秋に種をまいた絹さやエンドウ豆、ようやく初収穫しました。仕事をしたり,史跡などの調査にでかけたり,草刈りなどをしたりしているうちにすっかりこの豆の事を忘れていました。種をまくのが少し遅れたため、冬の間はあまり成長しませんでした。しかし、春になって元気になり、これからしばらくは収穫を楽しむことができそうです。
次々に咲く絹さやエンドウ豆の花 片手に一杯の鞘
そのグリーンピースもいっしょに収穫しました。絹さやエンドウ豆とグリーンピースの若鞘の両方を油で炒めて食べました。食べる時のポリポリする食感が私は好きです。なお、去年作ったスナップエンドウは今年は作りませんでした。グリーンピースの若鞘で代用できるからです。エンドウ類は今しか収穫できません。季節を感じさせる野菜です。この秋、絹さやエンドウ豆を主に、スナップエンドウ豆とグリーンピースを少し作ろうかと思っています。
収穫した初物の絹さやエンドウ豆、この後炒めて食べる
平さんの棚田に到着すると、周りを少し散策しました。最初は2段程度の棚田かと思いきや、5段近くありました。小屋の上にある1段は田んぼとして使われていましたが、その段以外の棚田は使っていないようでした。平さんにお話しを伺うと、田んぼとして使っている棚田はやはり1段だけとのことでした。その使っている棚田も少しずつ水が抜けるそうです。
石垣のような棚田を上がって小屋に 田んぼの畔から小屋を見おろして
到着したのが12:30頃でした。棚田を少し散策すると、平さんを中心にして昼食休憩をしました。平さんはすでに昼食を済ませたようで、昼食中にいろいろとお話しを聞くことができます。特に先代の棚田作りの技についていろいろ聞きました。
祝島のような急な山の孤島では、雨が降るとすぐに海に流れてしまうそうです。その水をいかにして留めておくかが、工夫のしどころとのこと。このため、ため池作りも棚田作りも同じような技が生かされていたようです。水が漏れないないようにため池を作ることは、相当な知恵や技が必要だったにちがいありません。
平さんを中心に、豊後水道を見ながら昼食休憩
今回の祝島ウォーキングに参加した人は17人でした。人数が多いため、二つに分かれて昼食休憩しました。1つのグルーブは、棚田広場の上に敷かれたゴザ(平さんに用意していただく)に平さんを中心に座って昼食休憩しました。もう1つのグループは、小屋の中で食べました。日差しが強かったため、外での食事は少し暑かったです。しかし、小屋の中は土壁で囲まれていたためかとても涼しかったです。小屋の中を少し拝見させていただくと、囲炉裏がありました。また、唐箕などの手動の農器具がたくさんありました。
少し暑かったかな、外での食事 涼しい小屋内での食事
食事が終わると平さんに、米作りなどの話を棚田の田んぼに行って教えていただきました。また棚田の特徴、例えば水が流れこむ穴や大水の時の水抜き穴の工夫なども教えていただました。また、石組みの底に通じている穴などについても教えていただきました。かつて、その穴が本当に下段の棚田と通じているか確かめるため、下段の穴で火を燃やしたそうです。すると、上の段からちゃんと煙が出て来たとのこと。
きれいに代かきされた田んぼ 田んぼの畔に立って棚田の説明
棚田の最奥上部に行ったみました。すると、採石場のような場所、古墳の石室を思わせる石蔵、降った雨を集める溝などの工夫があちこちありました。急斜面を転がり落ちて木の幹で止まった大石などがありました。とてもがけ崩れしやすい谷のようです。このまま手入れをしないと、この棚田は数百年ももたないで崩れてしまうように思いました。
棚田の巨大な石組み前の道路にて
棚田の一応の説明を聞き終ると、道下の棚田も見学しました。道下には2段の棚田がありました。ここ数年は、田んぼとしても畑としても使っていないようです。その広い場所は雑草で覆われていました。下から2段目の石組みには、かなめ石と呼ばれる大石がありました。人が手を広げても届かないようなその大石は、石組み途中に置かれていました。このかなめ石を外すと、支えを失って棚田は一気に崩れてしまうのでしょうか。こんな巨岩をどうやって運び出し、この場所に置いたのでしょうか。
2段目の巨大な石組み、人の大きさと比較
最も下の1段目の石組みは上からは見えません。1段目の石組みを見ようと、降り口を探してみましたがありませんでした。どこかにか降り口あるのでしょうが。1段目の石組み側は谷底のように深くなっています。しかも大木が生えているため、石組みの全容がまったく見えません。見えたならば、これまた巨大な石組みで構成された棚田ではないかと思われます。先先代が一番最初に作った棚田ではないかと思います。再度この棚田に来ることがあれば、1段目の棚田を海側から見上げてみたいと思います。
別れ際、再度平さんに説明を受ける 平さんの棚田に分かれを告げる
午後2時時過ぎ頃に平さんの棚田を出発しました。連絡船が出港するのは午後5時のため、十分に時間があります。左右に広がる景色を見ながら、のんびりと港に向かって歩きました。舗装された道ですので、段差や石につまずくこともありません。途中、道の草を刈り取っている方々とすれ違いました。これから、秋にかけて定期的に草を刈り取るのでしょう。特に真夏の草刈りは大変だと思います。ご苦労様です。
脚の長さを考えると、Aちゃんは大人の倍以上の歩数を歩いたのかな?
道をのんびりと歩いていると、上関の長島が見え、続いて祝島の港が見えてきました。そして、牛島や、その向こうに千坊山などの山々が見えてきました。坂を下れば、港はすぐそこです。
1時間程度のんびり歩いていると、祝島の港が眼下に見えてくる
行きは上関小学校の校庭を通りましたが、帰りは大歳神社に寄りました。この大歳神社、恵比須神社も一緒にあるようです。石階段を登ってお参りしました。神社の最奥部にはとても古くみえる石遺跡のようなものがありました。年号などが彫られていないため、いつの時代のものかは判定できませんでした。神社にお参りすると海岸に降りました。そして海岸伝いに港に行きました。最近開店した喫茶店で1時間程度時間をつぶしました。
時間をつぶした港の喫茶店 海が見える連絡船の甲板に座る
午後5時少し前に連絡船がやって来ました。団体割引の切符を購入すると、さっそく船に乗り込みました。来たときと同じように、波しぶきや島々がよく見える甲板席に座りました。
出港後、しばらくして後ろをふりかえると祝島が見えました。祝島は海岸から山が立ち上がっているため、人が住む平地がとても少ないことが分かります。古来この島に暮らす人々は、平さんのように急斜面を開墾しながら厳しい生活してきたのでないかと思います。
船から祝島を振り返って、海岸から急な斜面が立ち上がる島影
ところで、私の父親の親元である中田姓は祝島の出身です。150年位前に祝島から平生町に移り住みました。言い伝えでは、平生町にある塩田に薪を運んでいた船乗りだったとのこと。祝島に中田姓の人が住んでいるかどうか聞いてみましたが分かりませんでした。全員が島を出たのか、絶えてしまったのでしょうか?また、私の高校時代の同級生I君も祝島の出身なのですが、これも分かりませんでした。再度祝島に来ることがあれが聞いてみようと思います。
上関大橋の下をくぐって室津に戻る 下船した連絡船「いわい丸」
初めて訪れた祝島、とても楽しくウォーキングすることができました。今回参加された方々も、同じく楽しめたのではないでしょうか。毎月の定例ウォーキングの他に、今回のような特別ウォーキングもいいものです。来年も、島か近県をウォーキングできたらと思います。今回は、よく晴れた快適な祝島ウォーキングでした。参加された方々、お疲れ様でした。
祝島の港から平さんの棚田への、片道約4.3kmのコース
==========健康ウォーキングクラブ==========
上関町をウォーキングしたのは、1年ほど前に上盛山や御汗観音などをウォーキングして以来のことです。今回は、皆さんからリクエストがあった祝島をウォーキングしました。9:00に平生町のMaxvaluに集合して、上関町の室積に行きました。待合所で切符を購入して桟橋に行き、到着したばかりの連絡船「いわい丸」に乗り込みました。
いつもは私が調査,下見してウォーキングするのですが、今回は祝島をよく知っているKさんに案内をお願いしました。棚田で有名な平さんに事前に連絡をしていただいたとのこと、Kさんありがとうございました。
柳井-祝島の連絡船「いわい丸」に乗船 海が見える後部甲板席に座る
私は連絡船と言うので、昔乗った伝馬船のような船を想像していました。しかし、それはまったくの間違いでした。双胴船のようで、意外と速度が出る船でした。20~30ノット位は速度が出ているように感じました。室津を出て上関大橋の下をくぐると、船はさらに速度を上げて周防灘を進みました。
上関大橋の下をくぐって長島沿いに進む連絡船
これまで何度か長島の蒲井,白井田,四代などを陸伝いに訪問したことがあります。今回初めて海伝いに走る船に乗りました。私と同様、ほとんどの方が祝島が初めてです。しかも船に乗るのが久しぶりの方が多く、波しぶきに歓声を上げていました。私も、久しぶりの船に心躍るものがありました。
船から長島方面を眺めて 原発予定地はこの辺でしょうか?
長島の西端を過ぎる頃、上関原発の話題が自然に出ました。数人の方が甲板に出てきて、予定地付近の写真を撮影していました。原発予定地を過ぎると、船は一気に豊後水道に出ました。南の方向を見ると、うっすらと佐多岬が見えました。その南は太平洋に続いているのです。そうこうしているうちに、祝島の港に到着です。
波しぶきをあげて豊後水道を横切っている連絡船「いわい丸」
10時に室津を出て、10時半頃に祝島の港に着きました。最近の船は早いですね。私は連絡船と言うと、どうしても伝馬船のようなポンポン船を思い出します。焼玉エンジンで動く木造船です。この連絡船「いわい丸」の銘板を見ると、平成4年に進水しています。20年も前から連絡船として活躍しているのです。私の思い出だけが古くなっていたようです。
祝島の港に接岸した連絡船 港に着いて、ウォーキング開始
港に着いて下船すると、ウォーキングの開始です。今回の目的は、祝島の南西域にある平さんの棚田に行くことです。最初、祝島の町並みをぬうようにして歩きました。独特の塗り壁を見させていただきながら狭い道を進みました。上関小学校に着くころには、町並みも静かになり豊かな自然が顔を出すようになりました。
防風を兼ねた独特の塗り壁 自然を鑑賞しながらウォーキング
上関小学校を過ぎてしばらくすると、港を見下ろすことができる高台に着きました。遠くを見ると、目の前には牛島が、その左手には光市の象鼻ヶ岬,右手には平生町の大星山や佐合島,上関の皇座山などが見えました。いつも反対側からしか見たことがない風景です。そう言えば、去年の今頃、像鼻ヶ岬の峨眉山から祝島を遠望したことを思い出しました。しばし、足をとめて眺めを楽しみました。
目の前に牛島が、その左手に象鼻ヶ岬の峨眉山を展望
どんどん歩いて行くと、港が見えなくなりました。続いて上関の長島などが見えなくなり、うっすらとした佐多岬だけが見えるようになりました。豊後水道です。広い海がどこまでも続いてみえます。そのはるか向こうには太平洋が続いています。
今回歩いた道は、何年か前までは舗装されていなかったとのこと。今は厚く舗装され歩きやすい道になっています。その道をさらに進みました。
豊後水道を左手に見下ろしながら、舗装された道を進む
紺碧の海と青い空を見ながら歩くと、ビワの木々が次々に現れました。ビワ園がたくさんあるようです。しかしながら、谷底のような畑に栽培されたビワ、袋掛けは大変な作業だと思います。私もビワを作っていますが、祝島のビワの袋かけ作業を思うと頭が下がります。所々に収穫用や移動用のトロッコやリフトのようなものがありました。
涼しげな樹木のトンネルを通る 袋がけされた、急斜面のビワ
港から4km近く歩いて、ようやく平さんの棚田に着きました。何年か前にテレビ放送で見たことがありますが、実物は圧倒的な存在感があります。天にも昇る棚田の巨大石組みです。この大規模な石組みが、たかだか3世代ほどで作られたとは信じられません。棚田の中心付近にある建物も手作りとのこと。人のすごさを五感で感じることができる棚田です。
圧倒的な存在感がある、天にも昇る棚田の巨大石組み
のんびり歩いたので棚田に着いたのが12:30頃でした。着くと、平さんが待っていました。さっそく棚田のお話しを伺いました。平さんの先代は、棚田作りやため池作りの名人だったそうです。16歳で、祝島のため池作りや管理を任されたとのこと。この棚田の上の方にある巨岩を運び出すさい、先代は計測器も何も使わずに見ただけで棚田のどこに組みこんだらよいか分かったそうです。、また、どの面を表にすればよいか分かったそうです。重機を使わずに紐や木の棒などだけを使って、どうやってお城のようなこの巨大な棚田を作ることができたのでしょうか。
平さんを中心に、棚田の中心近くにある小屋前にて
船を使って出かけたウォーキングは初めてです。船酔いに備えて酔い止め薬を飲んできた方もありました。しかし、左右の島々や海しぶきを気を取られた約30分、景色などに見とれて酔う暇はなかったようです。下画像は室津の港から祝島の港までの航跡と、祝島に着いてから歩いた道筋です。快晴にも恵まれ、快適なウォーキングをすることができました。
黄色の線は、室津から祝島までの航跡と、祝島に着いてから歩いた道筋
==========健康ウォーキングクラブ==========
10日ほど前にサツマイモ苗を植え付けしましたが、今回は2回目のサツマイモ苗の植え付けをしました。クワで山型の畝を作り、黒マルチを張って苗を植え付けしました。去年は黒マルチをしなかったのに加えて、草取りをちゃんとしなかったため、真夏は猛烈な雑草が生えました。このため、苗があまり成長せず、結果として小さなサツマイモばかりでした。なお、肥料はやりません。肥料をまくと葉ばかり茂って、立派な芋ができないことがあるためです。
10年位前、落葉を集めてその落葉を発酵させて熱を出す、踏込み温床を作っていました。そして、種サツマイモを伏せこみして苗自体を作っていたことがあります。今は、1,000円程度の苗を購入します。踏込み温床は時間もかかりますし、入れる落葉も半端な数ではありませんので。
苗を植え付けする前に黒マルチを張る 植え付けると日差し避けの草
今年は、ちゃんと黒マルチを張った上で、約40cm間隔に穴を開けて、その中にサツマイモの苗を植え付けしました。今は日差しが強いので、苗がしおれてしまい枯れてしまう場合があります。根がちゃんと張る約1週間後まで、日よけとして刈った草を掛けておきました。
苗を植え付けしながら、並行して刈り取った草をかける
黒マルチを掛けるまでは、皆同じだと思います。しかし、そのあとの穴のあけ方,植え付け方,日よけの方法などは地域や各家で違うようです。私は、丸い穴を開けて、杭を斜めに差し込みます。その杭で開けた穴にスイーっと苗を差し込みます。
杭を差し込みその穴に苗を挿入 苗に土を寄せ、日よけの草をかける
苗の植え付けが終わるごとに、近くの雑草を刈り取っては苗の上にかけています。根が生えていない苗は、植え付け直後はひ弱です。日よけのために草をかけています。前回植え付けたサツマイモの苗は、根が生えたのか葉がすくっと立つようになりました。今回植え付けた苗も、根がしっかり生えるには一週間程度かかります。それまでは草をそのままかけておきます。
植え付けが終わり、上に日よけ用の草をかけたサツマイモの苗
麦畑では、晩秋に種まきして麦踏みした小麦とオート麦が出穂時期を迎えています。今年は、畝間を広げたため太陽がより差し込んだのでしょう、去年より穂が大きいように思います。去年は肥料が多かったためか、風で倒れる麦が少なからずありました。今年はそれを反省にして、肥料はそれほど与えませんでした。このため、今年は倒れる麦が今のところ1本もありません。
この小麦、これまで手回し式の製粉機で製粉してきました。しかし、すべての小麦を製粉できませんでした。このため、去年はだいぶ小麦を余らせてしまいました。もったいないのですが、余った麦を肥料として畑にまきました。今年は、中古の電動式製粉機を購入しようと思います。余った小麦粉をパン用として、おすそ分けできるのではないかと思います。
いっせいに出穂した小麦(品種:ミナミノカオリ)
小麦にやや遅れてオート麦(オートミールとも言う)が出穂時期を迎えました。オート麦は燕麦の裸種ですので、穂の着き方は燕麦と見分けがつきません。収穫して脱穀した後に、皮を取ることができます。私はまだ、このオート麦を食べたことがありません。今年はそれなりの量を作っているため、食べることができると思います。押し麦にして食べるとよいようです。
小麦にやや遅れて出穂したオート麦
手作り展望台を過ぎると、先日行った石鳥居や山桜の大木近くに行きました。今は車で多賀神社まで行きますが、今回は昔の人が歩いた古い参拝道を歩いてみました。その古道は、車道のためにいくつも寸断されています。
展望台近く、教円寺からの参道 教円寺からと郷江からの合流地
展望台からのすぐの地点に、ただの山道にしか見えない教円寺からの古い参道があります。そして少し歩くと、郷江方面からの参道と合流します。この付近は、古くからの参道と車道が交互に混じりあっています。この付近、北の方角が開けています。今、古来の参道を通る人はめったにいないのではないかと思います。
田布施とは反対の方角である、北の方角を見て
古い参拝道を通って多賀神社に行ってみることにしました。車道とは反対の南側を通る道です。道の周りには大きな木が茂っているため、やや暗い道を歩きます。南側を回り込むようにして落ち葉が溜まった参拝道を歩くと、石段の最下段の場所に着きます。ここは、余田畑から参拝にくる人と出会う場所です。ここから、参拝者は多賀神社の石段を登ります。
なお、今は車で多賀神社に来ることができます。車で参拝する人は、石段を登らなくても多賀神社に行くことができます。
多賀神社の南を回り込む参道 石段を登りきると多賀神社
多賀神社に行くと、今度は小行司の郷江に行きました。今回の目的の一つは、ウォーキングのための下見時に見逃した、小野太市の石碑の確認です。郷江公民館と旧小行司小学校跡地の間にあるはずです。郷江公民館,力士小桜の石碑,お地蔵様と、一つ一つ確認しながら探しました。
右から、郷江公民館,力士小桜の石碑,そしてお地蔵様
順番に探していると、小野太市の石碑がありました。樹木に隠れていたので前回分からなかったのです。小野太市は小行司出身で、軍艦厳島に乗って日清戦争時に出征した人だそうです。ただ、大きな石碑の隣りにある小さ目の石碑が根元から折れていました。なぜ折れてのでしょう?その理由を、付近の方に聞いてまわることにしました。しかし、この石碑のことを知っている方がほとんどいませんでした。
人のつてを頼りに90歳近くのOさんを訪ねました。すると、昭和10年か11年に道の改修をした時に、石碑を今の場所に移したとのこと。もしかして、その時に折れたのかも知れません。折れているならば、折れた上の部分はどこにあるのでしょうか。残念ですが、知っている方は今や誰もいないようです。
左:小野太市の石碑、右:道路改修碑 矢印の部分が折れた個所
下の図で、黄色の線は多賀神社を参拝するために昔使われていた古道。水色は今の車道です。昔は、いったん神社の南側に回って石段の最下段から本殿に登ったようです。18日のウォーキングでは、古来使われた参道を歩いて参拝してみようと思います。
水色:舗装された車道、黄色:昔使われた古い参拝道
先日、大波野の古墳や遺跡を巡るミニウォーキングをしました。その時、ため池をはさんで神社の反対側にあると聞いた祠に今回行ってみました。その祠、絶壁のような階段を上がった場所にありました。祠の後に瓦製のミニ屋根の残骸がありました。もともとは瓦製だった立派なミニ根が何らかの原因で壊れたのでしょう、セメントで作り直した屋根の祠でした。碑文がなにも無いので、いつ建立されたのかなど分かりません。草が生えていないので、地域の人が定期的に除草しているようでした。不思議な祠でした。
見上げるような急階段 いつ頃建立?不思議な祠
大段地区の言い伝えでは、ため池の両側にある神社とこの祠で、山の向こうからやって来る邪気などの悪しき霊などから大波野を守ってきたそうです。病や災害のような自然災害の理由が分からない時代、このような狭い峠や山境から邪気がやって来ると思われていたのでしょう。
さて、祠に行く急階段頂上から南側を見ると、ため池をよく見渡すことができます。ため池ができる前、どんな風景が広がっていたのかと想像しました。
大波野上段地区の北奥にある、祠から見下ろしたため池
続いて、またまた小行司に行きました。何回目の小行司でしょうか。行く途中の教円寺の東隣りに多賀神社への登り口がありました。そして、その登り口に新しいお地蔵さまがありました。お地蔵様は昔からあり、屋根や柱が新しく作り変えられたようです。その昔、大波野や塩田方面からここを登って多賀神社に参拝したのでしょう。
教円寺脇の多賀神社へ向かう登り口 手作り展望台そばの丸い大岩
次に、多賀神社に行く車道の途中に、見晴らしの良い場所があります。そこには、小行司の方が作った手作り展望台があります。すぐそばに、不思議な丸い大岩が三つ無造作に転がっています。18日のウォーキング時、見晴らしの良いこの展望台で昼食休憩すると良いかも知れません。
多賀神社から少し離れた、車道沿いの見晴らしの良い手作り展望台
多賀神社からの展望も良いのですが、周りを木々が覆っています。このため、広く見渡すことができません。この展望台の方が、もう少し見晴らしが良いです。大波野,田布施,平生湾,馬島佐合島などが良く見えます。そして直下に、しろかき中なのでしょう、水を溜めた生野の田んぼが少し光っていました。
多賀神社から300m位西にある手作り展望台から南を見下ろして
冊子「田布施の名木」に記載されている、田布施町小行司教円寺の樹齢100年以上の栃(トチ)の木を訪ねました。事前にこのトチの木が枯れていることを知っていましたので、枯れた株がどのようになっているか調べに行きました。教円寺の方に、その枯れた株を教えていただき、このトチの木についてお話しを伺いました。お話では、トチの木が茂っていた頃の夏は、日陰がとても涼しかったとのこと。また、枯れた原因は剪定をし過ぎたことに加えて、根が回り込んだ舗装道路が根を傷めたのではないかとの事でした。
100年以上前に芽生えた教円寺のトチの木、もともと近くの奥深い沢筋に自生していたものかも知れません。又は、当時の住職さんが拾ってきたとしても県内又は遠くても隣県ではないかと思われます。トチの実は少しでも乾燥すると発芽力が落ちますので。
冊子「田布施の名木」 教円寺のトチの大木 撮影:平成13年
その枯れた株はとても大きなものでした。幹の中が空洞になっており、子供が一人隠れることができるほど大きなものでした。樹齢は100年を超えているそうです。トチの木は東北地方など、寒い地方でしかも沢筋によく生えています。九州,四国,中国地方では山奥にしか生えていないようですので、田布施のトチの木はとても貴重です。
今から数万年前、日本が寒冷化していた頃の田布施の生き残りのトチの木かも知れません。当時は、田布施の沢筋にたくさん生えていたのではないでしょうか。ところが、1万年前位頃から温暖化が始まりました。すると、コナラやクヌギに代表されるどんぐりが勢力を盛り返してきます。その結果、田布施ではトチの木は衰退し、寒い山奥や東北だけにトチの木が残ったのではないかと思われます。なお、ドングリはリスなどが積極的に食べて種をばらまきますが、リスなどはトチを食べることができず結果として種をばらまけません。暖かい土地ではトチは繁殖できにくいのです。
樹齢100年以上で中心部が空洞になっていたトチの枯株
ところで、私は若いころ奥多摩や東北の民俗や古い食文化を調べていました。その時、雑穀やトチの木にも興味を待っていました。雑穀の種をもらって育てたり、トチ餅の作り方を教えてもらうなどしました。その一環として、トチの実を山から拾ってきて苗を育て、そのトチの苗を畑の斜面に移植しました。そして、毎年大きく育つトチを眺めたものでした。今でもそのトチは畑の斜面で育っています。
ところで、教円寺の方から貴重な情報を得ました。それは、枯れる前のトチの実を郷江の方が昔拾って植えたとの情報です。そこで、小行司の郷江地区にトチが生えていないか探すことにしました。
小行司の教円寺 枯れたトチの枯株の前でお話しを伺う
トチの木が生えていないか郷江地区をあちこち探索している途中、農作業している方を見かけました。その方に事情を説明すると、T1さんを紹介していただきました。
T1さんのお宅に行くと、庭で待っておられました。さっそくトチの木を話をすると「実をまいてみたが芽が出なかった。」とのことでした。ところが、たまたまT1さんの家に来ていたT2さんが「うちにトチが生えている。」とおっしゃいました。さっそく、T2さんのお宅にお邪魔すると、立派なトチの木が生えているではありませんか!このトチの木は、T2さんのお母さんが昔、教円寺から拾ってきたトチの実を植えたものとのこと。直径が25cm位のトチの木でした。樹上に白い花がたくさん咲いていました。T2さんにいろいろお話しを伺い、この秋にT2さんにトチの実を分けていただくことになりました。ありがとうございます。
私案なのですが、この実をまいて苗を育て、教円寺の枯株そばに苗を植えさせてもらおうかと思っています。そうすれば、教円寺のトチの木の復活です。100年後には、立派な名木になるはずです。
その昔、T2さんのお母さんが教円寺で実を拾ってきて育てた立派なトチの木
話が変わりますが、昔、東北地方では、嫁をやる場合に、先方の家にどれだけトチやどんぐりの木があるかで決めていたそうです。飢餓がよく発生した東北地方では、生き残るためにドングリやトチを食べることが少なからずあったからです。私は生でトチの実をかじったことかありますが、苦くてとても食べられたものではありませんでした。そのあくを取るのに、水にさらしたり,お湯で煮たり,灰で煮たりなど、とても大変な労力を要します。その点、どんぐりは生で食べることができる種類があり、あく抜きも比較的容易です。なお、平生の岩田遺跡(縄文時代)では、どんぐりの貯蔵穴が発見されています。この田布施でも2000年以上前、もちろんどんぐりは食べていたでしょうが、はたしてトチの実を食べていたのでしょうか?
特徴的なトチの木の葉、小葉五つで一つの葉
なお、平生町の街路樹(マロニエ通り)として植えられているマロニエは、西洋トチの木のようです。だとすると、日本在来のトチの木ではありません。特に花の色が赤いトチの木は、西洋トチノキ(マロニエ)と思って間違いありません。なお、マロニエも含めてトチの木は、本来は沢などの水辺を好みます。平生町のマロニエがあまりよく育っていないのは、根元周辺がコンクリートで覆われて水が浸み込まず、土地が乾燥気味だからだと思われます。
〇:たくさん咲いていたトチの白い花
※追記
その後、平生町のマロニエ通りに行ってみました。すると、白い花のものと、赤い花のものの二つの種類のトチの木が植えられているようです。赤い花は明らかに西洋トチの木です。郵便局近くのトチの木は、どれも赤い花でよく成長していました。赤い花である西洋トチの木の方が、街路樹として耐性があるのかも知れません。
マロニエ通りを全て観察してみましたが、白い花と思われるトチの木の一部は枯れていました。また、成長が思わしくないものがありました。西洋トチの木の方が、街路樹として適しているのでしょう。
郵便局前の西洋トチの木 赤い花が咲く西洋トチの木
落葉樹は次々に葉が出ています。風に揺らめく萌黄色の葉は、暖かな春を楽しんでいるようにみえます。庭木に巻き付いた蔓性の雑草を取っていると、カマキリの卵に気がつきました。お味噌汁に入れる麩(ふ)に似ているのですぐ分かります。よく観察すると、小さなカマキリの幼生がたくさん孵化しているところでした。一つの卵に100匹位はいるようで、周りを見るとたくさんの子カマキリがいました。
お味噌汁の麩(ふ)に似ている卵と孵化中のカマキリ
昆虫の幼生形態には二種類あります。一つはカブトムシや蝶々に代表される昆虫です。幼生の間は芋虫で、成虫になる前にサナギになる昆虫です。もう一つは、カマキリやコオロギのように代表される昆虫です。幼生から成虫になるまで、大きさは変わりますがあまり形がかわらない昆虫です。
今回みつけたカマキリの幼生達。成虫になるまでに生き残るのは2~3匹だと思います。平均寿命は1ヶ月も無いのではないでしょうか。それを考えると、生物界では人は異常に寿命が長いと言えます。
過酷な生存競争が待っている幼いカマキリ達
ところで、私は子供の頃に体があまり丈夫でなく、スポーツが苦手で寂しい思いをしたことがあります。そして、同じように病気がちの学友たちを気にしたものでした。定年近くなった頃、その学友たちがその後健康に恵まれ孫までいるのを知って嬉しく思いました。
今回生まれた弱弱しい幼いカマキリ達を見ていると、病気がちだった幼い頃の自分と重なって見えます。過酷な生存競争が待っている子カマキリ達、みんな頑張って生きぬいて欲しいとつい応援したくなります。
先日芽欠きして土寄せしたジャガイモ、さらに大きく育ったため2回目の土寄せをしました。
2回目の土寄せをしたジャガイモ
そろそろクリーン作戦(道普請)の日が近づいてきました。今回、我家の側溝沿い土手の草を刈り取りしました。側溝は深いため、落ちると大変です。側溝に落ちないように足を踏ん張りながら、草刈機で除草しました。くぬぎやケヤキの枝がたくさん落ちていたので、草刈機を止めつつ枝を取りました。なんとか3時間位で草を刈り取ることができました。
草刈り前の側溝脇土手 草刈り終了後の側溝脇土手
側溝脇の土手の草刈りを終わって別の場所を草刈していると、近所のSさんに出会いました。Sさんはナスか何かの畝を作っているところでした。少しばかり立ち話をしました。その時に、やぐらネギが育っているのに気が付きました。Sさんが栽培しているネギです。山口県では、このやぐらネギを年中ネギと呼ぶとのことです。
Sさんにいただいた年中ネギ(やぐらネギ)
この年中ネギ(やぐらネギ)、10年位前に東京で栽培したことがあります。しかし、仕事が忙しいなどの理由で絶やしてしまいました。このネギは、種をまかないで増やすことができます。普通のネギ類は種を畑にまいて増やします。ところが、年中ネギ(やぐらネギ)は、頭頂部に花が咲く代わりに小さなネギがやぐら状に芽生えます。その芽を畑に植えると、ちゃんとしたネギになるのです。種をまかないで次々に増やすことができるので、年中ネギと呼ばれるのでしょう。
年中ネギ(やぐらネギ)の畝を作る 鞍型になるように畝を整形
収穫が終わった白菜の畝を壊して、年中ネギ(やぐらネギ)用の畝にしました。やぐら状に芽生えた幼苗を一つ一つ分けました。そして、それぞれを畝に植え付けました。種をまくことなく、いきなり幼苗を植え付けることができるのが、年中ネギ(やぐらネギ)でなのす。種をまくことなく、苗をどんどん自給できます。
ネギ頭頂部の幼苗を分離 年中ネギ(やぐらネギ)の幼苗を植えつけ
年中ネギ(やぐらネギ)の植え付けが終わると、9月に植えつけた分葱(わけぎ)の球根を収穫をしました。分葱は晩春に葉が枯れて、球根が分球して土中に残ります。その球根をいったん掘り上げて秋まで干します。干した球根を秋に植えると、芽が出てきてネギになるのです。植木鉢でも増やすことができる手軽なネギです。
掘りあげた分葱の球根、1つの球根が10個位に増えている
家内が来た次の日、あちこちをドライブすることにしました。最初行ったのは、私が2月から2日/週程度勤務している田布施町郷土館です。家内が見たいとの希望で連れていきました。しかし、この日は休館日でしたので誰も入館できません。このため、玄関を見るだけにしました。
次に、平生町竪ヶ浜の智願寺にある我家のお墓詣りをしました。家内は仕事のため、5月末の父親三回忌に出席できません。そのための事前お墓参りです。
田布施町郷土館の玄関前にて 平生町竪ヶ浜知願寺、父親のお墓詣り
ところで、このお墓に入ってる父親の葬儀は、すでに一昨年前のことになってしまいました。月日の経つのは早いものです。お墓に立てたお花は、我家の庭で今咲き誇っているキンセンカです。すぐ近くにある親戚のお墓にもお花を立てておきました。
お墓参りが済むと、周防大島を1周するドライブをすることにしました。周防大島をぐるりと回ったのは4年ぶりのことです。最初、周防大島大橋を渡ってすぐの所にある大観荘内の喫茶店に行き、テラスでホットコーヒーを飲みながらくつろぎました。そして、周防大島大橋を眺めたり、眼下の海の潮流や渦潮を見ました。
大観荘喫茶店のテラスでくつろぐ家内
大観荘を出ると、周防大島の北側周りの道を通りました。連休のこともあり、サイクリングを楽しんでいるたくさんの方々を追い抜きました。そして、東和に行きました。途中、第二奇兵隊に関わる楢崎剛十郎や世良修蔵などの碑を見たかったのですが、時間が限られているため次回にしました。東和に着くと、道の駅サザンセトとうわに行きました。
かいもちを購入している家内 海の幸を物色している家内
道の駅サザンセトとうわは連休のためとても混雑していましたが、なんとか車を駐車することができました。おはぎ,天ぷら,かいもちなどを購入しました。2階の食堂は満席でしたので、1階に降りて海鮮うどんを食べました。
次に周防大島の東端近くにある陸奥記念館に行きました。ここは、何度か訪れたことがあります。最初、海から引き揚げられた巨大なスクリューや副砲などを見学しました。そして、記念館に行ったり,釣人を見たり,椅子に座ってまどろんだりして休憩しました。
陸奥の巨大なスクリューの一つ 静かなたたずまいの陸奥記念館
次に片添ヶ浜海岸に行きました。この海岸は真夏、海水浴するたくさんの家族連れやビキニのお穣さん達が闊歩する一大レジャー施設です。5月連休のため、少しは人がいるかと思っていましたが意外に少なかったです。透明度の高い波打ち際の砂浜を、家内とのんびりと歩いてみました。なお、山側にあるオートキャンプ場は車でいっぱいでした。
透明度の高い波打ち際の砂浜を、家内とのんびり歩く
片添ヶ浜海岸を出ると、今度は周防大島の山麓を走るオレンジラインをドライブしました。車がたくさん通っているかと思っていたら、すれ違う車はほとんどありませんでした。安下庄から小松に抜けるこの道は数年前に開通したようです。7年前にバイクで大島町から橘町に行った時はまだ開通していませんでした。その時は、細い山道を越えて行きました。
タケノコを掘る家内 夕飯は家内が作る餃子
午後5時頃、周防大島から我家に帰ってきました。そして、竹林に入ってタケノコを掘りました。先日家内に送ったタケノコが大好評とのことで、今回も6個位掘って東京に送ることにしました。掘ったタケノコは1個ずつ新聞紙で包み、段ボール箱に詰めました。タケノコ2個は家内がバッグに入れて持って帰り、その他のタケノコは宅急便で親戚に送ります。タケノコを段ボールに詰め終る頃、車を1人で運転した疲れが出たのでしょう、眠くなりました。このため、布団の中で夕方まで寝ました。
家内は、明日5日に東京に帰ります。途中、京都で息子と逢って明治維新に関係する史跡を見て回るそうです。そして、その日の夕方に東京八王子に帰ります。
家内が作った餃子や周防大島で買ったお土産を夕食に
いつもは働いている家内、この連休で仕事が休みのため八王子市から山口県田布施町にやって来ました。家内が田布施にやってくるのは1年ぶりのことでしょうか。夕方、田布施駅に着いたので、車で迎えに行きました。途中、スーパーによって買い物をして我家に行きました。明日墓参りをした後、周防大島周辺をドライブします。そして明後日、再び八王子市に帰ります。せわしないような山口県旅行です。
夜、私,母親,そして家内と3人で一緒に夕食をとる
ところで、数日前にシンガポールで暮らしている娘から手紙が来ました。近況報告などのレターと、勤めている会社の手帳やカレンダーが入っていました。その手紙を家内に見せました。なお、手帳は私が、カレンダーは母親が使うことにしました。
娘からの手紙 同封されていた手帳とカレンダー
多賀神社を出ると、ひたすら緩い下り坂を歩きました。途中、1頭の猿が道を横切っていました。耳を澄ませると周りにたくさんの猿がいるようでした。猿達は木を渡っているのでしょう、がさごそと木々の擦れる音があちこちから聞こえました。
30分位歩いていると、急な下り坂となり開けてきました。そこは余田畑地区の集落です。数軒の茅葺き屋根風の民家が見えてきます。ほっとするような落ち着いた民家ばかりです。
ひたすら緩い下り坂を歩く トタンで覆った茅葺き屋根が見える
しばらく急坂を下ると、多賀神社への参道の立札が見えてきます。その立札近くから右への道を進みます。この近くまで来ると、東の方角に、柳井市街や柳井湾がわずかに見えてきます。そして、三ヶ岳や琴石山が見えてきます。
東の方向に、柳井市街,柳井湾,三ヶ岳,琴石山などが見える
少し歩いて、地元の稲荷神社に立ち寄りました。本番のウォーキングではここで休憩をとる予定です。私は神社に立ち寄るときは必ず、石鳥居の建立年代を見ます。ほとんどの石鳥居には文字が刻んであります。しかしながら、この稲荷神社の石鳥居には年代などの文字が全く刻んでありませんでした。逆に、文字が刻んでいないこの石鳥居は珍しいと思います。
余田畑地区の稲荷神社 北に岩国の山々 〇:稲荷神社の赤瓦
稲荷神社で休憩が終わると、少しばかり来た道を戻りました。そして、遠くに見える山々を遠望しました。北の方角を見ると、伊陸の氷室岳や岩国市の高照寺山などの山が見えました。景色を楽しむと、今度は生野方面に向かって畑生野林道を歩きました。この付近の道は、どこも歩きやすいように舗装されています。
余田畑の整備された田畑 振り返って見た三ヶ岳と琴石山
畑生野林道をどんどん進むと、光市と柳井市の境界にある峠に着きました。ここが今回のウォーキングの目的地の一つである、田布施川の源流の一つです。最東端の源流です。ただし、清水がこんこんと湧き出るような奥深い源流ではないのが、少しばかりガッカリですが。
この峠は昔、人の行き来が盛んだっとようです。余田畑地区の人々は、余田の本庁に行く時はこの峠を越えて保生地を経由して行ったようです。古来、人は山の尾根や峠を往来していました。往来が激しい峠には茶屋が少なからずあったと聞きますが、この峠はどうだったでしょうか。
かつて人々が、余田畑、余田本庁、生野を往来した峠
なお、この峠の畑生野林道の木札下に側溝があります。この側溝に流れ込んだ雨水は、田布施川に流れ込んでいます。そして、峠数m東の水は柳井市の黒杭川に流れ込んでいます。
峠を生野方面に歩いて行くと、昔田んぼだった廃田が見えてきます。付近から水を集めるのでしょう、小川の水音が聞こえてきます。
この側溝の水は田布施川に 廃田の跡、流れる水音が聞こえる
どんどん緩い坂道を下って行くと、隣りを小川が流れるようになります。そして、さらに進むと生野の平野部が見えてきます。ここまで来ると、広々としてのんびりした里山風景が展開します。生野はどの田んぼもとてもよく手入れされています。生野の方々は田んぼをとても大切にしているようです。私は、この生野を通るときにとても癒されます。好きな風景の一つです。
広々としてのんびりした里山風景が展開する生野地区 代かき中の田んぼ
生野地区の田んぼ道をどんどん下ると、石城山が正面に見えてきます。今は、代かきをしたり、田植えをしたり、畦道を草刈するシーズンのようです。何人かの方々が、畔や土手の草刈りをしている姿が見られました。ご苦労様です。左右の素晴らしい田んぼを見ながら歩き続けていると、大波野奥の駐車場に着きました。
田植え前の生野の田んぼ、向こうに石城山
駐車場に着くと、車に乗って小行司のにこにこパークに戻りました。そして、置いていたバイクを回収して我家に戻りました。本番のウォーキングの前に、調査,下見と何度か同じルートを散策しますが、同じ道でありながら行くたびに新たな発見があります。
田布施川沿い史跡巡りウォーキング(その8)の下見コース 2/2
田布施川沿い史跡巡りウォーキングの8回目を5月18日に実施する予定です。この8回目が最終回で、今回は田布施川最奥部の源流を歩きます。去年の7月に調査して決めたコースで、小行司にこにこパークをスタートして、多賀神社,余田畑などを経由して大波野奥までウォーキングします。
今回は、そのコース全てを実際に歩いて丹念に下見しました。一部を除いてほとんど平坦な道ばかりですので、歩きやすいコースだと思います。なお、ウォーキングメーターで測定した距離は8.5kmでした。
大波野奥、車からバイクを出す 小行司にこにこバークをスタート
今回は片道コースです。このため、大波野奥の駐車場まで車にバイクを積んで出かけました。ところが、その駐車場に着いた時に大事なものを忘れていました。ヘルメットです。家にヘルメットを取りに戻ったので、40分ほどの無駄な時間を費やしてしまいました。それだけスタート時間が遅れてしまいました。やれやれ!
大波野奥の駐車場で、車からバイクを下して、小行司のにこにこパークまでバイクで行きました。にこにこパークにバイクを置いて、下見の開始です。
〇:地元の神社から見た多賀神社 小行司小学校跡 今は喰道農村公園
小行司にこにこパークをスタートすると、多賀神社方面に向かって歩きました。とても天気が良いので、歩いていると汗をかいてしまいます。このため、腕まくりして歩きました。歩いていると農事法人組合小行司の畑がありました。ちょうど麦がいっぱいに穂を出していました。数人の方が、土手の草刈りをしていました。最初に訪問したのは、地元の神社(荒神社?)です。石鳥居に、文化十三子三月吉日(1815年)と刻んでありました。それなりに由緒がありそうな神社です。多賀神社の陰に隠れて、あまり知られていないこじんまりした神社です。なお、8月24日にお祭りがあるとお聞きしました。この神社から多賀神社がよく見えました。
圃場整備された見事な田んぼ、向こうの方は岩国市
こじんまりした地元の神社を過ぎると、昭和44年に東田布施小学校に統合のため廃校になった小行司小学校跡に行きました。昭和44年と言えば、私が高校2年生の頃です。当時の私は、小行司をはるか遠い所のように思っていました。まさか、小行司をウォーキングする時が来るとは、当時は思いもしませんでした。今は、静かな喰道農村公園となっています。
力士小桜の碑 大正13年建立 道横にある郷江公会堂
喰道農村公園からは、圃場整備された広々とした田んぼを眺めることができます。喰道農村公園下に、立派な圃場整備記念碑が建っています。圃場整備記念碑を横に見ながら歩いていると、お地蔵様があり、その隣に力士小桜の石碑が建っていました。今の大相撲ではなく、明治時代頃に地元にいた田舎相撲の力士碑とのこと。針や整骨で近所の方に尽くしたそうです。その力士石碑のすぐ近くに郷江公会堂があります。
多賀神社への登り口? この登り口を行くと、なんとジャングル!!
郷江公会堂から、だんだん坂道となりました。しばらく登っていると、「至 多賀社」の立札がありました。その山道に入っていくと、とんでもない道でした。最初竹藪だったのが、ジャングルのように木々が茂っていました。所々で木が倒れており、とても歩けるように道ではありませんでした。それでも、藪こぎしながら無理やり進むと、明るい山道にポツカリと出ました。
この明るい山道が多賀神社への道のようです。その道を戻って登り口を確認しました。すると、その登り口にはまったく立札がありません。先ほどの立札の位置が間違いのようです?悪戯でしょうか?それとも、立札が示す山道が使われなくなって久しいのでしょうか?立札の位置を正しく変えた方が良いと思います。
明るい山道に遭遇、その道を登る 正しい登り口、しかし立札なし?
この立札の間違いに気が付いて良かったです。これだから、下見はとても大切なのです。本番で間違った道に入ったら大変です。さて今度は、正しい山道を登りました。30分位のだらだらした登り道です。落ち葉が溜まった窪んだ道を進んでいると、やっと多賀神社の石鳥居が見えてきました。その鳥居の前に、桜の大木がありました。田布施町で一番大きな山桜だそうです。
田布施町で一番大きい、多賀神社の山桜の大木
山桜の大木の根元近くは風が吹いて涼しかったため、汗をぬぐいながら立ったまま休みました。山桜の傍にある石鳥居を見ると、大正15年(1926)と刻んでありました。私の父親が生まれた年に建立されたようです。神社にはこのような石の鳥居がよく建っています。重機のない時代、どうやって山の上まで運んだのでしょうか。
1時間ほど歩いて着いた多賀神社 右の南参道と左の余田畑参道、今回は左へ
1時間ほど歩いて、多賀神社に着きました。本番のウォーキングでは小行司にこにこパークを10時にスタートする予定です。正午までには多賀神社に着きそうです。ここで、田布施方面の景色を眺めながら昼食休憩をする予定です。ところで、この多賀神社の宮司さんは光市に住んでおられるそうで、毎月1日に多賀神社に来られるそうです。
多賀神社の石階段からの眺め、田布施の大波野や平生湾方面がよく見える
今回は下見ですので、多賀神社にトイレがあることを確認してすぐに出発しました。多賀神社を出ると、余田畑方面に向けて歩きました。
田布施川沿い史跡巡りウォーキング(その8)の下見コース 1/2
今年もサツマイモの苗を植え付けしました。去年も同じころに苗を植え付けしました。しかし、去年は天候が不順だったためか収穫量がとても少なかったのです。特に収量が少なかったのは安納イモで、とても残念な結果でした。小さな芋ばかりで、とても人様に差し上げるサイズのものはわずかでした。このため、自宅でしか食べませんでした。しかし、安納イモはとても甘く美味しいので、今年も作ることにしました。特にたき火で焼いたサツマイモは最高の味です。
耕運機で耕し、高畝を作る 高畝に黒マルチを被覆
今年は黒マルチを使ってみることにしました。その目的は二つあります。1つ目の理由は、黒いため太陽の熱を吸収して土が温められることです。2つ目の理由は、防草効果があることです。今は雑草は少ないのですが、梅雨から真夏にかけて猛烈に雑草が生えてきます。真夏の草取りは過酷な作業です。その作業を少しでも省くため、黒マルチを使ってみました。
被覆した黒マルチ脇に置いた、今回植え付けたサツマイモ苗
使った黒マルチは穴あきです。丸い切り込みに沿って穴を開けるタイプのものです。苗を植える前に、黒マルチの上に苗を並べました。並べる間隔は30cm程度です。並べ終わると、黒マルチに穴を開けました。そして、穴の中に棒を突き刺して苗を差し込む穴を開けます。
黒マルチ上に30cm位離して苗を置く 棒を突き刺して土中に穴開け
その開けた穴の中に、サツマイモ苗を入れます。そして、サツマイモの茎が全部入り込むように深く茎を差し込みます。茎を差し込むと、周りを手で押さえて茎が土で埋まるようにします。
3つの黒マルチに、25本のサツマイモ苗を植え付けしました。1週間後には活着すると思います。これから一週間、根が活着するまでは曇り空だと良いのですが。太陽が照ると、苗がしなびてしまって葉が枯れることがありますので。
穴にサツマイモ苗を差し込む 茎が土で埋まるように押さえる
これで今回のサツマイモ苗の植え付けは終わりです。今回は安納イモでしたが、数日後には高系イモかベニアズマなどの品種のサツマイモ苗を植え付けようと思います。ただ、安納イモの方が美味しいので、また安納イモ苗を植え付けるかも知れませんが。
今年は、麻郷公民館祭りや高塔ふれあい祭りに提供できるほどのサツマイモを収穫できるのではないと思っています。高収量が期待できるよう、まめにサツマイモ畑に行って、除草や施肥などの世話をしようと思います。
植え付けが終わった25本の安納サツマイモ苗
次の日、恐れていたかんかん照りでした。このままでは、せっかく植え付けたサツマイモ苗の葉が枯れる恐れがあります。急遽、近くの草を刈り取って苗の上に被せておきました。さて、サツマイモ苗は無事でしょうか。
日よけのため、サツマイモ苗の上に刈り取った草を被せる