津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「日本のワインの醸造は、細川忠興によって始まった ! 」という間違い

2020-08-31 18:18:35 | 徒然

オルタナ の論説コラム「日本の初ワインは福岡?上」が面白いのでご紹介しよう。以下引用。

■日本初のワインはどこか

歴史の前では謙虚でありたいものである。まして、歴史は歪めてはならないと思うが、これが簡単ではない。今回はおしゃれを決め込んで、ワインの歴史について考えてみたい。1973年の「ワイン元年」以降、数次のブームを経て日本の食卓に根付いたワインについて最近、興味深い出来事があった。 長い間、日本ワインの発祥の地は山梨県で、1874年、山田宥教と詫間憲久のふたりが本格的なワイン造りを始めたというのが定説になっていた。ところが、日本ソムリエ協会が教本の2020年版で唐突に、「1627年から小倉藩細川家で葡萄酒が造られていた」との新しい情報を記載したことから、ワイン愛好家の間で「日本ワインの歴史が250年も遡る大変なニュース」「いや、4年間だけで跡形もなく消えており、焼酎にブドウを漬け込んだリキュールのような混成酒では」と熱い論議が沸き起こっているのである。果たして日本初のワインは山梨なのか福岡なのか? 調べてみると、驚いたことに、小倉藩のあった北九州周辺ではこれまでに何度もワイン騒動が起きているのだ。 話は一昔前に遡る。火付け役となったのは大分県の地元紙だ。細川忠興(1563-1646)が小倉に国替えになる前の豊前藩主だった時代に「大分県中津市で日本初のワインを造った」と報じたのである。2010年のことだ。忠興は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将で小倉藩初代藩主、妻がかの有名な、明智光秀の娘、玉子(ガラシャ夫人)だからインパクトは大きかった。 早速中津市に地元ブドウを使った赤ワイン「忠興公」(原料のブドウ品種は小公子)、白ワイン「ガラシャ」(ナイアアガラ)が登場。さらに、復刻版「豊前なかつワイン」も発売された。商魂のたくましさには驚くばかりだが、報道された歴史が間違っていたら、どうだろう。ビジネスそのものの信頼性に関わるのではないか。

「大分・中津市、忠興」という誤解
                          
 

                                雑誌BRUTUS(2015年5月15月号「日本ワインの醸造は、細川忠興によって始まった!」
                                          (これも間違い、掲載誌は2015年10月1日号 目次

                         BRUTUS(ブルータス) No.810 (2015年10月01日発売) 表紙

そして、現実にそれが起こったのである。報道の元をたどると、細川家伝来の美術品や歴史資料を収蔵している東京の公益財団法人、永青文庫(理事長 細川護熙・肥後細川家第18代当主)で「細川サイエンス展」の準備中の2009年に発見された古文書にたどり着く。 古文書の読み解きは容易ではない。字は崩してあるし、社会背景や人間関係もよくわからないからである。しかし、古文書を丁寧に解読すれば、ワインを造ったのは小倉藩初代藩主の忠興ではなく、その三男、忠利(小倉藩2代藩主)であることがわかったはずである。文書に出てくる「斎」を忠興の教養人・茶人としての別名、「細川三斎」と勘違いしたようだ。正しくは、「斎」は細川忠利側近の朝山斎助という人のことである。 また、製造場所も大分県中津市ではなく、豊前国8郡のひとつ仲津郡(現在の福岡県京都郡みやこ町旧大村)が正しい。二重に間違えているのである。 2014年4月に開催された永青文庫の「大航海時代」に関する展示会でも、「忠興がワインを造らせていた」と間違ったまま。この年、ようやく理事長の細川護熙元首相に、製造場所は福岡県という訂正情報が入った。ところが忠興は間
                              10月1日号
違ったままだ。 極めつけは細川護熙元首相が雑誌BRUTUS(2015年5月15月号で「日本ワインの醸造は、細川忠興によって始まった!」というインタビュー記事だ=写真。まさに「殿、御乱心」で、全国に誤報が流れる結果となったのである。 話が横道にそれるが、この号のBRUTUSは「世界に挑戦できる日本ワインを探せ!」という特集を組んでおり、「ワイン日本代表を決める、全50本の試飲会を開催!」というページに3人の日本人ソムリエが登場している。そのうちの一人が、日本ソムリエ協会の教本編集委員長であり、フォローアップ・セミナーで「日本初のワインは福岡」という説を紹介した森覚常務理事である。自らが登場している雑誌に目を通していないとは思えないから、偶然とはいえ、森氏は恐らく5年前に、この福岡ワインの情報を耳にしていたのではないだろうか。 忠興というのは、とんだ誤解だが、意外なことに、この「ワイン騒動」に行政が飛びついた。忠興が初代藩主をつとめた豊前国小倉藩のお膝元、北九州市が2016年になって国家戦略特区「汐風香る魅惑のワイン特区」に設定されたのである。従来より小規模でのワイン製造が可能になったのである。こちらも歴史に便乗した地域振興策と言える。

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■1㎝は無理

2020-08-31 10:34:03 | 書籍・読書

 巣ごもり状態を続けていると、何もすることがないから勢い読書ということになる。
先に眼鏡をなくし、新たにPC・読書用に一つと近距離用一つを作った。
乱視がすすんでいて、なくした眼鏡も使いづらかったので、今では大いに読書も楽になった。
Amazonや日本の古本屋で購入した本がまたまた増えて、これを読むのが大変である。必要な箇所だけ拾い読みをして本棚に収まった本も数冊ある。

なかなか腰を据えて一冊の本を一気に読了することが出来ないのは、私の根気のなさからきている。
これを5頁ほど読み、違う本を又広げ、本の書評や紀伊国屋書店のサイトで新しい本を検索したり、読んだ本の注記に記されている資料を日本の古本屋から注文したり、こんなことを毎日繰り返している。
わが本棚も時折眺めては、蔵書を取り出して目を通す。
まだ所定の位置に戻されていないのが、高田宏氏著「本のある生活」(1980年・第5刷)だ。
氏の読書量はすさまじい。「若いころは一日一寸、近頃はメートル法にして一日1㎝」といわれる。
これは本の厚みを示しているが、一日一寸とはすさまじい。通勤時間や昼休み、帰宅してからは本を読むために徹夜することもあったといわれる。
付き合いで酒を飲んでノルマが果たせないと、徹夜が数日続くというからすさまじい。
本が家中山を為していることだろうと想像する。増えるに任せて本の山が幾重にも連なっているかと思うと、そうでもないなしく何度かの引っ越しにあたってこれはという本を数冊遺して跡は古本屋に売るのだそうだ。
そしてまた新刊購入や古本屋で次々を本を購入して又山を為すのだそうな。

こういう話を聞くと「趣味は読書です」などとは軽々しく口には出せない。
そして毎日ではなくても「一日1㎝」が読了できずにいる自分が情けない。
今日は数日前に届いた「邪馬台国は別府温泉だった」厚み1.2㎝にチャレンジすることを宣言をしておく。

御約束通り10:30分読書開始、昼食30分を挟み14時過ぎに読了しました。約3時間で278頁を読み終えましたが、これはひとえに内容が素晴らしく、引き付けられたことによります。
邪馬台国は別府に在った、全編説得力があり魅了されました。皆様もチャレンジしてみてください。

コメント (2)
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■細川小倉藩(334 )寛永五年・日帳(九月十三~十四日)

2020-08-31 06:58:47 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)十三~十四日

         | 
         |   十三日
         |
         |一、今度、江戸廻之御船頭南次兵衛・古野二郎介両人也、
木屋善賀     |一、木屋善賀申候ハ、来ル廿八日に可被成御越旨被 仰下ニ付、御礼ニ登城仕由ニ而、参候事、
梨ノ盗難     |一、吉田少右衛門被申候ハ、先日申上候なしノ内、平野や彦兵衛なしを、今夜百斗ぬすミ申由、被
         |  申候事、
伊藤金左衛門内検 |一、伊藤金左衛門儀、此中相煩申ニ付、一昨日之御能ニも不罷出候、然処ニ、御内けん御奉行被仰付
奉行ヲ命ゼラルゝ |  候へ共、右之仕合故、手伝ニ御付被成候御鉄炮衆ニ、金左衛門ものニ巧者成者を相そへ、御郡へ
モ病気      |  遣申由、伊藤治兵衛被申事、
畳表打      |一、たゝミノ表打申家、もり申所の繕仕候へと、河田八右衛門ニ申渡候事、
         |一、福山仁助・庄村五郎右衛門・村田半右衛門・岩田新右衛門、右四人銘々ノ知行へ参度由、式ア殿
         |  へ申候ヘハ、御奉行衆ニ尋可申由ニ而、尋被申候、
         |一、山本安大夫耳を相煩申ニ付、江戸へ御供ニ成申間敷由、片岡四兵衛被申候事、
         |                              (塗師)
唐ノ手籠修繕   |一、からの御手かこ繕せ申奉行、三十人衆ノ内中尾五右衛門ニ申付、ぬし左兵衛ニ繕せ候へと、申付
三十人衆     |  候事、
地震屋ノ蔓縄切レ |一、御地震屋のつるなわきれ申ニ付而、わらひなわ十五ひろの切手、御そうり取判を取ニ参候、うら
蕨縄十五尋ノ切手 |  判奉行衆不被居ニ付而、我等共判形迄にて、請取せ申候事、
雁打ヲ曽根源兵衛 |一、明朝御繕ゟ前ニ、鴈を曽根ノ源兵衛ニ打せ可申旨、被 仰出ニ付、加藤新兵衛手前ニ預り置被申
ニ命ズ      |  御印、壱枚うけ取申候、善兵衛へ早友ノ御作事ニ参居候ニ付、御鉄炮衆ニ、右之 御印・御鉄炮
雁打御印切手   |  幷玉薬、曽根へ持せ遣候、源兵衛宿へも書状遣候事

         | 
         |   十四日
         |
         |一、昨夜源兵衛所へ持せ遣候御鉄炮、去年ゟ被為預置候御筒御座候由ニて、さし返申候、 御印請取
鷹薬請取切手   |  申との切手ハ、加藤新兵衛ニ渡ス、玉薬ノ請取切手ハ、安羽二左衛門へ渡ス、御鉄炮■も右同、
竹盗人ノ女ヲ物師 |一、竹盗人ノむすめたねと申候を、今度御いとま被遣候御物師衆に被遣候、歳十二に成申由、黒瀬九
二遣ス      |  郎右衛門申候事、
百姓母ノ上リ女悪 |一、田川郡ゟ上り申候ちぼと申女、悪敷煩を仕二付、御暇被遣由、黒瀬被申候事、
キ煩ニヨリ暇   |
         |                      (高本)
唐ノ文厘ノ塗リ  |一、唐ノ竹ふんこう壱つ、くろぬりニ仕候へと、千久浦を以被 仰出ニ付、ぬしや少二郎ニ申渡候
         |  事、
国東郡奉行用状  |一、国東郡御郡米之御代官ニ、土屋孫兵衛と申仁、御切米八石ニ弐人ふちニ而、召抱申候条、御郡米
国東郡御米ノ代官 |  ノ内を以、今日ゟ之御ふち方幷御切米被遣との御かた書被成可被下候、以上、
ヲ召抱ウ     |     寛永五年
扶持方ノ肩書ヲ願 |       九月十六日                  蒲田次左衛門
ウ        |                              小林半左衛門
         |         右分ニ、御切米御ふち方可被相渡候、以上
         |           浅山修理殿
         |           田中兵庫殿
         |   蒲田次左衛門殿
         |   小林半左衛門殿
         |
         |            
布施       |一、朴西堂へ銀子拾枚・御〇中折帋百束、被進候事、
         | (八条宮智仁親王侍臣)
砂金       |一、山田将監へ御小袖弐つ・御砂金壱枚被遣事、
りくゑつ     |一、りくゑつへ御小袖弐つ、御道ふく壱つ被進事、
田川郡岩石ノ松茸 |一、田川郡岩石ゟ松茸拾壱本、御小人猪介ゟ持せ越候を、皆川治ア丞を以、上ヶ申候事、
ヲ上グ      |
         |   (可政)
         |一、加々山主馬助方、中津へ御使ニ参、 三斎様ゟ御道服壱つ拝領被仕候事、
忠利溜池ニ遊ブニ |一、ため池へ被成 御座候而、京衆被召連候間、からかさ十本斗持せ、ためいけへ可越由、真下七兵
京衆ヲ召連ル   |  衛奉りニ而被申越ニ付、住江甚兵衛所へ申遣事、
傘ノ用      |
         |一、奥村少兵衛煩、不罷出候事、
         |    (木)
田川郡伊方村ノ鷹 |一、八喜木工被申候ハ、田川郡之内、伊方村ノ御鷹へや居申大たか一居、はいたか二もとか三もと
         |          (鳥屋)                                                                八木
部屋へ鳥屋出シノ |  か、いつれもとやを出候へと、 御意被成候間、〇吉右衛門方へ状を遣申度候間、飛脚一人申付
         |                   (木)
命        |  候へと、被申候、御使申付候事、八喜木工状持せ候事、
忠利溜池ノ簗ニテ |一、今日七つ時ゟ、溜池のやなニて、御河かり被成候事、
川狩ス      |
         |  (槻ノ木村ヵ、下毛郡)中津市山国町槻木
鷹匠ノ打チシ鷹  |一、つきぬきゟ、鷹一居、御たかぜう衆打申由ニて、持せ越候、河井権丞所へ持せ遣候、
         |                     (西沢)
西ノ茶屋ノ薄縁  |一、西之御ちや屋ゟ、うすへり持来覚、十枚ハ文右衛門与次兵衛、七枚ハ兵太夫与勘右衛門と申もの
         |  也
         |一、野田小左衛門弟、はりま之孫七郎ニ、御小袖弐つ被遣事、
振舞ニ山ノ芋   |一、明日之御振舞ニ、山のいも十本入候由、浦上瀬兵衛被申候間、小崎與次兵衛・平井五郎兵衛所へ
         |  申遣候事、
海鼠       |一、同なまこも朝御膳ゟ内ニ、五六はい入申由、被申ニ付、百留中左衛門へ申遣事、
砂金ヲ吹カシム  |一、御砂金三百三十四匁五分ヲ、宮部権三郎・古生次左衛門奉行ニてふかせ候ヘハ、拾三匁壱分のふ
吹減リ      |  きへりニて候事、

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