蒸し暑い日が続いています。台風が来ているようですが、直撃するのかどうかまだ分かりません。家にこもっていても仕方がないため、天気を見ては畑の草刈りをしています。今回は、サツマイモ畑の草刈りをしました。5月始めにサツマイモの苗を植え付けしたのですが、だいぶ雑草が生い茂ってきました。
雑草の中にサツマイモ 片側から少しずつ除草 サツマイモ畑の除草完了
サツマイモ畑の除草は簡単ではありません。雑草の間に、サツマイモの蔓や葉が伸びています。このため、除草するまえにサツマイモの蔓や葉を片側に寄せておきます。そして、除草が終わると、元の位置に蔓や葉を置きます。このようにして、サツマイモを傷めないように最新の注意をしながら草刈りをします。炎天下の除草は大変です。作業途中、日陰で水分を取りながら休みました。
除草が終わった、サツマイモ畑と道端
サツマイモ畑の除草が終わると、もう一手間をかけます。それは、蔓直しと呼ばれる作業です。葉にまんべんなく日光に当たるように、蔓を伸ばして広げるのです。ほっておくと、どうしても蔓や葉が重なってしまうので、この作業は欠かせないのです。去年は、この作業を7月末と9月初めに行いました。今年は、あと2回この作業をする必要があります。
蔓直しが終わった、サツマイモ畑
この夏、世界のボーイスカウト達が集まる祭典である世界スカウトジャンボリーが山口県で開催されます。そして、この31日午前にそのスカウト達のうち約40名が、麻郷小学校に来て子供達と交流します。麻郷の昔遊びやプレゼント交換などで交流するそうです。それに加えて麻郷の伝統文化の一つである麻郷嵯峨音頭を一緒に踊ります。そのための最後の練習を麻郷小学校でしました。
ふるさと会の方々 体育館に集合した生徒達 来校スカウトの出身国紹介
天気が良ければ運動場で練習するのですが、今回も雨のため体育館で練習しました。体育館は狭いため、二組に分けての練習です。練習前、出身国の国旗を使って来校するスカウト達の紹介がありました。スウェーデン,ロシア,日本,それからもう一国です。
最初一年生が並ぶ 大太鼓が最初に開始 くどきと共に踊りの開始
15年位前、私はボーイスカウトの指導者をしていました。また田んぼなど活動場所の提供をしていました。その頃、確かイギリスで世界スカウトジャンボリーが開催されました。私は行くことはありませんでしたが、日本から数十名のスカウトが参加したように記憶しています。その15年後の今、ボーイスカウトに再び関わるとは思いもしませんでした。我家のどこかに、私が使っていたボーイスカウトの用具や制服が眠っています。
体育館すべてを使って、麻郷嵯峨音頭を練習
練習が終わると、太鼓を叩いた子供達とふるさと会の方々は太鼓などを体育館の外に並べました。その後、ふるさと会の方々と婦人会の方々は、パソコンルームに集まりました。そして、今回の反省や今後の問題などについて会議をしました。会議が終わると、太鼓などを麻郷公民館に戻しました。ところで、スカウト達が麻郷小学校にやって来る31日、私は仕事が入っていました。しかし、ありがたいことに、その日の午前中だけ仕事を交代していただけることになりました。参加できることになりほっとしました。
太鼓を体育館の外に 今回の反省など、会議 軽トラックで麻郷公民館へ
台風が来ていますが、雨が止んだ時間に桃園に行ってみました。すると、最後に残った桃三つが全て熟していました。雨で濡れていたたためか、桃独特の匂いがあまりしませんでした。でも触ると柔らかいので、熟していることが分かります。これで、今年の桃は終わりです。
濡れた袋を破ると美味しそうな桃 虫にも食害されておらず良い色
50年位前、父親は桃園を経営していました。初夏になると、私の家族を含め親戚がたくさん集まって桃園がある山に行きました。そして、みんなで分担して桃の幼果に袋がけをしたものです。それは我家の初夏の風物詩でした。お昼になると、桃の木の下に皆が集まりました。そして、重箱を開けて楽しいお昼休憩でした。
当時集まった親戚はその後、一部は外国に移住したり、他は都会で暮らしています。亡くなった方も少なくありません。あれから永い歳月が過ぎ去りました。残念ながら、もう逢うことはなさそうです。時が過ぎると共に世代が変わり、付き合う親戚がすっかり変わってしまいました。
今年最後の桃、夜 美味しく食べました
この古いクラウン製トランジスタラジオ HT-70の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/5) 修理(2/5) 修理(3/5) 修理(4/5)
修理(5/5)
天候が思わしくないため農作業ができず、外に出ることができません。このため、ラジオの修理をすることにしました。修理中のラジオは最初、周波数変換回路のコンデンサが故障していたため、それを修理しました。そして、次に低周波増幅回路の結合コンデンサが容量不足の故障だったため、それも修理しました。しかし、この二つの故障を修理したにも関わらずまだ、音声があまりに小さいのです。
故障が疑われた検波ダイオード 検波ダイオードを抜き取る
そこで、中間周波数回路に変調波を流してみましたが、オシロスコープ上での故障はないようです。そこで、疑われたのは検波部でした。中間周波回路ではちゃんと波形が出ているのに、検波後の波形があまりに小さいです。つまり、正常に検波されていない故障と分かりました。
中間周波(IF)増幅回路の検波ダイオード故障
いろいろ調べると、検波ダイオード(1N34A)が解放状態でした。何らかの原因で強い電流が流れて焼き切れたのか、単に製造不良で寿命が早く来たのかも知れません。この故障した検波ダイオードを正常なものと交換することにしました。そこで、故障した検波ダイオードを取り除き、正常な検波ダイオードを取り付けました。
取り外した検波ダイオード 正常な検波ダイオード 正常検波ダイオードの取り付け
検波ダイオードを正常なものに取り換えると、見違えるようにラジオ放送の音声が大きく出るようになりました。
トランジスタラジオの故障で1番多いと思うのは接触不良です。例えば、ボリュームのガリや、断線、半田付け不良などです。次に電解コンデンサの容量低下でしょうか。今回は、コンデンサの容量低下故障2ヵ所と素子の故障1ヵ所でした。
次回は、トラッキング調整するなどして、正常にラジオ放送が受信できるようにしたいと思います。
ラジオ放送が、大きな音でガンガン入るようになる
八幡神社を過ぎて、しばらくは首都大学敷地に沿う道を歩きました。そして、大田川筋に出ました。ここで、八王子に住んでいた頃によく買物にきたDIYのお店に寄ることにしました。珍しくお店の駐車場は車でいっぱいでした。私は歩きですので、その車をぬうように歩いてお店に入りました。これからの夏休みに備えてでしょう、家族連れがひしめき合っていました。
大田川に沿う由木緑道 由木緑道沿いにお地蔵様 誰も通らない大田川沿い
DIYのお店を出ると、いったん大田川沿いに戻りました。そして、大田川沿いの由木緑道を歩きました。歩いていると、道沿いにお地蔵様が立っていました。由木緑道となっていますが、元々は八幡神社に通じる古くからある道なのではないでしょうか。古い道かどうかは、道沿いにお地蔵様,道祖神,そして庚申塔などがあるかどうかである程度分かります。
由木緑道を大田川沿いにどんどん下る、日射が強い!
由木緑道を大田川沿いに下っていると、大栗川公園に着きました。大栗川と大田川の合流地のため、公園の形が三角形をしています。そのため、通称:三角公園とも呼ばれています。この公園で少し休憩しました。公園を過ぎると、川沿いの土手に不思議な形の石のオブジェがありました。石に目玉のように見える丸い金属がはめ込まれています。どうもフクロウをイメージしているようです。
大栗川公園(通称:三角公園) 大栗川公園の先端 フクロウにみえる石
フクロウのオブジェの幾つかを見ながら、川沿いの道を下りました。大田川と大栗川とが合流して、川幅が増した大栗川になります。ここからもうすぐで堀之内駅です。しかしながら、あまりに暑いので駅近くのコンビニに入りました。そして、アイスクリームを食べました。これで、少しは体が冷えました。
大田川と大栗川の合流地点(三角公園)、ヘビのウロコのよう
コンビニを出ると、ほんの少し歩くだけで堀之内駅です。この駅は、かつてデイサービスに勤めていた時、毎日のように乗り降りして駅です。今でも、東京に来たときに一度は行く駅です。
この駅の次は、多摩ニュータウン駅です。多摩ニュータウンは、数年前まで毎日のように通勤していた病院がありました。多摩ニュータウンは、ボーイスカウト活動,精神障害者ヘルパー,各種イベント、ウォーキングなどで走り回った思い出深い街です。
今回ウォーキングした、南大沢駅から堀之内までのルート
東京にいる間、八王子市の京王南大沢から一駅の同堀之内駅までウォーキングしました。とても天気が良くて、歩いていると汗ばんできました。舗装された道路ばかりを歩いたため、日差しの照り返しが強かったのが原因だと思います。久しぶりに暑い日を歩きました。
京王南大沢駅近くの南大沢橋から東側を見て
南大沢駅をスタートして最初に南大沢橋を渡りました。この橋の袂から、これから歩く道筋が見えます。橋を渡り終えてから西側を見ると、高台に首都大学の建物が見えるようになりました。この周辺は、アウトレットで買物をするための駐車場があります。このため、ひっきりなしに駐車場を出入する車が通っていました。しばらく歩くと、歩道横に首都大学の池が垣根越しにみえます。この池はモリアオガエルが卵を産むことが知られています。こんな都会、今でも産卵しているのでしょうか。
高台の首都大学 モリアオガエルの産卵池 八幡神社の境内
その後、首都大学横の下り坂を歩くと八幡神社が見えてきました。隣りに末廣稲荷大明神のお社があります。この八幡神社は、元は九州の宇佐神宮だそうです。田布施の神社は全て宇佐神宮ですので、この八幡神社とは遠い昔に繋がりがあったようです。
静かな林の中の八幡神社
この神社の境内を散策すると、樹齢600年位のオオツクバネガシの巨木が目に入ります。この巨木、明治13年の神社火災時に一度焼けたそうです。この木は生命力があるのでしょう、幹の中心が朽ちて空洞になっているにもかかわらず今でも生きています。
幹が朽ちて空洞の巨木 庚申塔などの石碑 溝のような大田川
また、境内内の隅に庚申塔が置かれていました。この神社は、いにしえの時代に坂東武者から信仰されていたのでしょう。
今回ウォーキングした、南大沢駅から堀之内までのルート
このところ、毎日のように草刈りをしています。今回は、我家の裏山を中心に草刈りをしました。畑の草との一番の違いは、山は草と言うよりも笹です。私は紐を使って草刈りをするのが好きです。このため、茎が柔らかい今の時期は、笹であってもなるべく紐を使って刈り取っています。
小道が見えないほど笹がびっしり 小道に沿って笹を刈り取り
私は山の笹を刈り取る時は、最初に小道を刈り取ります。紐やガソリンを補充する特に、小道を先に刈り取っておくと移動が楽だからです。尾根に向かう小道と、尾根伝いの小道を先に刈り取ります。小道の刈り取りが終わると、その小道に沿うように刈り取り幅を広げていきます。
尾根の小道を先に刈り取り、これで山を行き来できる
日当たりが良い場所の笹は茎が太くなっています。そのような笹は、紐では刈り取りすることができません。できたとしても紐を大量に消費してしまいます。そんな時は、刃を適時チップソーに取り替えて刈り取りします。今回は、一部の場所だけチップソーに代えました。時間が多少かかるものの、ほとんどが紐での刈り取りで十分でした。
刈り取り前の山の頂上 刈り取り後の山の頂上
笹を刈りとっていると、ネムノキに花が咲いているのに気がつきました。去年は咲いていませんでした。今年は花が咲く大きさに育ったようです。さて、午後は郷土館に雑穀の苗を植えに行きました。そして帰宅後、涼しくなる午後5時から草刈りを再開しました。
綺麗なネムノキの花 びっしり生えた水路脇の雑草 きれいになった水路脇
今度の日曜日はクリーン作戦の日です。その日は郷土館勤務のため、30分程度しかクリーン作戦にいられません。そのため、あらかじめ我家周辺の草刈りを済ませておくことにしました。水路に沿う場所も草刈りしましたが、深い水路のため落ちないように細心の注意をはらって草刈りをしました。草刈りが終わったのは午後6時頃でした。腕や手に小石があたって赤くなっていました。毎年のことですが、夏の草刈りは汗だくで大変です。
草刈りをして綺麗になった、水路向こう側の土手
5月に袋掛けをした桃が、ようやく収穫時期を迎えました。白い袋の外から、ほんのりと桃色に染まっていること分かります。触ると、実が少し柔らかくなっています。さらに、鼻を近づけると、美味しそうな甘い匂いが漂っていました。こうなると、収穫せずにはいられません。
白い袋をかけた桃 ほんのりとピンク色 袋を外すと美味しそうな桃
今回は三つ桃を収穫しました。残りの桃は、ここ一週間位の間に少しずつ収穫しようと思います。桃の収穫が難しいのは、熟すと昆虫などが袋を破って中に入ることです。熟していると判断したら、すぐに収穫しなければなりません。今回収穫した三つのうち一つは、わずかに虫に食べられていました。虫食いの桃は、我家で食べることにしまた。
今回一番美味しそうで、色も申し分ない桃
去年は、桃,スモモ,そしてビワが同時に収穫できる日がありました。今年は、どういう訳かバラバラの収穫です。ただ今年は、桃に合わせるようにブルーベリーが同時に収穫できています。また、ブラックベリーが一週間後頃には収穫できそうです。
桃は樹勢が弱いそうです。今ある桃は、20年位前に苗を植え付けたものです。その前は、別の畑に桃の木がありました。しかし病気で枯れたために、今の場所に新しく苗を植えたものなのです。今の桃は、枝をよく観察するとあちこちに病気の兆候があります。場所によっては木屑のようにものが枝からこぼれています。この冬、別の畑に新しい桃の苗を植えようかと思っています。
立派なお尻の美人桃 今回は三個の桃を収穫
田布施町郷土館で7日から開催される江良碧松句絵手紙展のお手伝いに行きました。いつもはバイクで行くのですが、早朝から雨が降っていましたので車で行きました。そして、皆さんが展示しやすいように展示ボードや支柱の設置をしました。去年も同じ頃に開催され、同じようにお手伝いしました。江良碧松が作った句を絵手紙にしたものを展示するのですが、ハガキ大のものから額縁大のものまで、いろいろな大きさのものを展示しました。
郷土館入口に案内 数々の絵手紙 先生と飾り場所を検討
絵手紙で思い出すのは、10年位前に私が勤めていたデイサービスです。絵手紙のようなものをお年寄りと一緒に作ったことがあります。下書きされた下絵に色を付ける塗り絵や、自分で下絵を描いてから色を塗る絵手紙がありました。その他、焼き物,革細工,ちぎり絵,生け花,そして絵画などいろいろ支援しました。ウォーキングが足腰の衰えに効くように、絵手紙のような絵画は知性の衰えに効くように思います。が、私が大好きなラジオや機械の修理は知性の衰えに効くでしょうか。
江良碧松句の自作絵手紙を、賑やかに展示している方々
江良碧松句絵手紙展の準備が進行中だったのですが、途中で抜け出して麻郷小学校で行われる麻郷嵯峨音頭の練習支援に行きました。麻郷公民館に着いた時、麻郷ふるさと会の方々はすでに麻郷小学校に移動した後でした。このため、すぐに麻郷小学校に向かいました。今年は、9月の運動会時に加えて8月初めのボーイスカウト世界ジャンボリー時にも、麻郷小学校で麻郷嵯峨音頭が披露されます。
踊りの指導をするKさん 1年生は初めての経験 2年生以上は去年経験
PTA会長でもあるKさんが最初、麻郷嵯峨音頭の踊りや掛け声の指導をしました。それを覚えると、太鼓を加えて踊りました。なお、今回は麻里府の方々も参加です。麻里府地区で踊られている嵯峨音頭は、太鼓や踊りはほぼ同じなのですが、くどきが「えび屋の甚句」のようです。
最初は太鼓を叩かないで、踊りだけを練習
なお、麻郷の風土に合わせてくどきを変えたのが麻郷嵯峨音頭です。くどき以外は嵯峨音頭と同じです。その昔麻郷嵯峨音頭のくどきができた頃は、高塔地区,旭地区,泊団地.そして麻郷団地などはありませんでした。今後、これら新しい地区や麻里府を意識したくどきを追加すると良いかも知れません。
次に、麻郷嵯峨音頭の太鼓,踊り,掛け声,くどきなどを一緒に練習
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修理(5/5)
天気が思わしくなく、草刈りなどの農作業ができません。こんな時はいつものように、古いラジオの修理をします。ラジオそのものが好きなのではなく、あらゆる知恵を総動員して、どこが故障しているか探して直すことが好きなのです。さて、低周波増幅器が故障していることが分かっていたため、今回はこの回路を直すことにしました。
音声を増幅しない前段部の低周波増幅回路 A,B,C:電解コンデンサ
ラジオの低周波増幅回路の故障は、電解コンデンサが原因であることがほとんどです。上画像のA,B,Cが電解コンデンサです。電解コンデンサの役割を大きく分けると、結合コンデンサ,バイパスコンデンサ,そして平滑コンデンサです。今回は、結合コンデンサ(上画像のB)の容量が低下していました。そこで、このコンデンサを正常なものに取り替えました。
丸は結合コンデンサの裏側部 紐を引っ張り、基板部を全露出
コンデンサを取り替えるにあたって、チューニングダイヤルを回す紐が干渉することが分かりました。紐が干渉しないように、紐を銅線で引っ張りながら故障したコンデンサを基板から外すのです。紐に当たらないように、半田ごてを基板にあてて半田を吸収しました。そして、故障したコンデンサを取り外しました。
紐を引っ張りながら、故障したコンデンサ(B部)を基板から外す
事前に正常なコンデンサをストック品から探しておきます。なお、電子部品のストック品は私が高校生の頃から少しずつ集めていたものです。ほとんどが、古い基板から外したものです。これらの部品がいつかは役に立つだろうと、漠然とした気持ちで長年ストックしておいたものです。数十年後の今、まさに役に立っています。
私が高校生の頃から少しずつストックし続けたコンデンサ類
さて、故障したコンデンサを取り外すと、入れ違いに正常なコンデンサを挿入して半田で固定しました。電解コンデンサの+-を間違えないように固定しました。これで、音がだいぶ大きくなりました。ただ、それでも音が小さいことに気が付きました。まだ、故障している個所があるようです。
容量低下したコンデンサ 正常なコンデンサ 交換後の増幅回路
東京に滞在している間、時間が空くことがあります。今回、家内と八王子の我家から京王南大沢まで歩いて買物に行きました。子供が小さい時は、何気なく通っていた道でした。しかし、郷土館に勤めているためか古い建物や無人小屋が気になるようになりました。今回、いつもの道を歩いていて御嶽神社を通りました。その参道を下っていると、無人野菜販売所があることに気が付きました。
無人野菜販売所 野菜を買う家内 見せていただいた薬師堂
無人野菜販売所後ろに広がる畑で収穫された、カボチャ,小松菜,ニンジンなどの野菜が所せましと置かれていました。全て100円均一でした。家内は「安いね!」と言いながら何点か選んでいました。野菜購入後しばらく歩いていると、たくさんの人が掃除をしていました。道普請の日のようでした。薬師堂で掃除をしている方に内部を見せていただきました。この薬師堂、これまで全く気が付きませんでした。大師講などを聞いてみましたが、知っている人はいませんでした。かつての民間信仰などは完全に途絶えてしまったようです。とても残念に思います。
緑に包まれた富士見台公園
薬師堂を見学した後、子供達が卒業した由木中央小学校と由木中学校を通り過ぎました。そして、緑に包まれた富士見台公園に行きました。天気が良かったせいか、たくさんの家族連れが座っていました。そして、お弁当を食べたり、バーベキューを楽しんでいました。私も、子供が小さい頃によくこの公園に来ました。また、ボーイスカウトの活動場所の一つとしても使いました。
富士見台公園展望台から、来た道を振り返って
富士見台公園を横切ると、家内と展望台に登ってみました。展望台の周りの木がだいぶ伸びているため、あまり展望は望めませんでした。この公園の名前のとおり、天気が良ければ西の方角に富士山が見えるはずです。しかし、雲がかかっていたため見えませんでした。北の方角を見ると、今まで歩いてきた御嶽神社、薬師堂、由木中学校などが眼下にみえました。
ランドセル受付中の鞄製造所 首都大学脇の細道 首都大学からアウトレットへ
富士見台公園から首都大学脇を通って南大沢駅に向かいました。しばらく大学脇の細道を通っていると、賑やかな人だかりがありました。最初、塾か何かの催しかと思っていました。すると、たまたま横を通った方が、ランドセルを個別注文している鞄製造所であることを教えてくれました。これを聞いて、鞄の製造所がここにあったことを思い出しました。普通の革製品以外にも、オーダーメイドのランドセルも製造しているようです。人気なのですね。
首都大学からアウトレット通りを散策
首都大学からアウトレットに寄りました。そして、登山用品を売るお店で上下服を購入しました。ウォーキング,ハイキング,登山向けの商品が数多く展示されていました。子供が小さかった20年位前、子供用の雨具を探すのに苦労しました。しかし今、ファッション性豊かな子供ハイキング用品が数多く売られいました。その中には色とりどりの子供用雨具もありました。
アウトレット通りの汽車 南欧風のアウトレット この一角で登山用品を購入
登山用品を購入すると、南大沢駅近くでバスタを食べました。この付近には、いろいろな食事処があるのですが競争が激しいようです。来るたびにお店が変わっていることが分かります。また、デパートにしても内装がよく変わります。
東京は数年単位で風情が変わるような気がします。例えば新宿、私が20歳代の頃は駅前は平屋が多くありました。しかし今、高層ビル街に変わりました。変わり過ぎて、今や地図がないと新宿を歩くことができません。学生時代に覚えた新宿の道筋は、全く役に立たないのです。
今回歩いた、御嶽神社から京王南大沢駅へのルート
西湖いやしの里では、昼食後の集合までにだいぶ時間が空いていました。そのため、家内とあちこちの古民家を訪れました。ほとんどがお店になっていました。ただ、絹関係のお店は近くに蚕を育てる小屋がありました。また、瀬戸物を扱っているお店には窯がありました。このように、単に売るだけのお店は少なかったように思います。末永く観光地として自立できるような生活スタイルのように思えました。
手作り民具の展示店 実際に着れる衣裳店 上掛け式の水車小屋
古民家の最後は水車小屋を見学しました。外から水車を見ただけで、小屋の中には入りませんでした。コトコト音がしなかったため、縦杵式石臼は動かしていないようでした。回転式石臼だけを動かしていたかも知れません。昼食として食べた蕎麦は、この回転式石臼で挽いた蕎麦粉を使ったのではないでしょうか。私はかつて、山梨県上野原西原で水車を調査したことがあります。7軒位で共用していた実働水車でした。7軒の輪番性で使われていました。ある年、水害で水車小屋が壊れた時に土砂に半ば埋まった小屋や水車の修復を手伝ったことがあります。
花壇から、西湖越しにみた富士山
13:30に集合してウォーキングの再開です。私のいた4班が先頭になりました。右手に西湖や富士山を見ながら歩きました。樹海のルートと違って、舗装道路の歩道をひたすら歩きました。富士山側から西湖に突出した山がありました。その山は、富士山から流れ出て西湖畔で流れが止った溶岩だそうです。
矢印:流れが止った溶岩 西湖畔の舗装道を歩く 西湖畔の岸辺
しばらく、西湖畔に沿う道を歩いていると、湖畔で釣りをする人がいました。西湖ではどんな魚が釣れるのでしょう。さらに歩いていると、西湖畔の砂浜に出ました。そこでは、ボートやヨットを楽しんでいる人の姿がありました。海と違って湖面が静かなため、ボートやヨットを操作しやすいと思います。
いろいろな人がボートやヨット楽しんでいる西湖畔の砂浜を歩く
湖畔の砂浜では胴着を着た集団に出会いました。彼らはちょうど湖畔に列になって並んでいました。これから西湖に入るようでした。私のみたところ、柔道,合気道,拳法,またはなんらかのスポーツの集団なのではないかと思えました。これから西湖に入って気合いを入れるようでした。また、テントを張ってバーベキューを楽しんでいる家族も散見されました。
終点に到着し柔軟体操 バスに乗り込む 高速道路でトイレ休憩
西湖畔の砂浜の中ほどが終点でした。そこにはバスが待機していました。しかし、出発には時間がありました。このウォーキングに参加したほとんどの方は、近くにある温泉に入りました。私も、のんびりと温泉に浸かって疲れを癒しました。
私には物足りないウォーキングでしたが、それなりの軽い疲れは心地良いものです。1時間ほどお湯に浸かった後、バスに乗って帰りました。そして、八王子のデパートに寄って美味しそうな弁当を買って帰りました。我家に着くと、今回のウォーキングを思い出しながらその弁当を食べました。
富岳風穴~青木ヶ原樹海~西湖ウォーキングのコース
青木ヶ原樹海は、ただ木々が茂って何もない場所とばかり思っていました。しかしながら、所々にかつての住民の生活痕がありました。ひとつは氷穴(こおりあな)です。樹海を歩いていると、小さな穴がありました。英(はなぶさ)と呼ばれる氷穴(こおりあな)で、氷穴(ひょうけつ)よりも小さな穴です。かつて、この近くに住む住民は冬の間に天然の氷を運び入れていたそうです。そして、夏の間に冷蔵庫の代わりに使っていたとのことです。貯蔵した氷を夏に出して出荷したり、熱病時に体を冷やすために使ったそうです。
樹海の中で休憩 氷穴(こおりあな)の一つ 氷穴(こおりあな)の説明
ところで、樹海は富士山が噴火して出た溶岩の上にできたものです。このため、栄養分が少なく岩ばかりです。このため、樹木が育っても十分に根を張ることができません。このため、根が巨体を支えることができず、巨木になる前に倒れてしまうようです。
再び樹海で休憩 樹海を抜けて解放感 西湖いやしの里 根場
単調な樹海のウォーキングルートをもくもくと歩きましたが、どこまで行っても展望が無い同じ景色ばかり続きました。さすがに飽きてしまいました。どれだけ歩いても、全く同じ景色ばかり続くのです。気が滅入ってしまうほどです。このため、「樹海に迷い込んだ人は方向感覚が無くなりさまよう。」との話が理解できます。
西湖いやしの里 根場で昼食休憩 お蕎麦をいただく
樹海を抜けて広場に出るとほっとしました。沈んだ気持ちが明るくなりました。樹海を出ると、昼食休憩する西湖いやしの里 根場(ねんば)に向かいました。西湖いやしの里に到着するとお蕎麦屋さんに向かいました。
天ぷら蕎麦をいただく 各古民家を散策 陶芸を展示する古民家
昭和41年、この根場地区は台風による土砂崩れで壊滅的な被害を受けたそうです。被害を受けた根場の再建の一つが、この西湖いやしの里とのこと。今から8年ほど前、かつての村の姿を取り戻すため被害前の民家を再現したようです。したがって、昔から建っていた建物ではなく、古民家風に再現したものです。ただし、一番奥に建っている一軒だけは、奇跡的に被害を免れた民家を移築した本物の古民家だそうです。
災害(昭和41年)前の民家を再現した家々を散策
私が子供の頃、茅葺きの家が普通にありました。台所はカマドで、お風呂は五右衛門風呂でした。食事をしながら上を見ると、茅葺き屋根の柱やその柱に縛り付けられた茅が見えました。まるで、船の竜骨がそのまま見えるような光景でした。
今、茅葺き屋根は貴重になりました。さらに、茅葺きをする職人も貴重になり、茅そのものも少なくなりました。田布施町の麻郷では、家の茅葺き屋根の補修に使う茅を大田川からせっせと採取している方がいました。その方のお話では、川に生える茅よりも、皇座山に生える茅の方が品質が良かったそうです。
富岳風穴~青木ヶ原樹海~西湖ウォーキングのコース
6月末、約3ヶ月ぶりに東京の我家に行きました。梅雨が終わっていないため不純な天気が続いていましたが、家内と富士山麓のウォーキングに行ってきました。家内がウォーキングツアーに申し込んでいたため、そのツアーに一緒に参加したのです。そのツアーは、富士山の周辺をぐるりと17回で一周するウォーキングの15回目でした。私と家内は初参加でしたが、他の参加者のほとんどは初回から参加している方々のようでした。このため、今回の15回目に加えて残り16回目と17回目に参加すれば、富士山周辺を一周するウォーキングを完歩したことになり表彰されるそうです。
鳴沢富士山博物館 道の駅なるさわ物産館 物産館内で買物
私が二十歳代の頃は、すべて自分達で計画を立てて,自分達で用意して,自分たちで行動していました。このため、登山やハイキングにツアーで出かけるような手段があることを知りませんでした。いろいろ調べると、日本百名山登山を対象にしたツアーもあるようです。自分で全てを計画して実行するのはなかなか大変です。最近は、少しぐらい費用がかかってもツアーを利用する方が安心・安全なのでしょう。
朝は小雨でしたが、途中晴れて富士山が顔を出す
私はかつて登山が好きで、北や南アルプスなど全国の山々に登っていました。当時、神奈川県山岳連盟の岩稜山岳会に所属していました。その団体で、軽登山から始まって、縦走登山,冬山登山,ビバーク,そしてロッククライミングなどを経験しました。そして、ロープワーク,地図の見方,天気図や登山計画書の書き方などの知識も得ました。
しかし、結婚してからはすっかり登山を忘れていました。ところが最近、どういうわけか家内がウォーキングや登山に目覚めたようです。まだまだ低い山ですが、東京にいくたびにどこかの山に一緒に行くことになりそうです。
富岳風穴近くで下車 富岳風穴の入口 風穴内は気温2℃
道の駅なるさわにバスで寄った後、富岳風穴でバスを降りて風穴内を見学しました。風穴内は気温が2℃とのことで、暗い穴の中を歩くととても寒く感じました。中を歩いていると、氷柱やつららがありました。かつて、その天然の冷蔵庫を利用して氷の保存や種や繭の保存に利用していた時代があったそうです。私は以前、近くにある鳴沢氷穴に行った事があります。今回入った富岳氷穴よりも規模が大きかったように記憶しています。
氷穴内は天然冷蔵庫 保存された氷の塊 天井からぶら下がるつらら
さて、今回のウォーキングのスタート地点は富岳風穴です。富岳氷穴の見学が終わると、ウォーキングの始まりです。スタートする前に班編成をしました。私と家内は4班でした。最初1班が先頭です。そして、休憩ごとに先頭を行く班が変わりました。班編成は、特定の人が先頭や後尾に固まらないための工夫なのでしょう。この氷穴をスタートして最初に、青木ヶ原樹海内を歩きました。
樹海の中をもくもくと歩く、単調な樹林帯が続く
樹海は、いったん入り込んだら出ることができない危険な場所とばかり思っていました。しかし、違いました。樹海が危険とのイメージは松本清張の小説「波の塔」から来ているそうです。また、その小説が映画化されヒットしたことも影響あるそうです。
この樹海、ところどころにハイキングルートがあるようです。そのルートさえはみ出さなければ安全に歩くことができます。ひたすら、樹海の中を歩き続けました。単調な木々の景色が続きました。途中、中学生か高校生の団体とすれ違いました。今回歩いたコースは、学校の体育行事にも使われているようです。
富岳風穴~青木ヶ原樹海~西湖ウォーキングのコース
梅雨の時期は雑草がとても元気です。小さなうちから除草しておかないと、すぐに大きくなってしまいます。今回は、トウモロコシとネギの畑の除草をしました。昔は平クワで土を削るようにして除草しました。しかし、平クワでは広い面積を除草するには向きません。特に真夏の除草は苦痛です。西洋ガマは効率的に除草することができますが、真夏の除草には向きません。
耕運機のロータリーで耕耘除草
そんな時、私は耕運機のロータリーを回して除草しています。いわゆる耕運除草です。カマは地上を刈ることができますが、根が残るのですぐに葉が出てしまいます。土を削り取るようにロータリー耕耘すると、効率よく根ごと除草できます。ハンマーナイフモアを使って除草するのも良いです。ただし、ハンマーナイフモアは刈り取り時間は早いのですが、やはり根まで刈り取ることができません。
マクワウリの間引き ズッキーニの間引き 普通カボチャの間引き
耕耘除草が終わると、これまで植えた野菜の間引きをしました。マクワウリ,ズッキーニ,普通のカボチャ,そしてヒマワリの間引きをしました。私は温室を使わないで適時種をまきます。そのため、苗を購入して移植して育てるより、どうしても育ちが遅くなります。梅雨が明ける7月中旬以降にぐっと育ちます。
※1日、東京から帰ってきました。少しの間の留守だったのに、雑草がだいぶ伸びていました。また、草刈りの毎日です。
間引き中のヒマワリ 間引き後のヒマワリ、一本立ち