『三陸海岸大津波 (文春ウェブ文庫)』
吉村昭、2011、『三陸海岸大津波』、文藝春秋 (文春ウェブ文庫)
3月11日、成田空港でシドニー行きの便を待つ間に大きな揺れに襲われ、その晩は空港ビルでごろ寝して、大きなモニター画面で震災、津波、原発事故の実況を見た。翌日夜、復活した便でシドニーに旅たち3週間を過ごして帰国した。8月5日、再びシドニーに来ている。
こちらで、電子版の本書が出版されていることを知って、ダウンロードして一気に読んだ。著者は昭和45年に取材し三陸海岸の繰り返される津波を記述しているのが本書である。世代の記憶が途切れた頃再び津波はやってきて根こそぎにし、その後、再び人々は海岸で暮らし始めて、突如、津波に襲われる。本書の最後は、犠牲者が少なくなってきていることや堤防の整備が進むことに触れられているのだが、あとがきでは、ふと、津波経験の語りが途絶えていることにも気がつく。今回は、またしても、津波の伝統がまた一つページを刻んだわけではある。
地震を伴わない、太平洋の対岸からやってくる津波も含めれば、頻発する津波地帯によくも居住するというのは、傍目でのみ言えることだろう。むしろ、人間の営みとして、繰り返すことがむしろ本質なのではあるまいか。
それを考えると、原発事故については、いかがなものか。最近、言語学者による長期の核燃料廃棄物危険性についての記述をいかにすべきかという議論を伝え聞いた。言語は、そもそも変わりゆくもので、そのオーダーは数十年数百年である。しかし、核燃料廃棄物は、数千年から数万年のあいだ、隔離しておかねばならない。とすると、その危険を意味する表示はいかになすべきか。サインボードや言語が数千年の後にいかような意味と解されるのか、我々は知りえない。とすると、そのような危険なものをどのように、保存するのか。将来にわたって、まったく、将来の人類もアクセスできないような場所に保存することは、そもそも、保存するためにアクセスできるのであれば、将来アクセス出来ない場所ではないはずだ。
核燃料廃棄物について、はたして津波についての語りと同様にして良いのだろうか。
本書は、それこそ、思いもかけずハイライトを浴びたことになるのだろうが、今回の語りもまた、だれか、力を持った語り部によって記録されることを期待したい。
3月11日、成田空港でシドニー行きの便を待つ間に大きな揺れに襲われ、その晩は空港ビルでごろ寝して、大きなモニター画面で震災、津波、原発事故の実況を見た。翌日夜、復活した便でシドニーに旅たち3週間を過ごして帰国した。8月5日、再びシドニーに来ている。
こちらで、電子版の本書が出版されていることを知って、ダウンロードして一気に読んだ。著者は昭和45年に取材し三陸海岸の繰り返される津波を記述しているのが本書である。世代の記憶が途切れた頃再び津波はやってきて根こそぎにし、その後、再び人々は海岸で暮らし始めて、突如、津波に襲われる。本書の最後は、犠牲者が少なくなってきていることや堤防の整備が進むことに触れられているのだが、あとがきでは、ふと、津波経験の語りが途絶えていることにも気がつく。今回は、またしても、津波の伝統がまた一つページを刻んだわけではある。
地震を伴わない、太平洋の対岸からやってくる津波も含めれば、頻発する津波地帯によくも居住するというのは、傍目でのみ言えることだろう。むしろ、人間の営みとして、繰り返すことがむしろ本質なのではあるまいか。
それを考えると、原発事故については、いかがなものか。最近、言語学者による長期の核燃料廃棄物危険性についての記述をいかにすべきかという議論を伝え聞いた。言語は、そもそも変わりゆくもので、そのオーダーは数十年数百年である。しかし、核燃料廃棄物は、数千年から数万年のあいだ、隔離しておかねばならない。とすると、その危険を意味する表示はいかになすべきか。サインボードや言語が数千年の後にいかような意味と解されるのか、我々は知りえない。とすると、そのような危険なものをどのように、保存するのか。将来にわたって、まったく、将来の人類もアクセスできないような場所に保存することは、そもそも、保存するためにアクセスできるのであれば、将来アクセス出来ない場所ではないはずだ。
核燃料廃棄物について、はたして津波についての語りと同様にして良いのだろうか。
本書は、それこそ、思いもかけずハイライトを浴びたことになるのだろうが、今回の語りもまた、だれか、力を持った語り部によって記録されることを期待したい。
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