田布施町郷土館の裏にとても古い2連ピストン形状の農機具があります。一目見ただけで、精米機関連の機械と分かりますが、正確に何なのか分かりませんでした。調べると、旧関戸橋袂にあった精米所より寄贈された物と分かりました。しかし、その機械を駆動する装置は何(水車?モーター?)なのか、いつ頃使っていたものか、何に使っていたのか誰も知りません。寄贈していただいた精米所は、中学高校同級生Tyさんの実家でした。さらに、Tyさんのお父さんは、同じように町会議員をしていた私の父親の知人でした。
そこで、同じく私の中学高校同級生であるYさんを通じて、Tyさんにその機械のことを知っていたら教えてもらうよう頼みました。すると、Tyさんはその機械についてあまり知らないとのことで、代わりに弟さんであるTsさんに郷土館に来ていただく手筈を整えていただきました。Tyさんありがとうございました。
15日、郷土館にTsさんが来館されました。Tsさんにお聞きした話によると、昭和30頃に家を作った時に水車小屋から移設したらしいとのこと。動いているのを2,3度見たことがあるそうです。精米部屋は当時ベルトがたくさん動いており危険だったため、子供にはあまり見せてもらえなかったそうです。
寄贈していただいた機械で麦を突いていたのではないかとのことでした。麦だとすると、大麦です。殻を取るために使っていた思われます。殻を取った大麦を押し麦に圧扁加工する機械や衝突式精米機も同時に郷土館に寄贈したとのことです。ところが、寄贈したはずのその二つの機械は郷土館に届いていないことが分かりました。どこかで行き違いになったようです。
Tsさんに、近くに住むTkさんを紹介していただくことになりました。Tkさんは、この機械のことを自分より知っているだろうとのことです。来週、Tkさんを訪問しようと思います。
Tsさん、わざわざ郷土館に来館していただきありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。
寄贈していただいた機械の前で、右から私,Tsさん,そして郷土館長Nさん
天気が良いので、久しぶりに田布施川を往復してウォーキングしてみました。ただ歩くだけではつまらないので、川沿いのお地蔵様や碑を訪ねました。河口である八海から瀬戸の新開橋間を往復し、他にもあちこち寄ったので、トータル16km位歩きました。
八海天神社~こくぼ橋のコースと史跡
まず最初、我家から八海の天神社まで行きました。この小さな神社、お供え物が少ないので最近はお参りする人が少ないようです。昔はちょっとしたお祭り位はあったのではないでしょうか。この天神社をスタート地点にしました。この付近はその昔、家が2,3軒ありました。しかし、今は竹藪の中に石垣だけしか残っていません。
八海の天神社からスタート 廃墟のような2代目八海橋
天神社がある山を下りて、旧188号線を少し歩いて田布施川に出ました。すると目の前に、朽ちた2代目八海橋が無残な姿をさらしていました。私が子供の頃、この近くにあった八海バス停からバスに乗ってこの橋を渡り、平生や柳井によく行ったものです。今、3代目八海橋が隣にあります。
改めて2代目八海橋を見ると、とても幅が狭いことが分かります。車力や馬車の時代ならこの橋のままでも良かったのかも知れません。車社会の今、2車線が十分ある3代目八海橋ができたのは時代の要請です。
田布施川に無残な姿で残ってる2代目八海橋
3代目八海橋を渡って平生町に出ました。三新化学前を通ってすぐ、運河を右に歩きました。しばらく歩くと、何十年も使われていない残骸のような橋に着きます。蔓に覆われているため、よく見ないと橋と気がつきません。こくぼ橋です。漢字で小窪と書くのか小久保と書くのかは分かりません。ナタを持ってきたので、橋にまとわりついている蔓を取り除いてみましたが、橋名が書かれているような遺構は何もありませんでした。
蔓に覆われ残骸のような、こくぼ橋 神社でよく見かけるような遺構?
こくぼ橋のすぐそばに、神社でよく見かけるような石の遺構がありました。何の遺構でしょうか。祀った形跡がありました。その石の遺構から20m位離れた場所にお地蔵様があります。実はこの場所は、八海に渡し船があった時代、そしてその後の初代八海橋があった時代のなごりの跡です。麻郷の人は、八海の渡し船を渡ってこの「こくぼ橋」を渡って、このお地蔵様を拝んでから平生の街に行きました。江戸から明治時代にかけての古道の跡なのです。
私見ですが、このお地蔵様は八海に渡し船があった場所に置かれているお地蔵様(天保8年1837年安置:八海地区の言い伝え)とよく似ています。このお地蔵様は、八海のお地蔵様と対になっているのではないかと思われます。
古道右側の、少し傾いたお地蔵様 江戸時代に安置されたらしいお地蔵様
なお初代八海橋が架橋される前、約1km上流に人島橋が文化9年1812年に架橋されていました。人島橋が架橋されてから数十年後、初代八海橋が架橋されたようです。渡し船では需要を満たせなくなり、初代八海橋が架橋されたようです。八海側のお地蔵様は、渡し船の時代か架橋時に安置(天保8年1837年)されたのではないかと思われます。なお、渡し舟をしていた家(屋号:渡し屋)のご子孫が、初代八海橋があった場所(渡し舟をしていた場所)に住まわれています。
なお八海地区の方から聞いた話ですが、初代八海橋は昭和20年代まであり、ルース台風で壊れた後に撤去されたそうです。その頃、すでに2代目八海橋は架橋されていました。初代八海橋が撤去されるまでしばらくは、初代と2代目は並立していたのではないでしょうか。その並立していた頃まで、こくぼ橋も使われていたのではないかと思われます。その後、三新化学ができた時に、完全に初代八海橋とこくぼ橋間の道が遮断されたのではないかと推定できます。
今、八海橋は3代目の橋が架橋されています。一方の人島橋は昭和2年に再架橋された後、昭和40年頃廃棄されました。国道188号線が通る八海橋の重要性は今や不動です。
※
八海をスタートして田布施川左岸の堤防を上流に向かって歩き、新開橋から引き返して右岸の堤防を歩いて八海へ戻りました。途中、田布施川沿いの史跡や神社仏閣を訪ねました。歩いたコースを7ヶ所に分けました。それぞれをクリックしてください。
(1/7)八海天神社~こくぼ橋 (2/7)平生湾~灸川河口
(3/7)川添橋~旧関戸橋 (4/7)あいさつ橋~新定位堰
(5/7)水戸橋~詩情公園 (6/7)田布施町庁舎~旧関戸橋
(7/7)川添橋~八海公会堂
田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキングコースの概略
3月8日午後西田布施公民館で、田布施町の西山,木地地区で発掘された埋蔵物の発掘調査報告会がありました。この日時間が空いていたので参加することにしました。木地地区は行者山の西側にある地区です。この秋に行者山付近を散策していた時、田んぼの圃場整備のために掘り返されていました。その場所でたくさんの人が発掘作業をしている姿をみかけました。それらの発掘結果の報告会でした。
報告会があった西田布施公民館 発掘の様子などの掲示物
報告会場の西田布施公民館に遅れて着きましたが、発表が始まる直前でぎりぎり間に合いました。最初山口県の埋蔵文化財センターの方々から調査報告がありました。多く出てきたのは土器のようでした。土器は何百年経っても腐ったり変形することがありません。どの時代でも比較的よく発掘される遺物です。私は埋蔵物を掘ったことはありませんが、出てきたこれらの遺物に興味があります。
埋蔵文化財センターや田布施の担当の方々による埋蔵物発掘調査報告
報告があった場所の一つは、西山地区の上石田遺跡です。火葬墓が発掘されました。二つ目は木地地区の西河内,堀川,平井,三反地,水奥で遺跡です。このうち平井遺跡は弥生~古墳時代の遺物が発見され、9棟の竪穴式住居跡も発見したとのこと。さらに縄文時代初期に作られた石槍も見つかり、木地地区には1万年以上前から人が住んでいたそうです。これらのことから、田布施には1万年以上前から人が住んでいたことが分かります。
なお6000年前の縄文時代、縄文海進と言って海抜が今より3~5m位高かったそうです。したがって、木地地区は海岸近くだったかも知れません。それを考えると、城南は当然として、三輪や塩田付近も海岸が迫っていたかも知れません。石城山は海に突き出た半島だったのでしょうか。
※数万年前の氷河期、海抜が今より約100m低く朝鮮半島と日本は陸続きでした。氷河期が終わるとどんどん海が上昇しました。そして6000年前の縄文時代が最も海抜が高くなりました。その後多少の上下はありましたが、ゆっくりと今の海抜になったようです。
説明中の埋蔵文化財センターの方 説明中の田布施教育委員会の担当の方
スクリーンでの報告の後、実際に発掘された遺物の説明がありました。最初埋蔵文化財センターの方が、次に田布施町教育委員会の担当のから説明がありました。私が一番興味を持ったのは、穴開けの形跡があった石包丁です。硬い石に小さな穴を開けるのはとても大変だったようです。穴を開けるのを途中で諦めて、使い方を変えていることが分かる珍しい石器です。
発掘作業をしている姿を見かけた西河内遺跡が、発掘後どうなったか見に行きました。すると、すっかり土で埋められていました。この遺跡、この春から整備された田んぼとして生まれ変わり稲が作られるのでしょう。
ところで、深夜2時頃に震度5の地震がありました。山口県でもこれほどの地震があるんですねえ。山口県に住んでいた高校生の頃、震度2程度の地震があったと記憶しています。その時、「これが地震か」と妙に感心したことがあります。
今回の地震がおさまった時、東京で経験した東日本大震災を思い出しました。その時ビルにいましたが、「ビルが倒壊したらおだぶつだなあ」と一瞬思いました。私は運良く自宅に帰ることができましたが、家内も含めて何万人もの人が帰ることができませんでした。その後数日間、計画停電で街の明かりや道路の信号灯が一斉に消えたこと,ガソリンが無くて困ったこと,エレベータが使えずバケツリレーの要領で上階に荷物を運んだことなどを思い出しました。
圃場整備され綺麗に土で埋められた木地地区の西河内遺跡付近
東京から帰って一番最初にした農作業は、春ジャガイモの植え付けです。2/末にしようと思っていたのですが3月になってしまいました。去年は植え付けがだいぶ遅れて3/末になりましたが、今年は3/上旬ですのでほぼ予定通りです。
春ジャガイモの種芋を植え付ける畝を耕耘機で耕す
今回植えたジャガイモの品種は、インカのめざめ,キタアカリ,そしてメークインです。私が若い頃のジャガイモ品種は、男爵かメークイン位しかありませんでした。今は、いろんな品種がたくさんあるので目移ります。
インカのめざめ,キタアカリ,そしてメークイン 浴光催芽処理した種芋
2月初めに春ジャガイモの種芋を購入してから、ずっと浴光催芽処理をしました。このため、大きく丈夫な芽が出ていました。このような芽が出るとよく育ちます。
耕耘機で畑を耕すと、いよいよ種芋を植え付けます。巻尺で植え付け幅(約50cm)どおりに植え付けました。そして、種芋間に肥料をまきました。
巻尺を使って約50cmごとに植え付け 種芋と種芋の間に施肥
肥料をまくと、3本クワを使って土を種芋の上に被せました。これで、植え付けの完了です。今後、芽を適正な数に減らす芽欠き作業や土寄せ作業があります。もちろん雑草などの草刈りも欠かせません。
今回植え付けたこの3品種とは別に、シンシアと呼ばれるフランスで改良されたジャガイモの種芋も購入しました。シンシアは芽の窪みがなく大きな芋が収穫できます。別の場所に後日、植え付けます。
種芋の上に土を被せる、今年も美味しいジャガイモが収穫できるかな
私は10年位前、昼間日立に勤務しながら、夜に介護福祉士の資格を取得するための専門学校の夜学に通っていました。そして、2年と3年の時にクラス委員長をしました。さらに、卒業時のアルバム担当もしました。その時、一緒にアルバム作りなどをした女性がいました。彼女など同級生を小学生の田植えに誘うなど、とても親しくしました。
今回、同窓会の打ち合わせをするために彼女に会う約束でした。5日に会う約束だったのですが、仕事が急に休めなくなったことと、おめでたが分かったとのことで、今回は会うことを止めました。子供が生まれて2歳位になって落ち着いた頃に会うことにしました。
横浜線で町田駅に向かう 購入したいくつかの電子部品
下の白い粒はマイクロディスクトランジスタ
5日、昨日に続いて町田市に行くことにしました。昨日4日小山田緑地公園をウォーキングする前に町田駅近くの電子部品店で部品を購入する予定でした。しかし、そのお店は休みでした。今回再度そのお店に行って電子部品を購入することにしました。雨が降っていたため、電子部品を購入するとファミリーレストランで一人食事をして我家に帰りました。
次の3月6日、山口県に帰りました。6日間しかいなかったので少し物足りない東京でした。6日ではなく10日位滞在した方が良かったかも知れません。
6日間いた東京八王子市の我家 新横浜から新幹線に乗車
新幹線に乗っていると、富士山がとてもよく見えました。新幹線には何十回と乗りましたが、富士山はいつ見ても美しいです。来年の夏に富士山に登るかも知れません。今年結婚する予定の娘が来年お相手と富士山に登るようで、私もお供で一緒に登るかも知れないからです。私はこれまで2度ばかり登りました。地平線いっぱいに広がる雲海は絶景です。日の出も良いですが、反対側に伸びる富士山の影は超巨大な日時計です。日本人でなくても一度は登ってみたい山です。
いつ見ても美しい富士山、新幹線から何度見たのだろう
名古屋,大阪,岡山と新幹線は進み、広島駅でのぞみからこだまに乗り換えました。そして、徳山駅で降りて、東海道本線上りに乗り換えて田布施駅で降りました。田布施駅から3km、中学生時代に通学したコースをたどって麻郷の我家に帰りました。いつものように、猫のリンちゃんがニャーと鳴いて出迎えてくれ、擦り寄ってきました。山口県の我家に、ただいま。
広島駅で、こだまに乗り換え 田布施町砂田交差点
小山田緑地サービスセンターで少し休憩し、次に小山田緑地公園の梅木窪分園に行きました。ここからは、ゴルフ場をぬうように道が続いています。最初、狭い窪んだ山道を登っていくと、吊り橋がありました。こんな場所に吊り橋が必要なのかと思いました。生活用の橋ではなく、あきらかに観光か景観用の橋ではないかと思います。吊り橋を渡らないでよいコースもありましたが、このさい吊り橋を渡ってみました。
笹に囲まれた窪んだ山道 この吊り橋を渡るとなだらかな丘
吊り橋を渡り終えると、なだらかな整備された山に着きました。整備されている理由は、この一帯がゴルフ場ばかりだからでしょう。脇道をそのまま歩いていると、いつの間にかゴルフ場の中に迷い込んでしまいました。一般人は入ってはいけないように思いましたので、そそくさと元来た山道に引き返しました。
広大なゴルフ場に迷い込む、元来た山道に戻る
次に、丘の上に続く小道をどんどん進みました。そして、休憩所に向かって降りて行きました。降りると、梅が咲いている広場がありました。そこには休憩用のイスが置いてありましたので、座って少しばかり休憩しました。
休憩所に降りる丘の小道 休憩用のイスがたくさんある広場
広場内のテーブル付きのイスに座っていると、二匹の猫が寄ってきました。しかし、一定の距離に近寄ると逃げ出してしまいます。目がきりっとしているため、全くの飼い猫ではなさそうです。休憩している人からおこぼれをもらっているのでしょうか?
君は、飼い猫?それとも野良? 休憩所すぐ近くのゴルフ場
休憩所からしばらく道なりに小川に沿って下ると、丘に向かう小道に入りました。この周辺には、東京国際ゴルフ倶楽部のゴルフ場がたくさんあります。ちょっと道を外れたり迷ったりすると、すぐゴルフ場に入り込んでしまいます。
私が日立に勤務していた頃、ゴルフを習うチャンスがありました。確か箱根のゴルフ場で初心者を集めての講習会だったのですが、登山と重なったため行けませんでした。今、大人の心得としてゴルフを習っておけば良かったと少しばかり後悔しています。
トンボ池に向かう整備された小道、敷かれているのはムシロ
ゴルフ場を抜けると、再び丘を降りる小道に出ました。ここからは小山田緑地公園の大久保分園です。竹林などの横を通る小道をどんどん下っていくと、トンボ池に到着です。この池、夏には葦が生え広がり、トンボの幼虫であるヤゴがたくさん住んでいるそうです。ヤゴは、小魚や昆虫などの小動物を食べて成長します。それだけ、たくさんの生き物が住みつく池なのでしょう。池に張り渡された木道を通って、池の上を歩きました。
池の上に渡された木道 ゴルフ場に囲まれたわずかな広場
ゴルフ場を左右に見ながら歩道をどんどん歩きました。すると、広大なキャベツ畑が見渡せました。ここで収穫されたキャベツは近くのスーパーなどに卸されるのでしょう。キャベツの玉が無かったので、すでに収穫した後なのでしょう。でも良く見ると、わずかに白菜が残っており、麦が少し植えられていました。白菜の時期はすでに終わっているので、何らかの理由で収穫できなかったのでしょう。麦はそう多く植えられていないため、収穫するためではなく土地改良のために植えられているのだと思います。キャベツ畑を左手に見ながら進むと、山中分園に着きました。ここまで来ると、町の賑やかさが伝わってきます。大妻女子大学脇を通って、京王線の唐木田駅に着きました。
今回の小山田緑地ウォーキングでは、最初バス路線を間違えてしまいました。しかし、ほど良いいい汗をかくことができ、夜はよく寝ることができました。
広大なキャベツ畑、残された白菜と麦が見える
小山田緑地サービスセンターからは、もっぱらゴルフ場の間を通り抜けるコースを歩きました。今度東京に来ることがあれば、また八王子近くを歩いてみようと思います。20歳代のように丹沢山系や奥多摩を歩くほどの元気も時間的余裕がないので、この町田周辺か高尾山周辺のハイキングコースを歩いてみようと思います。
今回歩いた小山田緑地公園のハイキングコース(後半)
人間ドッグが終わった次の日、4日は町田市にある小山田緑地を散策することにしました。天気も良好でしたので、のんびり散策することができました。町田駅に向かう途中、横浜線から丹沢山系が見えました。先日の大雪で、山はすっかり白くなっていました。
私が20歳代の頃、この山の5万分の1地図に掲載されたすべてのルートを走破しました。高さ1,500m程度の低山ですが、昔は冬に遭難者がいたようです。この山を縦走している時、その遭難の碑を見かけたことがあります。明治や大正時代は、まだまだ丹沢は未開の山脈だったのでしょう。
雪で白く変わった丹沢山系、 塔ノ岳,蛭ヶ岳等懐かしい山々
バス路線を少し間違えて小山田バス停でバスを降りましたが、気を取り直して小山田緑地に向かって歩きました。バス亭を三つばかり戻って大泉寺バス停から小山田緑地サービスセンターに向かいました。センターに着くと、緑地公園内のみはらし広場に行きました。そして、その広場に着くとイスに腰をかけて休憩しました。
小山田緑地公園の入口 展望が良いみはらし広場
みはらし広場には思い出があります。10年位前まで私はボーイスカウトの指導者をしていました。子供達を連れてこの広場によく来たものです。この広場脇の斜面でいろいろなスポーツをしました。簡単なものでは、チームで斜面を登ったり下りたりしてそのタイムを競うのです。
みはらし広場からは、富士山,丹沢山系,そして高尾山などの山々を展望することができます。みはらし広場での休憩が終わると、林の小道を歩いて、広大なスポーツ広場に行きました。
小動物が生息する林の小道 サッカーなどが楽しめるスポーツ広場
スポーツ広場には休憩所があり、私はトイレを拝借しました。その休憩所を出ると、スポーツ広場を回り込んで、池に向かいました。池に着くまで、こんもりした林間の小道を歩きました。落葉樹ばかりの明るい小道です。道を横切る木の根っ子につまずかないように、注意しながら歩きました。
池に向かう明るい林間の小道、数人とすれちがう
池は小山田緑地の低い湿地帯にあります。季節がらカエルが卵を産んでいないか、水面下を丹念に探しましたがありませんでした。これから産卵するのでしょう。4月中旬にはたくさんのオタマジャクシが泳いでいることと思います。このような広めの池だと、ザリガニ,フナ,亀などが生息していると思います。そして、これらの小動物を狙ってタヌキや鷺などが次々にやってくるのではないかと思います。
寒いためか生き物の姿を確認できなかった池
池付近は雪が残っていました。このため、みはらし広場と比べて数度気温が低いように感じられました。歩きを止めると、冷たい谷風のためすぐに寒くなりました。早々に池を立ち去り、小山田緑地サービスセンターに戻ることにしました。センターに戻るときは、軽トラックが通ることができるほどの広めの道を通りました。
雪が残る池の木道 センターに向かう広い道
広い道は、とても良く整備されていました。特に竹林は綺麗でした。枯れた竹が一本もなく、竹林を通して向こう側の丘が見えました。小山田緑地サービスセンターに着くと、センター内を少し見学しました。この小山田緑地に住む昆虫などが展示されていました。その昆虫の中に、先日田布施の伊差里ヶ峠に迷い込んだ時に発見したウスタビ蛾の繭と同じもの発見しました。東京でウスタビ蛾の繭を見ることになるとは思いもよりませんでした。その綺麗な薄緑色の繭を見て嬉しくなりました。
綺麗に整備された竹林 ウスタビ蛾の繭を見た小山田緑地センター
今回、町田駅から小山田緑地まで行くためのバス路線を間違えてしまいました。20年近く小山田緑地に行っていないので、土地勘が悪くなっていたようです。日大三高東バス亭に行くところを、遠い小山田バス停に行ってしまいました。小山田バス停から大泉寺バス停まで戻ってから、小山田緑地公園に行きました。ま、こんな事もあるでしょう。
今回歩いた小山田緑地公園のハイキングコース(前半)
3日は私の人間ドッグの日です。東京御茶ノ水にある病院に朝8時集合のため、朝6時に八王子の我家を出ました。八王子は東京の山梨県に近い場所にありますので、朝早く出ないと都心に着きません。朝やや暗い道をもくもくと歩いて、京王線堀の内駅に向かいました。そして、久しぶりの満員電車に揺られながら御茶ノ水駅に行きました。
まだ暗い朝、もくもくと道を歩く 満員電車から降りてやっと御茶ノ水駅
御茶ノ水駅を降りると、三楽病院に向かいました。ここが私が人間ドッグを受ける場所です。去年2月もここで人間ドッグを受けました。私が学生時代、友達がこの病院に入院していたことがありました。その友達を見舞いに来たことがありますが、当時は木造の古い建物だったように記憶しています。
一年ぶりに人間ドッグをうけた三楽病院
ところで今回、大嫌いな内視鏡(胃カメラ)検査を受けました。最近、胃がきりきりすることが多いため、心配になって受けることにしました。以前、胃カメラを受けてこれでもかと痛い思いをしたので、不安で仕方ありませんでた。しかし、今回は看護婦さんが背中をさすってくれたり励ましたくれたので意外と楽でした。看護婦さんのケアがこれほど大切だとは思いませんでした。
結果は、胃があれていることが分かり、ピロリ菌ではないかとのこと。そしてピロリ菌生体検査を受けることにしました。二週間後に結果が分かるそうです。ピロリ菌に感染しているようならば、6月頃にもう一度東京に行かなければなりません。また、胃液が少し逆流しているようで、食道も少しあれているとのことでお薬をいただきました。
御茶ノ水界隈の河津桜 神田川を渡る丸の内線、右は総武線
人間ドッグの診察結果が分かるのは、午後1時半頃でした。それまで時間が余ったため、御茶ノ水界隈を散策しました。最初、御茶ノ水にある明治大学,日本大学,中央大学記念館などを歩きました。そして、ニコライ堂や元日立製作所本社前を歩いて、神田川を渡りました。そして、徳川綱吉創建の湯島の聖堂(昌平坂学問所)に行きました。大成殿で筑波大学の彫塑展が行われていたため見学しました。ついでに孔子像なども見学しました。この湯島の聖堂に入ったのは学生の時以来ですので、約40年ぶりです。
筑波大学の彫塑展が開催されていた湯島の聖堂の大成殿
湯島の聖堂を出ると、秋葉原に行きました。まず最初に電子部品をいつも購入している秋月電子に行きました。今回は、半導体と放電管を購入しました。その頃、診察時間が近づいてきたため、いったん秋葉原駅に行き総武線で御茶ノ水駅に向かいました。そして、三楽病院に戻って診察結果を聞きました。気になるような病の疑いが無かったので、一安心しました。あとは二週間後のピロリ菌検査結果だけです。
電子部品を購入した秋月電子 総武線で御茶ノ水駅に向かう
診察結果後、病院から提供された食事券で食事をしました。人間ドッグの検査ため、昨日の午後6時からずっと何も食べていませんでした。このため、遅めの昼食をとても美味しく食べることができました。昼食後、再び秋葉原に行きました。今使っているノートパソコンは音が悪いので、今回USBスピーカーを購入しました。
この頃になると、空が晴れ上がってきました。青い空を時々見上げながら、秋葉原をのんびり散策しました。そして4時頃、秋葉原に近い京王線岩本駅から電車に乗って八王子の我家に帰りました。
青空が広がるJR秋葉原駅前
3月1日、山口県の我家から、東京八王子市の我家に帰りました。朝、歩いて田布施駅に向かう途中、交流館で行われている牡蠣祭りの様子を見ました。たくさん張られたテントの横に、長い行列が並んでいました。そして、テント内を覗いて見ました。すると、友達のN君,Eさん,そしてM君などが忙しく働いていました。
牡蠣祭り、テント前に長い行列 忙しく働くM君とEさん、ご苦労様
みなさんに「ご苦労さん!」と声をかけても、返事を返せないほど忙しく立ち回っていました。作業の邪魔にならないように、私は牡蠣祭りの会場を早々に立ち去り田布施駅に向かいました。東京八王子市の我家には、夕方に着きました。
寒い中、みなさんご苦労様 牡蠣を焼くため、火を起こしている方々
次の日の3月2日、少し雨が降っていましたが家内と買物にでかけました。雪が残る我家から車を出して、近くのショッピングモールに行きました。私は、冬用のズボンを買いました。畑仕事やウォーキングなどで酷使するズボンはかなり痛んでいます。このさい、4本のズボンを新調しました。今回、ひさしぶりにユニクロに行ってみました。ユニクロは、小学生5年生だった娘と行ったのが最後でしたので約20年ぶりでしょうか。
小雨が降るショッピングモールを家内と散策
ズボンの裾上げが終わる時間まで他の店に行きました。最初、園芸店に行きました。家内は肥料を買ったようで、私はピーナッツの種とつくね芋の種芋を買いました。山口県に持って帰って畑に植えるつもりです。その後、電気店などをブラブラしました。そして、ズボンの直しができた頃を見計らって再びユニクロに行きました。裾上げ済んだズボンを受け取り我家に帰りました。
ズボンを購入したユニクロ 購入した4本のズボン
私が日常暮らしている二階廊下の電球が突然切れてしまいました。切れたのは白熱電球です。このさい、LED電球に切り替えてみました。DIYのお店に行くと、いろいろな種類のいろいろな値段のLED電球がありました。60W相当1,780円のものを購入しました。
購入したLED電球 交換前と後の電球
東京八王子の我家は早くからLED電球にしています。この山口県の我家は、初のLED電球です。白熱電球が切れるたびにLED電球にしようと思います。すべての電球が切れて、すべてがLED電球になるのは何年後のことになるのでしょうか。
今回、白熱電球からLED電球に切り終えた天井灯
この古い東芝製トランジスタラジオ 7TL-204Sの修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/8) 修理(2/8) 修理(3/8) 修理(4/8)
修理(5/8) 修理(6/8) 修理(7/8) 修理(8/8)
古い東芝製トランジスタラジオ 7TL-204Sの修理は今回で終わりです。今回はラジオ本体の積年の汚れを綺麗にしたりして見た目を少しでも綺麗にしました。最初は、濡れティッシュで本体を大まかに拭き掃除しました。表面のちょっとした汚れは取れますが、プラスチックに染み込むように付着した汚れはどうしても取れません。
掃除に使った濡れティッシュ 本体をおおまかに拭き掃除
次に、濡れティシュでは取れない汚れはアルコールを使いました。アルコールを浸した綿棒で汚れた個所を強くこするように磨きました。アルコールを使うと、脂質分の汚れをよく取ることができます。
アルコール以外、例えばベンジンなどの溶媒を使うと、さらに汚れを落とすことができます。しかし、場合によっては強すぎてプラスチックが溶けたり文字が取れたりします。このため、私はアルコール以外の溶媒は使用しません。
綿棒にアルコールを浸す 汚れた個所を綿棒でこする
濡れティッシュやアルコールで浸した綿棒を使ってラジオ本体を綺麗にすると、修理する前よりは格段に綺麗になりました。このようにして、一生懸命修理して汚れを落としたラジオはとても愛着がわきます。
綺麗になった古い東芝製トランジスタラジオ 7TL-204S
本体の清掃が終わると、バーアンテナにわずかな量の油をさしておきました。油を少しつけて指でアンテナ全体に伸ばすようにしました。最後に、このラジオを包む革を綺麗にしました。濡れティッシュで革全体を擦るように拭きました。これで、ちょっとした汚れは取れました。
バーアンテナに油をひく 濡れティッシュで革の汚れを取る
これで、このとても古いトランジスタの修理を終わりましたが、いくつもの困難がありました。今後、これと同じくらい古いトランジスタラジオを直す指針になりました。単に部品を交換するだけでなく、いかにオリジナルを保つことに工夫するかが大切だと思います。
綺麗にしたラジオを再度聞きましたが、少し感度が落ちたのか聞きづらくなっていました。いつか時間があれば、再度トラッキング調整などをやり直そうと思います。
ようやく修理が終わって、綺麗になった東芝製トランジスタラジオ 7TL-204S
真空管ラジオを修理するにあたって一番困るのは、とうの昔に製造中止になっている真空管の入手です。ラジオの同調を視覚的に表示するマジックアイと呼ばれる真空管は、特に入手が困難です。この真空管、先日秋葉原に行った時に探してみました。すると、1本5,000円以上するのです。そのため、この真空管の購入をあきらめていました。
購入した2本のマジックアイ マジックアイのソケット
ところが、オークションを見ていたところ2本/5,000円のマジックアイを見つけました。掘り出し物か、偽物か・・・とても迷いましたが、購入しました。届いたマジックアイを真空管ラジオに取り付けてみると、下画像のようにきれいな緑色を発色しました。そして、ラジオの同調に合わせて緑が閉じたり開いたりします。
これで、真空管ラジオを直すことができます。オークションは、偽物などのリスクが伴いますが、今回のように正規品を安く手に入れることができます。
とてもきれいな緑色に発色するマジックアイ
去年、砂糖カエデの苗木を移植しました。冬の時期は、選定に適している時期です。このため今回、無駄に出ている脇枝を剪定しました。そして、その切り口に、枯れ防止のための殺菌剤が入っている薬を塗っておきました。
選定バサミで枝を切り落とす 切り口に殺菌剤入りの薬を塗布
砂糖カエデの枝を選定すると、その切り口からどくどくと樹液が出てきました。砂糖カエデの樹液を煮詰めるメープルシロップになります。そこで、その垂れるように出た樹液を舐めてみました。すると、他の樹木の樹液のように苦くはありませんでしたが、甘くもありませんでした。だいぶ育たないと甘い樹液を採集できないようです。しばらくすると、樹液が出なくなったため、その乾いた切り口に重ねるように薬を塗布しておきました。
切り口から垂れるように次々に出てきた樹液(無色透明)、橙色なのは薬の色
春になって暖かくなったためか、椎茸(しいたけ)がたくさん出るようになりました。一昨年しいたけ菌を植え付けた原木からはまだ出ていませんが、それ以外の原木からはたくさん出ています。たくさん出るのは、暖かくなった雨上がりの日です。そんな日には食べきれないほど収穫できます。
しいたけの伏せ場、並べた原木 原木にたくさん生えたしいたけ
一番美味しいしいたけは、傘が完全に開く前のものです。収穫した直後のものを、火にあぶって軽く醤油を付けて食べると最高です。
しいたけも美味しいのですが、マツタケがより美味です。私が子供の頃、近くの山にはたくさんのマツタケが取れました。あのマツタケの香りがいまだに忘れることができません。何とか、マツタケが採れるような山に戻せないかと思います。
大きく育ったしいたけを手でもぎ取る
我家には二人しかいないので、収穫したしいたけをすべて食べきることができません。せっかく収穫したしいたけを捨てるわけにはいきません。時々、おすそ分けで近所の人や、知人に差し上げます。
しいたけにはいろいろな品種があるようです。私が好きな品種のしいたけは、大きくなっても笠がひび割れないものです。ただ、そのような品種は育ちが遅いため、早く収穫したいものと混作しています。これから4月下旬にかけて、しいたけが毎日のように収穫できます。
今回収穫したしいたけ、いくつかはおすそ分けする
去年の秋から、伐採した雑木を燃やして続けています。今回は、先日伐採した庭木を主に燃やしました。最初、チェーンソーで庭木の枝を切り落としました。そして、最後に幹を半分に切断しました。いつもの場所に、切断した枝や幹を運んで燃やしました。
チェーンソーで枝や幹を切断 最初、枯れ枝から燃やす
たき火の手順は、一番下に新聞紙など、その上に乾いた細かい枝、そしてその上に今回運んだ枝や幹を載せます。一番下に置いた新聞紙に火をつけます。すると、だんだん火が広がって全体的に火が回ります。一度火が回ると、後は鎮火する前に次々に枝などを放り込みます。ただ、炎が大きくならないようにコントロールしながら管理しなければなりません。当然のことですが、火事に備えて水を入れたバケツなどは忘れてはいけません。
炎をコントロールしながら、燃やす枝を放り込む