これまでは、トランジスタラジオを多く修理してきました。真空管式ラジオは、三球式や五球スーパーラジオをそれぞれ一台程度修理しただけです。真空管ラジオは、私が中学生の頃に技術家庭の授業で作ったり、家で作ったりしました。それも50年以上前の事です。そのため、真空管修理に少し自信がありません。今回子供の頃のかんを取りもどす意味で、全くわからない不思議な真空管アンプを修理しようと思います。
ラジオが付いている不思議な、故障した真空管アンプ
今回修理してみようと思っているのは、とても不思議なラジオ又はアンプです。ラジオにしては無骨ですし、アンプにしても無骨です。とても家庭用とは思えません。筐体の上に、このアンプを運ぶ時に手で持ち上げると思われる取っ手が二つ付いてします。
トーン,ラジオ音量,チューナ 右二つはマイク1マイク2 チューニングダイヤル
家庭で使うラジオやアンプは、筐体は木製です。しかし、このアンプの筐体は金属板製です。それが無骨に見える理由です。デザインよりは実用性を重視したアンプのようです。マイク入力も二つ付いています。つまり、このアンプは学校などの運動会などで、拡声器を鳴らすために使われた移動式アンプではないかと思います。運動会などのテントで放送用に使われたに違いありません。
アンプの裏ぶたは頑丈な金属板
スイッチ類は、トーンコントロール,電源スイッチ兼ラジオ音量,チューニング,マイク1音量,マイク2音量です。面白いのは電源スイッチ兼ラジオ音量です。アンプの電源スイッチを入れてすぐの状態では、ラジオの音量はゼロです。つまり、この状態でマイク音量で拡声器の音の大きさを決めます。休憩中などにラジオを聴かせたい時はラジオの音量を上げます。すると、ラジオとマイクがミキシングされて聞こえるのです。学校らしいアンプの使い方ができます。
マイク入力,アンテナ類 アンプの型式 拡声器出力,電源入力
電源コードが付いていますせん。取り外した後、行方不明になったのでしょう。そのまま電源コードを直付けするしかありません。今度秋葉原に行った時に、このコネクタを探してみようと思います。次に内部の構造を調べてみることにしました。上蓋を外すと、埃だらけのシャーシが出てきました。相当長い間、埃だらけの場所で使ったのでしょう。糸埃ではなく土埃のように思えます。真空管は9本使われていました。ただし、1本だけ低電圧真空管が抜けてありませんでした。次、使われている真空管について調査しようと思います。
埃だらけのシャーシ、真空管は9本(うち1本は不明)
現在、羊の原毛を使って毛糸を作っており、簡単な織物でも作ろうかと思っています。来年はさらに発展させて綿を栽培して糸を作ろうかと思っていました。そんな時、大波野に住んでいるOさんから綿の種子をいただきました。Oさんは、綿の栽培から、反物を織るまでの工程を一人でしているそうです。本当にありがとうございました。
いただいた、三種類の綿の種子(右より洋綿,緑綿,和綿)
江戸時代、田布施町では綿栽培,紡ぎ,布を作る産業がありました。綿産業が盛ん過ぎた弊害が記録として残されています。綿が不作の時、織物産業が痛手をうけたそうです。そのため、織物で生計をたてていた人が給金をもらえなかったとか。そのため、食べ物を買うことができず飢えたそうです。それほど、田布施では綿産業が盛んだったのです。
くるくる回す紡錘車 糸紡ぎ器を使って作った糸 Oさんが紡いだ糸
かつて使われた綿産業の道具が数多く郷土館に残されています。例えば、綿から種を外すための種取り器,糸紡ぎ器,かせくり器などです。さらに、古代も田布施は綿産業が盛んだったようです。古代の遺跡の中から、紡錘車が出てくるのです。紡錘車とは、くるくる回るコマのような糸紡ぎ器です。なお、綿ではなくからむしのような繊維だったかも知れませんが。
〇の部分で紡ぐ、通称タヌキの糸車 紡いだ糸を整えるかせくり器
となりの柳井市では、柳井縞として今に引き継がれています。郷土館に織機が一台残されていますが、使い方を知っている人はいません。この織機を直して、反物の一つでも織ってみたいものです。そのところについてなど、有志とOさんの家を訪ねてみようと思います。よろしくお願いいたします。私は、綿については全くの素人です。しかし、いつか田布施の子供達にその一端でも体験させる日がやって来ると良いなあと思っています。まずは、いただいた綿の種子を来年まいて、綿を作ってみようと思います。染色する野草もできれば育ててみたいと思っています。
田布施町に残された、一台の傷んだ織機
山口県では、サトウキビは外で冬を越すことができません。そのため、毎年のようにサトウキビの冬越し作業をしています。冬を越すのはサトウキビの茎です。何節かに切り分けた茎を、零下にならない温度や湿度で春まで保つのです。まず始めに、畑に生えているサトウキビの茎を根元から切り落として集めます。
一株のサトウキビ 切り取ったサトウキビの茎
集めた茎を2節以上残して、長さ30cm位の長さで次々に切断します。そして、切り口を消毒します。消毒して効果があるのか分かりませんが、黴菌が入らないようとの処理です。そして、切り口を含めて全体を乾燥させます。
切り口消毒後、乾燥中のサトウキビの茎
次に、保存するためのバレットを用意します。去年までは発砲スチロールの箱を使いましたが、穴が空いてきたため今年はパレットにしました。その内側に、ビニール袋を敷きます。その底に湿った土を敷きます。土を入れるのは、カラカラに乾燥させないためです。
底に土を入れ、その上に籾殻 茎を敷き詰めて籾殻を詰める
続いて、その上に数センチの籾殻を敷きました。そして、その上にサトウキビの茎を敷き詰めます。茎と茎の隙間に籾殻を詰め、茎が見えなくなるまで籾殻を敷いていきます。最後に、ビニールで覆いそのバレットを寒くない屋内に保管します。冬の間に時々様子を見ると良いでしょう。茎全体が黒くなったり、傷口が黒くなるような茎は残念ながら冬を越せません。私の今までの経験では、3月後半まで緑のまま保存することができれば冬越し成功です。4月を過ぎると、茎から芽が出てきます。
茎を完全に籾殻で覆う ビニールで塞ぐ 春まで、室内に保存
神花社を過ぎて、田名児童館に行きました。かつては小学校があったことの石碑が建っていました。その田名児童館から少し上がった場所にお地蔵様があります。お地蔵様前の道は山を越えて、百済部地区に抜ける街道があるようです。お地蔵様を見学した後、田名から佐賀へいく古道をどんどん歩きました。そして、夫婦松に向かう登り坂をどんどん歩きました。
田名児童館 児童館上にお地蔵様 やっと夫婦松に到着
夫婦松は去年7月ウォーキングの終点でした。確かここに車を止めたように思います。夫婦松で立ったまま小休止しました。そして、防地峠に向かって舗装された道を歩きました。この舗装道路は車の通行が多いため、気を付ける必要があります。防地峠傍に板碑がありますが、今回はスキップしました。本番ウォーキング時には訪れようと思います。
防地峠を越えてしばらく下ると、曽根八幡宮
防地峠に着いて少し下ると、そこから曽根地区が眼下に広がっていました。しばらくどんどん下ると曽根八幡宮が道脇にありました。曽根八幡宮に行くと、新嘗祭と講話会の最中のようでした。たくさんの方々が本殿内におられました。曽根八幡宮境内を見学後、とても高い常夜灯を見ました。とても高くて、見上げると肩が痛くなるほどです。
とても高い常夜灯 南陽三十八番薬師如来 和田川のホタル図
常夜灯から道を探しましたが、道が消えてしまいました。そのため、元来た道を引き返しました。そして、曽根公民館に向かう道を下りました。途中、南陽霊場第三十八ヵ番札所の薬師如来がありました。薬師如来は和田川傍にあります。その和田川ではホタルが生息しているようで、ホタルの看板が建っていました。その看板を見ていると、遠くから平生中学校運動部の声が聞こえてきました。放課後の練習のようです。平生中学校から曽根公民館まではすぐです。A君、Eさん、下見お疲れ様でした。本番ウォーキングは1月15日です。その時もまた、よろしくお願いいたします。
今回下見ウォーキングした、平生町の曽根,水場,田名
このところ本が増えてきたため、本棚を購入しました。家具屋さんで売っている本棚は高価です。4年前組み立てるタンスを購入しましたが、今回は組み立てる本棚を購入しました。注文後3日ほどで届きました。しかし、重くて持ち上げられません。引っ張るようにして引きずり、なんとか二階に運び上げました。
届いた組み立て式本棚 ネジ類の確認 組み立てマニュアルを読む
やっとの思いで二階に運び終わると、ナイフで外箱を外しました。すると、長い板が何枚も入っていました。そして、マニュアルとネジ釘類が入った袋も入っていました。ネジをドライバーでいちいち回していては、時間がかかりますし手も疲れます。そこで、電動ドライバーを使うことにしました。今後、空いた時間を見ながら組み立てようと思います。大みそかまでに組み立て終わればと思います。
組み立て式本棚の板や部品の数々
百済部神社を出ると、次に阿多田交流館に行きました。ここは参考程度で、あまり時間をさけません。そのため、さらりと見学する予定でした。ところが、置いてある本を見てびっくりしました。書店で購入できない本がざくざく置いてあるのです。最初、展示用の本かと思いきや、思いがけず販売もしていたのです。すかさず購入しました。
元海軍回天の慰霊碑 海を見渡すように慰霊碑 神花山古墳の女神像
たまたまお財布にお金があったため、二冊の本と三冊の資料を購入しました。購入した本と資料は次の通りです。〆て〇千円でした。私と同様、A君も感激して本や資料を買っていました。
•ふるさと平生の石造文化
•続編 ふるさと平生の石造文化
•おおむかしの平生
•懐かしい平生町の町並み図 昭和40年頃
•平生町 地名の由来
このような本を手に入れることができたのは、今回の下見の一番ヒットです。阿多田交流館を出ると、元海軍回天基地の入口近くの神社跡や慰霊碑を見ました。次に、元歌ヶ浜海水浴場を回り、現回天慰霊碑を見学しました。そして、神花山古墳がある神花山頂上に向かって緩い坂を登りました。ちょうど紅葉が綺麗でした。その紅葉の間に巨大な女王像が見えました。
神花山頂上に向かって緩い坂を登る、紅葉がとても綺麗
神花山の頂上は神花山古墳です。見晴らしが良い後円部で昼食休憩をとりました。休憩しながら、回りの景色を楽しみました。休憩が終わると、神花社側に下りました。三つの祠やお社がありました。石階段を降りると鳥居がありました。かつてこの前には新光学園が広がっていました。今は広大な広場になっています。
神花山古墳の斜面 神花社脇の三つの祠 神花社のお社
滅多に発生しない自家用車のパンクに遭遇しました。その日、用事があって西田布施の田川邸に行きました。用事を済ませて帰ろうとすると、タイヤがゴロゴロと音をたてるし、ハンドルがいつもより硬いのです。変だなあと思って、車から降りてタイヤを見るとやはりパンクでした。すぐに予備タイヤと交換しようと思いました。ところが、交換に必須なジャッキが無いのです。亡き父親がどこかで使った後、車に戻さなかったようです。
お借りしたジャッキで車を持ち上げ
途方にくれましたが、田川邸から20m位しか離れていないため、田川邸に戻ってジャッキをお借りすることにしました。お借りしたジャッキを使って、ゆっくりと車を持ち上げました。そして、パンクしたタイヤを取り外した後、予備タイヤを取り付けました。その作業途中、たまたまTさんがやって来ました。実は、その作業にTさんが作った手甲(2年前に田川邸で購入)を使っていました。その手甲のことをTさんは覚えており、田川さんとTさんが作業を見守る中で話が弾みました。ジャッキありがとうございました。おかげで助かりました。
予備のタイヤを取り付け中 パンクしたため変形したタイヤ
パンクしたタイヤを、毎回車検をお願いしているトヨタのお店に持っていきました。パンクを直してもらえるかと思っていたら。運が悪い事に、直せない場所(タイヤの側面)に穴があいていたとのこと。そのため、やむなく新品のタイヤを注文することになりました。約1万円の出費です。がっかり!
でも、誰もいない山の中で同様なパンクになったらと思うとぞっとします。ジャッキをすぐに借りることができたりと、むしろラッキーだったのではないかと思い直しました。
予備タイヤと後輪を前後交換した方が良いとのアドバイスで前後交換
来年1月に平生町の曽根や田名などをウォーキングする予定です。いつかウォーキングすることを予想して、2年位前に1人で事前調査したことがあります。今回、ほぼ同じコースを3人で歩きました。スタートしたのは、同じ曽根公民館でした。計測した全歩程は12kmでしたが、寄り道が多かったため本番ウォーキングでは10km位になると思います。
水場の金毘羅社 平生町と佐賀村の境界石 水場と戎ヶ下を結んだ埠頭跡
曽根公民館を10時にスタートすると、水場地区を歩きました。江戸から明治にかけて、水場は水運で栄えました。水場の方に、遊郭の跡地を教えていただきました。幕末、「石城山に駐屯していた奇兵隊員が水場までくりだした。」と記録にあったように記憶しています。若くて血気盛んな若者達が、男ばかりの石城山から水場の遊郭まで遊びに行ったのでしょう。
華やかしころの趣がわずかに残る水場の古道
今は海岸に沿って幅が広い道路がありますが、その裏には趣がわずかに残る古道があります。水場の古道です。その古道をしばらく歩いていると、海岸側に埠頭跡があります。これは、対岸の麻郷戎ヶ下とを結んでいた渡船場跡です。戎ヶ下側には跡はありませんが、水場側にはこうして跡が残っています。
海に突き出た百済部神社、太鼓橋を歩いて渡る
次に、教相寺を訪れました。ご住職はおられませんでしたが、来年1月のウォーキング時に訪れることをお伝えしました。本堂前にイチョウの大木があります。本堂に向かい合うように立つ親鸞聖人の足元が、黄色の落ち葉で染まっていました。
黄色のイチョウで染まった親鸞聖人の足元、その背後にイチョウの大木
その次に百済部神社と浜明神に行きました。海に突き出た百済部神社は、この百済部神社を合祀した神社です。合祀しても、こうして元の百済部神社のお社が残されているのは不思議なことです。明治初期の一斉合祀後、お参りしやすい今の場所に再度分神して再興されたのでしょうか。そのいきさつを知りたいものです。
教相寺の本堂 合祀される前の百済部神社 百済部神社傍の浜明神
12月になり畑の植物はすっかりおとなしくなりました。一部の植物は葉が枯れていました。その枯れた植物の一つに藍があります。真夏は元気いっぱいだった葉が枯れ落ちて、やや赤い色の茎が目立ちます。今回、来年の種まき用の種を取ることにしました。
藍の枯れた穂先(種) 藍の穂先をこさぎ取り採種
藍の穂先を絞るように、こさぎ取りました。取った穂先をカラカラに乾燥した後、叩いて殻を飛ばして種だけを取ります。ゴマ粒のように小さな種ですので、無くさないようにしなければなりません。私は乾燥材を入れた瓶に入れて保存します。
揉んで殻を取ると、ゴマ粒ほどの黒い種が現れる
大田地区集会所でもある虚空堂に着くと、その周りに安置された八十八体のお地蔵様を見学して回りました。お地蔵様が安置された傾斜地をじくざくに回りながら、ミニ巡礼しました。江戸時代か明治時代に、虚空堂を拝んでいた地元の有志がミニ巡礼ルートを作ったのではないかと思います。なおお、虚空堂は防陽八十八ヶ所霊場の三十七番札所です。かつてはたくさんの方が巡礼していたのでしょう。
虚空堂に向かう坂道 虚空堂傍のミニ霊場巡り 静かなイチゴファーム
ミニ霊場をお参りすると、時間が遅くなっていたためすぐに疫神社に向かいました。日曜日でしたので、イチゴファームには誰もいませんでした。どんどん緩い坂道を下っていくと、しばらくして疫神社に到着です。立ったまま休憩すると、蓮池寺に向かいました。予定では、下見で通った粟島神社方面に行くことにしていました。しかし、時間が遅くなっていたため、急遽予定を変更したのです。蓮池寺を見学後、そのまま蓮成寺に向かうことにしました。
疫神社に到着 蓮池寺の本堂 蓮池寺から蓮成寺へ
蓮池寺を抜けて山を下りようとした時、草刈りをしている方がいました。偶然にその方を見ると、その方も私の方を見ました。そしてすぐ、その方はゴーグルを外しました。なんと、その方は私が知っている田布施町議のFさんでした。役場や郷土館でお会いしたことはありますが、こんな場所で出会うとは思いもよりませんでした。少しばかり立ち話して、次の訪問地である蓮成寺に小走りで向かいました。
本堂を修復中の蓮成寺、立派な本堂に生まれ変わることでしょう
蓮成寺に着くと、下見時と同じように中高時の同級生T君がいました。今回は時間が遅くなっていたため、少しばかり話をしただけでした。線路を越えて田布施川に架かる橋近くの畑である夫婦が農作業をしていました。F君です。ウォーキング時にはどうしても思い出せませんでしたが、家に帰ってから思い出しました。私が中学生の頃、父親と一緒にF君の家に行ったことがあります。最近、思い出すのにとても時間がかかります。今回のように、家に帰ってから思い出すことが少なくありません。
田布施川の橋近く 橋近くのお地蔵様 城南公民館に到着
今回のウォーキングでは、思いがけずいろいろな人に出会いました。朝、城南公民館行く途中、自転車に乗ったO教育長から声を掛けられました。そして、大田の虚空堂に着く直前に農作業中のN町長に出会い、蓮池寺傍で草刈り中のF町議に出会いました。ウォーキングは、歩いて運動することに加えて、仲間との楽しい語らい、そして偶然の出会いがこれまた楽しいのです。ウォーキングば、体の健康に加えて心の健康に良いことを改めて感じました。今回ウォーキングに参加された方々、お疲れさまでした。
今回歩いた、田布施町城南の原,潤田,西山,大田のコース
7月末日の夏のフリーマーケット&ワークショップに続く、第3回のフリーマーケット&ワークショップがありました。前回は脱脂した羊の毛を紡ぐだけのデモンストレーションをしましたが、今回は紡いだ毛を藍染めした毛糸を使って織るデモンストレーションもしました。
今回のおいでえフリーマーケット&ワークショップ
織るデモンストレーションはEmさんにお願いしました。木枠を使ったり段ボールを使っての一番簡単な織りです。最初に縦糸を張り、次に横糸を交互に張りながら織っていきます。織りの原理が分かります。簡単な織りですが、なかなか立派な織物ができます。簡単ですので、小学生にも容易に織ることができます。織りを始める入口ではないかと思います。
南側机は手回しミシンコーナー 東側机は紡ぎと織りのコーナー
私がこの紡ぎや織り染めを始めたのは10年位前です。当時、織りを教えている方と知り合いでした。ある年、羊の飼育担当の農業高校生が私の所に米作りを学びにきました。その時、せっかく羊を飼っているならばその原毛で紡ぎや織りを体験してみたらどうか、と提案したことがきっかけです。
1.原毛を脱脂した羊毛
2.紡いで藍染めした毛糸玉
3.藍染め毛糸で作った織物
紡ぎと織りのコーナーの隣の机では、生藍染めした絹布を使ってコースター作りをしました。藍の葉をそのまま染めるため、絹布に葉の形に青く染まっています。その葉の形を残しながらコースターにするのです。二枚の絹布を重ねてミシンで縫い、裏表を返してコースターにします。ただ、使ったのが手回しミシンのため、片手でミシンを回し、片手で押さえて運針しなければなりません。足踏みミシンより少しばかり難しいミシンです。
おうちえんのコーナー その他いろいろなお店 藍染め品コーナー
ところで、今回はいろいろな方々と交流できたことが一番の収穫でした。おうちえんの方々とお話をしたり、リジット織りをしていた岩国から来られた方とお話をしました。特に、岩国の方も私と同じように原毛を脱脂、紡ぎ、染め、そして織りをしているとのこと。
今年はお試しの紡ぎなどでしたが、来年は綿を栽培したり、染色用の植物を育てたりと、少しばかり範囲を増やしてみようかと思っています。そして、4年後頃に、続けてよいものか決めようと思っています。
ハーブなど香りコーナー リジット織りのコーナー ナンと飲料のコーナー
後西山を出ると、前西山の隠寮さんに行きました。隠寮さんすぐ近くを歩いていると、妙福寺でお会いした方が家から出てこられました。隠寮さんについて少しお話しを伺いました。それは、隠寮さん横に小さな神社がかつてあったそうです。ところが、道を拡張した時に位置をずらしたそうです。それが、隠寮さんの後にある今にも崩れそうな小さな建物(お社)とのことです。
西山隠寮さんに向かう 崩れそうな神社建物 西山隠寮さんの内部
西山隠寮さんに限りませんでが、道を拡張するために移動したお堂やお地蔵様の話はよく聞きます。江戸時代はせいぜい牛や猫車が通る幅の道でした。しかし、明治以降、自動車を通すために真っすぐで幅が広い道が作られるようになりました。その過程で、移動せざるを得ないお堂,お地蔵様,そして祠が少なくなかったのです。
お地蔵様右横の道が古い神社の参道と思われる
西山隠寮さんを見学すると、道を西へ西へと進みました。しばらく歩くと、大田へ向かう脇道を降りました。下見時、雑草が生え放題でとても歩きずらい道でした。ところが、雑草が刈ってありました。M君が暇をみて刈ったそうです。M君、ありがとうございます。
大田への脇道を下る 雑草が刈ってあった山道 大田地区に出る
イノシシが出るような道をどんどん進むと、田んぼが見えてきました。刈り取り後のひこばえが実っていました。かつては、ひこばえのお米も収穫していたことがあったそうです。あちこちにイノシシが掘り返した跡がありました。
ひこばえが実った大田地区の田んぼ
大田地区の田んぼをどんどん歩くと、川に出ました。川沿いの道をしばらく進み、丘の上にある大田地区集会所でもある虚空堂に向かいました。この頃になると、少し足が疲れてきました。
今回歩いた、田布施町城南の原,潤田,西山,大田のコース
弘道館の建物に入る前、弘道館の周りを取り囲む庭をぐるりと回りました。晩秋だったため、ほとんどの木(主に梅)は落葉していました。弘道館の周りを回りながら、去年の今頃訪れた長府毛利邸を思い出しました。長府毛利邸は、弘道館よりも狭かったように思います。どちらも、甲乙つけがたいほど立派な日本建築です。
弘道館の西側正面広場ではいろいろな催しが行われたとか
弘道館の屋根が新しい瓦のように見えました。ガイドの方のお話では、先の東日本大震災時に屋根が一部倒壊したそうです。その後修復したため新しくなったとのことでした。結構な費用が掛かったそうです。
ガイドさんから弘道館の説明 西側広場に面する廊下
東日本大震災で初めて分かったことがあったそうです。それは、畳の下にある根座の構造です。通常の民家は根座は一重です。ところが、大震災で壊れた弘道館の床下を修復した時、根座が二重構造になっていることが分かったそうです。二重根座の理由は、床下に侵入した敵からの攻撃を防ぐためとのこと。そんな話を聞いていて、ガイドさんが次の話も教えてくれました。「水戸に梅が多い理由は、戦時の緊急食糧として積極的に植えたから。」だそうです。ごはんと梅干さえあれば籠城など戦時に耐えられるからとのこと。
明るい西側の庭と廊下 弘道館中心部の大通路
弘道館を見学していて、とてもうれしいことがありました。それは、肖像画付きで吉田松陰の手紙が展示されていたことです。漢文で書かれていました。読み下し文と現代語訳文も展示されていました。その内容は「四海皆友------山陽端来----」などでした。つまり、海に囲まれている日本、藩は違えど皆友達です-------山陽の端からわざわざ水戸までやって来ました-------」のように私は読めました。特に、「長州藩から来ました。」と言わず、「山陽の端からやってきました。」が気に入りました。吉田松陰が考えていた「日本」が分かるような気がしました。
弘道館を出ると、水戸駅に戻り千波湖へ
なお、少し離れた所に茨城大学があります。小中高の同級生であるYさんは、山口県から遠く離れたこの大学に入学しました。学生時代に彼女と会ったことがあります。その時、謙遜してか「芋大学と言われているんだあ。」などと笑っていたことを思い出しました。
弘道館を出ると、千波湖に行きました。この頃から雨が降ってきたため、足早に湖を眺めました。白鳥,黒鳥,鴨,カモメ?などの鳥がたくさんいました。遠くで餌をやっている人がいました。その近くの水面はたくさんの鳥で群れていました。また、空中に投げた餌を飛びながらキャッチしている鳥もいました。しばらく湖の淵を歩いていると、水面を鳥達が追いかけてきました。しかし、看板を見ると「餌を与えないでください。」の注意書き。うーん。
千波湖から帰ると、息子のアパートで休憩しました。その後、家内と二人で八王子の我家に帰りました。次の日、私は山口県へ戻りました。短くも濃い関東滞在でした。
小雨が降る千波湖 たくさんの鳥が寄って来る
27日は茨城県水戸市に行きました。息子が借りた新アバートに行くためです。一日前に息子が八王子の我家に来ていたため、私,家内,息子の三人で水戸市に向かいました。超久しぶりの茨城県です。私が新入社員だった頃に一度、水戸市に来たことがあるように思います。しかし、40年も前のことなので、市内のどこに行ったのか思い出せません。
上野駅の常磐線ホーム 水戸駅に到着 段ボールが置かれたアパート
水戸駅に到着すると、駅近い場所にあるアパートに向かいました。借りたばかりのため、段ボールが積まれていました。購入した冷蔵庫,洗濯機,テレビ台などが入っていた段ボールなのでしょう。八王子から水戸までは、都心を跨いで約3時間かかりました。少し疲れたので、真新しい室内で休みました。
水戸と言えば「黄門さま」。夏には駅前道路で水戸黄門祭り
30分ほど休憩すると、昼食をとるため再び駅に行きました。駅の周りは、県庁所在地にしては静かな街のように思いました。八王子より少なく、南大沢程度の規模のように思いました。駅前の水戸黄門の銅像を見た後、駅ビルに接するホテルで昼食をとりました。
水戸駅の駅ビル ホテルで昼食、家内と息子 弘道館に向かう坂道
昼食を終えると、弘道館を見学することにしました。弘道館は水戸藩の藩校で、長州藩の明倫館に相当します。藩校の中で一番敷地が広いそうです。まず、弘道館に向かう坂道を登っていると、小学校が見えてきました。明倫館小学校もそうですが、藩校の伝統を意識した校舎になっているように思いました。続いて、隣り合う位置にある弘道館に行きました。門の横に受付がありました。弘道館に入ると、10年以上ガイドをしている方が来られました。
弘道館隣りの小学校 弘道館横の受付 弘道館正面入口
26日東京工業大学に行きました。少年少女発明クラブのチャレンジコンテスト(通称:チャレコン)全国大会があるからです。残念ながら田布施町は出場することができませんでした。ですが、この大会を直に見ることによって、全国のレベルを知ることができます。
大岡山駅の出入口 東京工業大学校門 チャレコン会場(体育館)
大岡山駅を出ると、すぐ前に東京工業大学の校門がありました。この校門に入ってすぐ、図書館窓に描かれた「祝 ノーベル生理学医学賞•••」の文字が目に飛び込んできました。それを見て、今回ノーベル生理学医学賞を取った方が、東京工業大学の教授だったことを思い出しました。
東京工業大学大岡山キャンバスの桜並木(落葉中)と正面の本館
体育館に入ると、チャレンジコンテスト全国大会の熱気が伝わってきました。ゼッケンを付けた子供達がたくさんいました。そして、各チームが作った作品が次々に出場していました。体育館内にはたくさんの作品が並んでいました。いやあ、その出来に驚きました。いろいろなパフォーマンスが発揮できる作品ばかりでした。
出場待機中のチーム 出場中の作品 出場中の作品を見る方々
出場するのは60チームです。次々に出場してパフォーマンスを競っていました。とても小学生が考えた作品とは思えないほど完成度の高い作品もありました。指導者のアドバイスの元、子供達が力を合わせて作ったのではないかと思います。
作品が次々に出場し、パフォーマンスを披露してアピール
全国大会に出場するためには、春から入念に計画を立てておく必要があるように思いました。田布施は発明工夫展を主体として、希望者がチャレコンの作品を作ります。そのため、作品作成が7月からになります。そのため、実質一ヶ月程度で作り上げなければなりません。
各作品を見ながら会場を散策していると、柳井市チームの方々を見かけました。知っている方がおられたので声を掛けました。そして、この大会について少しお話を伺いました。
立派な作品と各クラブのPR 各クラブ1畳程度の作品置き場
ところで、甥が東京工業大学に今年入学しました。そのため、野球部に入っている甥に会えるかとグラウンドに行きましたが、誰もいませんでした。私がキャンパスを出てしばらくして電話がかかってきました。チャレンジコンテストの会場から電話しているとのこと。残念ながら、タッチの差で会えませんでした。いつの日か東工大を案内してもらう約束をして電話を切りました。
ところで、八王子の我家に着く直前、南大沢に寄りました。この日、南大沢ではジャズフェスティバルが開催されているようでした。少し聴いて我家に向かいました。
静かな東工大グラウンド キャンパスのイチョウ 南大沢のジャズフェス