映画「帰ってきたヒットラー」
6月に、「読書」として、アップしたのだが、映画を見たいと思いつつも、見逃したと思っていた。ところが、ロングランになっているということがわかり、見てきた。名古屋栄のパルコ8Fにある「センチュリー・シネマ」が上映館。入場者が100名ほどの名画座といった趣向。30分ほど前に到着して、整理番号42番(ここは、整理番号順に案内される)、視聴者はの平均年齢は高く(高くしているのは、私もその1人で、しかも、見栄っ張りにも、「敬老」ではなく「一般」カテゴリーの料金を払ったのだが、それはそれで、別の話)、カップルというよりも、1人の視聴者が多い。まあ、そうだよね、この映画。
大昔、ドイツ語会話を習っていたことがあって、聴き覚えた単語が若干耳にはいるけれど、字幕だよりのドイツ語映画!ストーリーは書くつもりもないが、ご時世に奇妙にマッチしていて気持ちが悪い映画ではある(だから、ビデオ化を待たずに、映画館に来たわけであるが)。この映画は、ドイツで、「ヒットラー」コスチュームに扮した俳優たちが、街頭で飛び込み撮影をしたようで、ドキュメンタリーのようにドイツ国民(移民も含む)とヒットラーの関係が、顕になる趣向になっている。そして、同時にこの映画は、昨今世界各国のファシスト化(あるいは、ファシスト許容性のリトマス試験紙)のような趣向となっている。
ストーリーは置くにしても、終了間近、主要人物が芸人「ヒットラー」が本物(自殺した現場から何らかの理由でワープしてきた)と気づいて、彼を射殺(といって、劇中映画のストーリーとして)するのだが、しかし、殺すことができず、よみがえった「ヒットラー」は、死亡しなかった理由が、その存在が自身にではなく、大衆の心にあるからだというセリフがあって「ゾクッ」とする仕組みになっている。そういえば、先日の相模原での知的障害者施設を襲撃した犯人はナチスまがいの優生思想にもとづき(もちろん、本人の精神障害にその原因を求めると云う考えもあるだろうが)、大量殺人を企図したということもまた、関連して「ゾクッ」するところではある。この事件の襲撃犯を単に本人の精神障害によるとしたり、個人の思想的偏向に原因を求めることは、誠に危険だと思う。これは、やはり、わたしたちの生きる現代やわたしたちの社会に対する見方がナチスを許容しかねない状態になっているということを、今一度見なおしておかないと、とても厄介なことになってしまうと思うのだけれど。現政権の行方もまた、さらには、先の参議院選挙もまた、気持ち悪い状況のひとつではある。
『帰ってきたヒットラー』
大昔、ドイツ語会話を習っていたことがあって、聴き覚えた単語が若干耳にはいるけれど、字幕だよりのドイツ語映画!ストーリーは書くつもりもないが、ご時世に奇妙にマッチしていて気持ちが悪い映画ではある(だから、ビデオ化を待たずに、映画館に来たわけであるが)。この映画は、ドイツで、「ヒットラー」コスチュームに扮した俳優たちが、街頭で飛び込み撮影をしたようで、ドキュメンタリーのようにドイツ国民(移民も含む)とヒットラーの関係が、顕になる趣向になっている。そして、同時にこの映画は、昨今世界各国のファシスト化(あるいは、ファシスト許容性のリトマス試験紙)のような趣向となっている。
ストーリーは置くにしても、終了間近、主要人物が芸人「ヒットラー」が本物(自殺した現場から何らかの理由でワープしてきた)と気づいて、彼を射殺(といって、劇中映画のストーリーとして)するのだが、しかし、殺すことができず、よみがえった「ヒットラー」は、死亡しなかった理由が、その存在が自身にではなく、大衆の心にあるからだというセリフがあって「ゾクッ」とする仕組みになっている。そういえば、先日の相模原での知的障害者施設を襲撃した犯人はナチスまがいの優生思想にもとづき(もちろん、本人の精神障害にその原因を求めると云う考えもあるだろうが)、大量殺人を企図したということもまた、関連して「ゾクッ」するところではある。この事件の襲撃犯を単に本人の精神障害によるとしたり、個人の思想的偏向に原因を求めることは、誠に危険だと思う。これは、やはり、わたしたちの生きる現代やわたしたちの社会に対する見方がナチスを許容しかねない状態になっているということを、今一度見なおしておかないと、とても厄介なことになってしまうと思うのだけれど。現政権の行方もまた、さらには、先の参議院選挙もまた、気持ち悪い状況のひとつではある。
『帰ってきたヒットラー』