チブサン古墳の説明員を先頭に、古墳前の駐車場に向かいました。駐車場に着くと、目の前に古墳内の装飾石屋形のレプリカが置いてありました。そのレプリカの前でしばらく説明がありました。その説明を聞いていて残念だったのは、古代において韓国や日本のような国家はまだ無かったにも関わらず、「韓国から日本に技術が伝わった。」などの説明でした。その他、説明が重複したり冗長でした。古代の歴史や事情をあまり知らない方のようでした。チブサン古墳の石室見学で分からなかったのは、なぜ地下道を通らないと石室に入れないのかです。地下道を掘ることは、言わば古墳の破壊です。質問すればよかったです。
戦没者名が刻まれた西南役戦没者慰霊之碑
ところで、装飾古墳は国内に比較的多くあるようですが、ほとんどが資料館などに持ち出されて保護されているそうです。このチブサン古墳は、そのまま古墳内に保存されています。ただ、石室内で厳重に保護されており、石室入口からガラス越しに見るしかありません。石室入口はとても狭くて、4人がギリギリ入ることができる広さでした。菊池川州域に栄えた小国家の王または族長のために築かれた古墳ではないかと思います。ところで、お話が冗長すぎるし、また次々に人が来るのでいつ説明が終わるか分かりませんでした。次に案内されるオブサン古墳見学を諦めて、その説明員にお分かれを言いました。そして、西南戦争記念館に向かいました。
石屋形のレプリカ チブサン古墳に入る ガラス越しに見た石屋形
チブサン古墳を出てしばらく車に揺られていると、西南戦争記念館に到着しました。今回の史跡巡りで、私の1番の目的地でしたので心が躍りました。あらかじめHPを見ていましたので、だいたい展示場の想像がつきました。まず、入館する前に記念館前に広がる景色を見ました。記念館側の丘は薩摩軍側の陣地で、1km位遠方に見える丘が政府軍陣地です。当時、両陣地で大砲を打ち合っていたのでしょう。
西南戦争記念館 向こう側の丘が政府軍陣地
西南戦争記念館に入館すると、だいたい予想通りの資料が並んでいました。私の個人的な考えですが、西南戦争は戊辰戦争の総仕上げの戦いではなかったと思います。使われた兵器も戊辰戦争時に使われたものとほとんど同じです。田布施にある第二奇兵隊が使用していたミニエー銃の銃弾と同じものがたくさん展示されていました。薩摩軍は戊辰戦争時とほぼ同じ兵装でした。一方の政府軍は電信や船を有効的に使いました。さらに兵站の違いや物量も決定的だったように思います。
展示物を見学 戦いの映画を見る 熊本城を前に歓談
田布施町の麻郷神社に、西南戦争の田原坂で亡くなった方の慰霊碑があります。戊辰戦争時に仲間だった薩摩軍と戦うことになるとは、戊辰戦争時には考えもしなかったと思います。どの国も近代化を迎えるにあたって新旧の争いがおきがちです。アメリカの南北戦争も一例です。日本で言えば、公武合体や徳川家を参加させる議会はとうてい無理だったと思います。話し合いで革命などおきません。徳川幕府の既得権益を残すことは、その後の新国家にマイナスだった思います。マルクスの資本論だったでしょうか、権力300年限界説を思い出します。皮肉なのは、「明治」の年号を考えた人がが徳川幕府方だったことです。さて、西南戦争記念館を出ると宿泊するアークホテル熊本城前に向かいました。到着すると、熊本城を遠望しつつ美味しい食事やアルコールを楽しみました。
チブサン古墳からアークホテル熊本城前でのルート