつまり次第可被成 御出旨ニて、くれ候          
網打見物     |  まて、被成 御遊山候事、   

曽根村ノ庄屋伜ヲ |一、曽根村庄屋清右衛門せかれ少介、十二歳ニ成候を、今日小崎與次兵衛そねニ而成敗仕由ニ而、被
郡奉行成敗ス   |  罷帰候事、
地謡合      |一、住江孫三郎、明日ゟ地謡の調合のため可罷出との御触ニ付、罷出候由ニ而、被参候事
谷衛冬使者ノ宿  |一、谷卯兵衛様ゟ之使者、谷助兵衛殿ニ被居候ニ付、住江甚兵衛ゟ御客人屋へ被参候やうニと、三度
谷一党      |  迄被参申候へ共、助兵衛殿ゟの返事ニ、いつも谷一たう所ゟ参候使者・飛脚ハ前かと主所ニ召置
         |  候間、此度其分ニ被仰付被下候へと、種々被申ニ付、其分ニ仕由、甚兵衛被申候事、
  

         | 
         |   二
         |         
加賀山可政川狩ニ |一、昨日御河かりニ被成御座候御供ニ、主馬被参候御小早ニ、布袴一下ぬぎ置被申候、御加子はたれ
布袴ヲ舟ニ遺留ス |  のはかめ共不存候由ニて、持来候を、とり置候処ニ、加々山主馬ゟ被申候ハ、主はかまを舟ニ置
         |  候間、相渡し候様ニと被申越候、則使作兵衛ニ相渡候事、
長崎へ買物ノ廻船 |一、長崎へ御かい物為迎舟、御船頭河野惣右衛門、九たんぽ、ろハ廿二丁立候由、申来候事、
曽根村庄屋誅伐ニ |一、曽根村之源兵衛登城仕候、今度庄や清右衛門御誅伐被成候、清右衛門むすめを私よめニとり置申
縁者連座ヲ免レシ |  候処ニ、免被下忝由ニ而、御礼ニ與二兵衛めしつれ被参候、又清右衛門妹むこ理右衛門も、主女        
礼        |  房免被下、忝とて右同前ニ御礼罷出候事、

下毛郡麦代官狂気 |一、下毛郡麦代官内田助左衛門尉切腹仕二付而、其子細御郡奉行木村九兵衛・小崎與次兵衛二相尋  
切腹ノ理由    |  申候、右両人被申候ハ、麦代官此中眼を相煩、御用ニ立不申候、左候ヘハ、御郡横目麦代官とし
         |  て小山奉行をも仕候へと被 仰付候、八・九月ノ時分ハ木・竹をも百性かいたきと申自分候間、  
         |  替ものを被下候へと申ニ付而、岡茂左衛門と申もの被下候間、就夫、切腹仕たると存候、此方ゟ        
         |  かの助左衛門ハ御ふちをはなされ候とも不申付候処、かやうノうつけたる果てやう仕候ハ、狂気ニ
         |  て可有御座と、申事之由被申候事、

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■昨日に続き・・洪水警報

2020-08-22 17:01:31 | 徒然

 史談会例会を無事に終え、お昼から雨模様の予報もあって皆さん夫々に帰宅の途につかれた。
私もバスに乗り込みしばらくすると、横を走る路面電車が脱線したのではないかと思うぐらいのすごい音。
何のことはない雷の音だった。ポツリ/\と振り出した雨がすごい雷雨に変わり、傘を持たずに来たことが悔やまれたが、折り畳み傘でしのげるような雨でもない。
いつも降りる一つ手前のバス停で下車し、目の前のコンビニに走り込み、ビニール傘をかう。
雨宿りをしていて止むような雨ではない。自宅まで7~8分稲妻がおっかない土砂降りの中を急ぎ歩く。
水無川は濁流が水かさを増し大暴れしている。
びしょぬれになって諸々を洗濯機に放り込み、一息ついてPCを開くと昨日同様洪水警報が発令された。
開いてみると東区の川だとして場所が表示されている。なんと/\、つい10分ほど前に眺めた水無川が含まれていた。
「なんだよ地元かい」と思わず笑ってしまった。強い雨が続くと、底が見えていた水無川も30分もすればすぐさま1mほどは水位があがる。
長く続くと少々下流域では低い土地がありかん水の恐れはある。

帰宅してからもしばらく強い雷雨が続いたが、どうやら雷神様もおとなしくなられて雨も収まってまずは一安心の現在である。
爺様の耳は少しおかしいのではないか? 昨日は雷を上の階のがたがただ騒動と思い、今日は路面電車の脱線かと思った。
しかし不安定な天気でまだ雷もなり、雨も降りそう。今度の雷は何に聞こえることでしょうか・・・・

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■鯛瀬家・宛行状です

2020-08-22 06:42:16 | オークション

                            細川忠利 目録 細川家 肥後国 江戸時代 古文書

                                                                     

 説明には単に「目録」とあるが、まぎれもない「宛行状」である。
全体写真が紹介されていないが、ほかの添付写真をみると「鯛瀬茂太夫との」とある。鯛瀬家の初代である。
侍帳をみてみると「茂大夫 馬廻衆十一番志賀左門組 百五十石」とある。
現在11人が応札して21,000円、最近の宛行状とはこんな値段がするものらしい。

 鯛瀬とは珍しい苗字だが家素善助は播磨の人らしく、本姓は吉田氏、「岐阜戦功吟味--与一郎様任御意御傍ニ居申候衆(綿考輯録・巻十四)」とあり、家記には「丹後にて三斎君御意を以鯛瀬を拝領の由、」とあり名誉ある拝領名であるとともに、いわゆる「丹後以来」のお宅である。日付は寛永拾年とあるから、茂太夫肥後入国後のものだが、「上妻博之著 肥後藩之切支丹より」によると、父善助は「転切支丹 寛永十二・三年頃転宗カ」とある。

現在の入札額最高者は、応札の数が少ないところを見ると鯛瀬家の関係者だろうか。とすればこのような金額にも納得がいく。まだ上がりそうな気配ではある。 


   

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■厳密には今日が「処暑」

2020-08-22 05:52:06 | 徒然

 猛烈な暑さが続いてきたが、昨日からの雨がすこし気温を押し下てくれている。
もしやと思って調べてみると明日が「処暑」である。厳密的にはある瞬間をいうらしくぎりぎり今日のうちらしい。
「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」とあるが、昨日の激しい雨がほんとうに暑気を止めてくれた。
ここ一両日は「晴れたり曇ったり、時々少雨」というような天気らしいから、少しはしのぎやすくなるのか?
不思議なもので、37℃を超えた日でも、もう草むらではコオロギがないているし、シオカラトンボも舞飛んでいる。
今朝ベランダの戸を開けると、秋の虫たちが競って鳴いている。

9月中旬ともなれば熊本はいわゆる「隋兵寒合」と呼ばれる時期になる。
残暑は厳しいが、ちょっぴり朝晩に涼しさが感じられるようになる。
あと一息だが、少々疲れ気味の爺様には待ち遠しいばかりである。

一方熊本でもコロナ感染者が毎日のように発生している。暑苦しいが又マスクを着けての外出である。
今日は史談会、2時間ばかり頑張ってきましょう。

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■大雨洪水警報発令

2020-08-21 15:21:50 | 徒然

 明日の史談会資料の準備や読み込みをしていると、上の階がいやにうるさい。
ガンガン音がして引っ越しでもするのだろうかと思ったら、なんと雷だった。突然とんでもない音がしてようやく気付いた。
奥方はお出かけ、ベランダの洗濯物を慌てて取り込んだのと同時に、土砂降りの雨となった。
雷は30分ほど真上にあったが、すこしづつ南へ動いている感じ、稲妻が半端ではない。
雨は南から横殴り、ベランダの植物たちには結構な慈雨となった。
熊本市は警戒レベル4の洪水警報を出したようだ。近所の水無川は今朝ほどは干からびた川底を見せていたが、今はさぞかし怒り狂う濁流になっていることだろう。
パソコンをたたいていても、左手から目線に落雷まがいの稲妻が走っているのがうかがえる。雷神様はなぜか大いかりのご様子である。
明日のお出かけ時までには止んでほしいのだが・・・

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■細川小倉藩(325)寛永五年・日帳(七月廿六~廿九日)

2020-08-21 06:13:41 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年七月)廿六~廿九日

         | 
         |   廿六日

         |
忠利泰勝院ニ参ル |一、今朝ハ 殿様泰勝院へ被成御参候事、
         |一、明日江戸へ被遣御飛脚、御鉄炮井門亀右衛門与大塚少右衛門・御小人弥左衛門与二兵衛被遣候、
         |  但、大坂ゟ七日・八日ほとニ江戸へ着可仕旨ニ候、則其段申渡候事、
         |          
         |一、大坂へ右ノ飛脚乗上り候御船頭、石井又右衛門也、
長崎へ小早ヲ遣ス |一、明日長崎へ八丁立ノ御小早、御船頭久松作内也、
長崎ヨリノ伽羅品 |一、右ノ舟ニ被乗遣候歩之御小性瀬崎左助・寺内五兵衛両人ニ而、様子ハ、長崎ゟ此中参候伽羅悪
悪ク戻ス     |  敷ニ付、被成御戻候、則 御口上ノ趣、 御前ニ右両人被 召出、直ニ被 仰渡候事、
忠利ノ口上    |
         |                               ( マ  マ )
伽羅軽量     |一、右ノきやら、野田源四郎手前ゟかけ渡申候、よこめニ森友一太夫    申付候事、
三斎烏丸光賢室帰 |一、来ル廿九日に、 御万様被成御上候ニ付而、御加子不足仕候間、 忠利様御手尾加子六拾人御やと
洛ニ忠利ノ手加子 |  い可被成旨、 三斎様 御意の由、貴田権内ゟ状参候を、則懸 御目申候処ニ、加子六拾人ニ、
御船頭二人ヲ添ウ |                                  (様脱)
         |  御舟頭弐人相添可被遣旨 御意被成、則申付、明廿七日ニ、中津参着仕候ニと、鏡善右衛門ニ申  
六十人ヲ求ム   |  渡候事、
         |一、中津へ被遣御船頭河村弥右衛門・乃美十左衛門、両人ニ御加子六十人被付遣候事、
烏丸万帰洛挨拶ノ |一、大槻久次弟忠兵衛、 御万様ゟ御使者ニ被参候、御前ニ被 召出候而、御かたひら弐つ被遣候事、
使者       |

         | 
         |   廿七日

         |
忠利坂崎一角邸ニ |一、今日は一角所へ御申被仕候事、
臨ム       |
         |一、井門亀右衛門与大塚少左衛門ニ、江戸へ被遣 御書箱壱つ、式ア殿ゟ文箱壱つ、其外我々共ゟ之
         |  状相渡、今日出船させ申候事、
         |一、大坂之状共、御船頭石井又左衛門ニ相渡申候、矢野甚五兵衛やとゟ、甚五兵衛方へ遣被申銀子
         |  ハ、鏡善右衛門ニ渡申候事、
蔵子釈放サル   |一、御蔵子之内、市右衛門・源右衛門きんちゃくニ、銀子少宛御座候を、御闕所奉行大都留六左衛門
         |  ニ渡、右両人之御蔵子ハ被成御赦免候事、
鍋嶋勝茂ヘノ飛脚 |一、鍋嶋様へ、去ル廿四日に、御小人弐人に 御書被進之候御返事取、罷帰候、何とておそく参候哉
勝茂泊鷹野故遅引 |        (勝茂)           御座ニ付、
         |  と申候ヘハ、信州様御泊鷹野ニ被成〇一日御返事おそく出申ニ付、今日罷帰候事、
飛脚二唐木綿ヲ給 |一、右ノ御小人弐人ニ、唐もめん二たん被下由、申候事、則御返書一角所へ持参、上ヶ可申通、申付
与サル      |  候事、
         |一、木下右衛門様ゟ、江戸右衛門様御留守居所へ被遣御状参候、■今日之御鉄炮衆門司二懸り可居候
         |  間、持せ可遣旨 御意に而、飛脚二持せ、門司へ遣候事、
         |        ( マ  マ 
桑原主殿秀忠家光 |一、大坂ゟお船頭     罷下候ニ、桑原主殿ニ、両 御所様ゟ銀子百枚拝領仕由之御注進也、
ヨリ銀子百枚拝領 |
ノ注進      |
江戸幷大坂城幕府 |一、右分ニ被申下候ニ付、則江戸幷大坂御普請奉行衆へも御礼之 御書、今日被成御上せ候処ニ、銀
普請奉行ニ礼状ヲ |  子ハ八十枚被下ニ究申由、重而被申下候ゆへ、 御書被遊直、小早ニ而追懸被遣候、若追付不申時
上グ 銀子ハ八十 |  ハ、此御飛脚江戸へ通り候へと、式ア殿被仰ニ付、御小人上せ申候事、
枚故書直シ追カク |
         |一、右追懸遣小早ノ御船頭ハ、徳嶋八兵衛と申者也、

         | 
         |   廿八日

         |
三斎演能ニ呼ビシ |一、中津御能ニ、山崎加平次・藤井兵吉、両人中津へ被 召寄候、御帷子壱つ・長ばかま壱下宛被下
山崎藤井ニ帷子等 |  由、兵吉申候事、
ヲ給与ス     |
         |                        (長沢顕長室、沼田延之女)
忠利西ノ茶屋ニ遊 |一、九つ打申候と、其儘西ノ御ちや屋へ被成御座候、伊与殿おのり物ニ、松崎弥兵衛・本庄喜介を付
ブ        |  遣候事、
磯貝某妻咽喉ノ鍼 |一、磯貝太左衛門被申候ハ、女房衆のとニ四月ゟはれ物出来申候ヲ、此比はりをたて申候ヘハ、たて
立ヲ誤ル     |  そこない、よの所ニたて、其上ふかくたて申候ゆへ、血とまり不申、相果申ニきわまり申候つ
         |  る、就夫、せかれもめしつれ不罷出候、跡にて相果可申も不存候由、被申候事、
八朔ニ付諸届   |一、辛川四郎三郎煩にて不罷出由、忠介被申候事、
         |一、宮部久三郎も煩にて、不罷出申候事、
         |一、大塚忠兵衛弟大塚忠五郎と申候也、歳ハ十六、
         |一、稲葉民ア様ゟ御飛脚参、則被成 御返書候事
         |一、北村次右衛門尉子少二郎と申候也、歳ハ十五、

         | 
         |   廿九日

         |
元服願      |一、佐分利喜四郎 歳十八、
         |一、可児兵三郎  同十七、
         |一、沢小八郎   同十八、
         |  右三人むかふかミを落し申度申候也、
         |一、井上孫兵衛子 歳十八、
保利與兵衛算用完 |一、保利與兵衛、昨日御算用相済、返号取申由、被申候事、
了        |
         |一、去ル廿四日ニ、御小人五介長崎へ被遣、今日返事取来候事、
代官郡奉行等入替 |一、御代官幷御郡奉行衆入かへ、今日得 御諚、相済事、
ヲ裁可サル    |
         |一、臼杵へ御小人源三郎与作蔵、去廿四日ニ遣、今日罷帰候事、

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■史談会資料作成・・ようやく完成

2020-08-20 11:22:33 | 熊本史談会

 史談会例会は明後日だというのに、まだ資料が完成しないでいた。
「文久三年 恕斎日録」を42回にわたりご紹介してきたが、これが大変面白いのでご紹介しようと考え、一年分の大方の事柄を、二日がかりで二枚の表にした。
これだけでは、会員諸氏の手元資料としてはお寒い感じで、日録の釈文をお配りすることにした。
まずは一年分を三回に分けることに仕、1~4月分をブログから取り出し、ワードに移してつなぎ合わせた。
全27ページ(24,000余字)にもなり、これから主だった記事を抜粋して縮小し19ページにまとめ上げた。
随分タイピングの不具合が認められ、昨日は一日がかりで原文と照らし合わせ、改行などを原文同様に組直しをした。
これを20部ほどコピーしなければならないから、もう少し縮小したいところだがもう限度だろう。
まずは、原稿が出来上がり一安心、今日も暑い一日なりそう、一日巣ごもりをして原稿の読み込みと関係する事件などに付、下調べである。

            

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