小方謙九朗墓所を訪れた後、高橋利兵衛墓所に行きました。光市島田地区には高橋利兵衛を弔った祠があります。2年前にこの祠を探し当てました。幕末期、上関義勇隊に所属していた彼と仲間二人は、田布施町麻里府に停泊していた薩摩藩借り上げの加徳丸を襲撃しました。その事件の正当性を示すため、また無念を晴らすために仲間二人が大阪で自決しました。高橋利兵衛は、その二人を追うように上関町室津の西方寺で自決しました。当時の侍達は戦国時代さながらに肝がすわっていたのです。この加徳丸事件は、大阪で瓦版(今の新聞相当)になりました。その瓦版(写し)を郷土館主催の幕末展で展示したことがあります。
海や船を見ながら、日和山公園で昼食休憩
次に、上関大橋袂(室津側)にある吉田松陰碑に行きました。私はこの碑が大好きです。理由は、原文,読み下し文,そして現代文の三つの碑があることです。現代の我々には原文である漢文は読めません。読み下し文、現代文への翻訳の過程がよく分かります。この吉田松陰の詩碑が午前最後の史跡です。続いて、道向かいにある日和山公園に行きました。屋根付きの椅子に座って昼食休憩をとりました。
吉田松陰詩碑 日和山公園からの海峡 常満寺裏側通りのお地蔵様
昼食休憩が終わると、次の史跡に向かいました。常満寺裏側の通りにあるお地蔵様です。地元の方がいなかったため、何と呼ばれているお地蔵様か聞けませんでした。その昔、上関町で干拓がまだ進んでいない頃、このお地蔵様下の道は繁華街でした。その昔、このお地蔵様はその繁華街を見下ろしていたのではないでしょうか。続いて、加茂神社に向かいました。
加茂神社に向かう下り坂 拝殿が立派な加茂神社
加茂神社に着くとトイレ休憩をしました。加茂神社は対岸の竈八幡宮と対比できると思います。竈八幡宮の拝殿や階段も立派ですが、加茂神社も同じように立派です。もしかして、かつては競い合っていたのかも知れません。加茂神社を見終わると、その上にある稲荷神社や忠魂碑に向かいました。忠魂碑前広場は草が膝上ほどに生い茂っており入れませんでした。忠魂碑を去ると、出会い地蔵に向かいました。出会い地蔵の由来を知りたいものです。誰と誰が出会うのでしょうか。もしかして、右からの道と左からの道が合流するため、出会いと呼んでいるのかも知れません。次に西方寺に向かいました。
静かな稲荷神社 草が生い茂る忠魂碑 出会い地蔵尊