東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町の陶土を使って土器・埴輪作り(その5)

2017年05月16日 | イベント,行事

 困難な陶土作りを経て、ようやく土器などの土製品を作ることができるようになりました。私は陶芸については全くの素人なので、かつて陶芸教室を開いていたYさんを招いて土器作りを教えていただきました。中央公民館入口には「土器試作会」と表示されました。中央公民館の和室で開催です。

          右端に座るYさんを招いて、土器などの土製品を試作


 土器作りを始める前に、私から今回の土器作りの目的などについてお話ししました。一番の目的は、羊の毛や綿を紡ぐためのスピンドルの紡錘車を土で作ることです。古代の田布施に住んでいた人が使っていたスピンドルの再現です。遺跡でしか見ることができない紡錘車を作ります。

    粘土のこね方をYさんに学ぶ      コロを使って粘土を平らに伸ばす      
 

 最初、Yさんから粘土のこね方を教えていただきました。じっくりこねて、粘土に残る空気を完全に追い出すとのこと。そのわずかな空気を無くさないと、焼くときに土器が破裂するそうです。実際に粘土をこねるとけっこう力がいります。プロの世界では男性の仕事だそうです。こねた後、粘土の伸ばし方などを教わりました。そして、こねた粘土の保存方法なども教わりました。ありがとうございました。

    Yさんの土器作り動作を見学      遺物として出土した紡錘車の写真       
 

 Yさんから教えていただいた後、粘土を受け取り各自じっくりこねて紡錘車を作りました。しかし、紡錘車だけを作るのでは退屈です。大中小の紡錘車を試作した後、いろいろな土製品を作って楽しみました。私は、小さな器,ミニなイノシシ,ミニな人を作ってみました。みなさんは、クッキーの押し型を使って文鎮を作ったり、実際に使えそうな湯呑やおちょこなどを作っていました。

           陶土で紡錘車を試作、中心の穴に紡ぎ棒を通す


 2時間ほど土製品作りを楽しみました。今後2週間かけてじっくり陰干しします。そして焼こうと思います。心配なのは素人がつくった陶土なので、陰干ししている間にひわってひび割れしないかです。焼くところまでいけるでしょうか。

          私を含め、みなさんが試作した土製品

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田布施町 麻里府 住吉神社祭礼 2017 (6/6)

2017年05月15日 | ふるさと

 見田団地の次は尾津東の御旅所です。元来た道を引き返して、国道188号線の信号を渡って尾津東に向かって進みました。その昔、麻里府尾津と麻郷戎ヶ下は二代川が境界だったようです。今は造船所があるため、その境界がよく分かりません。造船所ができる前は、尾津東端の二代川から戎ヶ下の間に塩田(大黒屋浜)がありました。

            尾津東の御旅所に向かって御神輿が進む


 尾津東の御旅所はとても変わっています。今まで御手洗石だとばかり思っていた石が御旅所だったのです。他の御旅所のようにその上に直接本神輿を置くことができません。上に板を張って本神輿を置くのです。この御旅所はかつて何だったのか気になります。何らかの祠があったのでしょうか。

      本神輿にお供え物          禰宜さんのお祓いと笛太鼓
 

 住吉神社の祭礼で、尾津東は最後を飾るのにふさわしい御旅所でした。本神輿前の棚に数々とお供え物が並べられました。お神輿について、よくは知らないのですが、ユダヤ教にも御神輿のようなものがあり人が担いで移動するとのこと。ちなみにキリスト教では、移動するのは神様ではなく聖人像のようです。古代アンデスでは、王様が亡くなると神様になり、神となった王様の亡骸を担いで移動していたそうです。仏教ではそのような物は聞いたことがありません。

              尾津東御旅所広場でくつろぐ方々


 禰宜さんのお祓いが終わると祭礼は終わりです。尾津東御旅所に集まった方々は、地区ごとに集合して帰っていきました。尾津東の御旅所もすぐに解体が始まりました。そして、尾津東集会所でも慌ただしくお接待で使った机や食器などの後片付けが始まりました。

  各地区ごとに集合    慌ただしい尾津東集会所  本神輿が住吉神社に帰還
  

 各地区の方々は帰っていきましたが、本神輿の住吉神社への帰還作業が残っています。禰宜さんをはじめ麻里府地区の総代さんなどの方々は、本神輿と一緒に住吉神社に向かいました。住吉神社に到着すると急階段を登って本殿へ本神輿を入れました。そして、禰宜さんによる本神輿へのお祓いがありました。

   住吉神社本殿で本神輿にお祓い      お祓いが住んだ本神輿を倉庫に
 

 住吉神社本殿での本神輿へのお祓いがすむと、本神輿は倉庫に仕舞い込まれました。本神輿は、来年まで静かに出番を待ちます。本神輿のとなりに古い神輿がありました。お聞きすると、かつて暴れ神輿に使った神輿とのことでした。

              禰宜さんと総代さんのお言葉


 祭礼が終わると禰宜さんのお言葉、続いて総代さんから祭礼終了のお言葉とねぎらいのお言葉がありました。住吉神社の祭礼に関わった方々、本当にお疲れ様でした。私はこのお祭りを見学することができてとても嬉しく思いました。今回の住吉神社祭礼を記録に残そうと思います。50年後、100年後、住吉神社の祭礼はどうなっているでしょうか。

                御神輿の行幸ルート
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田布施町の陶土を使って土器・埴輪作り(その4)

2017年05月14日 | イベント,行事

  前回、土器作りのために粘土状の陶土を作りました。しかし濾過した網目が大きかったため陶土に細い根っこや砂が多く混じっていました。このままでは、土器がちゃんと出来上がる心配です。そこで、さらに細かい網目を通すことにしました。

  最初作った粘土状陶土     陶土を二分割      片一方の陶土を溶かす
  

 陶土を二分割して片一方を再度水で溶かすことにしました。溶かすとき、手クワで溶かすのは大変です。左官屋さんがが壁土を混合するために使う小さなブロベラを使ってみることにしました。すると大成功でした。プロペラはいわば陶土のミキサーです。網で濾過しやすいように、しばらく水に溶けた陶土を攪拌し続けました。

            水を多めに入れ、陶土を溶かしながら攪拌


 しばらくブロベラを回していると、溶けた陶土がミルクのようになってきました。この位溶ければ、細かい網を通りそうです。そこで、小麦粉をふるう極細の網を使ってみることにしました。ミルク状の陶土を網の上に流すと、最初はスルリと陶土が通りました。しかし、すぐに濾過できなくなりました。

 ミルク状に溶けた陶土    小麦粉をふるう網      網をバケツの上に
  

 濾過できなくなった原因は小さな砂です。その小さな砂が網目に詰まっていたのです。そこで網を逆さまにして、地面に叩きつけると砂は取れました。そして、再び溶けた陶土を流し込むと、最初は同じようにスルリと濾過します。そして、すぐに砂が網目に詰まりました。その繰り返しでした。 

          ミルク状の陶土を、粉ふるいの網に流し込む


 「流し込む>砂が詰まる>砂を取る」の繰り返しでした。それを20回位でしょうか、繰り返すとバケツ一杯ほどの濾過した陶土になりました。次に、前回と同じようにその濾過したミルク状の陶土を布の中に入れました。そして、袋状にしてぶら下げて水分を取りました。

             作業に使ったバケツなどの道具 


 3日ほどぶら下げて水分を抜いて、粘土状になった陶土を布から取り出して洗面器の中に移しました。水分を抜いたとは言え、まだ土器に加工するには柔らかすぎます。そのため、さらに3日ほど陰干しします。こうして土器に加工できる粘土状陶土ができました。

     濾過した陶土を袋に入れる     3日ほどぶら下げて水分を抜く
 

 来週、数人でこの陶土を使って初の土製品を作ってみます。作るのは、古代に使われたスピンドルの紡錘子、箸置き、おちょこ程度の椀、埴輪などです。どの程度の大きさまで作ることができるのかにも挑戦してみようと思います。その後、2週間ほど陰干しして完全に乾かした後、焼いてみようと思います。ちゃんとした土器ができるか今から心配です。

      さんざん苦労した末に出来上がった、土器作りに使う粘土状陶土

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年も、公民館祭り用のサツマイモを植え付け

2017年05月13日 | 野菜:芋類

 数日前、サツマイモの苗を植え付けしました。去年まではほとんど安納芋ばかりを植えてきました。一昨年は捨てるほど大量に収穫できましたが、去年は収穫量が思わしくありませんでした。公民館祭り用に100本のサツマイモを収穫予定のところ、60本程度しか収穫できなかったのです。安納芋は甘くて最高に美味しいのですが収量が多くありません。そして、収量がとても不安定なのです。

  畝立て作業開始       レーキで畝を均す     黒マルチを被覆
  

 そのため、今年は品種を紅東(ベニアズマ)にしてみました。この品種は、食味は普通ですが減収があまりありません。そして、誰が作ってもそれなりの収穫が期待できます。今後は紅東のように収穫量の変動が少ない品種にしてみようと思います。

    黒マルチを張る作業中のサツマイモ畑、これで雑草が生えにくくなる


 いつものようにサツマイモを植える畑を耕耘機で耕しました。そして、三本クワで畝を作りました。そして、畝が鞍型になるようにレーキで整えました。次に黒マルチを被覆して両サイドを土で固定しました。畝は三本作りました。共にサツマイモの苗を10本ずつ植え付けました。

  苗を穴に植え付け     40cm間隔で植え付け    植え付け後水やり
  

 サツマイモ苗の植え付けが終わると、いつ雨が降るか分からないのでジョロで水をやりました。そして、根がしっかり生えるまで日射で葉が枯れないように枯草で覆っておきました。サツマイモがしっかり根付いたことを確認すると、この枯草は取り除きます。今年の秋、公民館祭り用に100本のサツマイモが収穫できるでしょうか。一株あたり3~4本のサツマイモが収穫できればその目標を達成できます。

       サツマイモの植え付けが終わると、その上に枯草を被覆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田布施町 麻里府 住吉神社祭礼 2017 (5/6)

2017年05月12日 | 歴史探訪他ウォーキング

 尾津中の御旅所に着くと、他の御旅所と同様に本神輿が止まり禰宜さんによるお祓いがありました。ここの御旅所が他と異なるのは、子供神輿がこの御旅所に止まらないことです。子供神輿は尾津中の御旅所を通り越して麻里府公民館に行きます。本神輿だけが尾津中の御旅所に止まるのです。

   尾津中の御旅所     麻里府公民館に向かう   麻里府公民館に到着
  

 よくは分からないのですが、今は麻里府公民館が尾津中の実質的な御旅所となっているのかも知れません。麻里府公民館に本神輿が到着すると、さっそく禰宜さんによるお祓いがありました。子供達は先に到着しているためか、各地域別の机に並べられたお接待を堪能していました。この頃になるとだいぶ日が昇り暑くなってきました。私も公民館でトイレ休憩をすることにしました。

             各お接待でとても賑やかな麻里府公民館


 しばらくすると神輿が動き出しました。次は見田団地の御旅所です。見田団地は私が子供の頃には無かった団地です。40年ほど前に開発されたのではないかと思います。旧麻里府郵便局近くから坂を登って、国道188号線の横断歩道を渡ります。そして、5分程度歩いて団地前広場に着きました。

  国道188号線を渡り見田団地へ        見田団地前の広場に到着 
 

 私は子供の頃から何度となく麻里府に行きました。当時はまだ見田団地がなかったため、今回初めて見田団地に行きました。といっても団地前の広場だけなのですが。団地のどこに集会所がありどんな公園があるのか知りません。いつか見田団地をゆっくりと歩いた見たいと思います。

      見田団地前広場の御旅所に到着、見田団地の方々のお接待


 私の記憶では、今回神輿が到着した見田団地前の広場は確か田んぼが広がっていたように思います。40年位前の私はこの地形が不思議でした。一般的な地形では、海,田んぼ,民家,山の順なのですが、麻里府尾津中はなぜか、海,民家,田んぼ,山の順なのです。尾津中に民家が無かった古代において、海,砂浜,沼,山の順だったのではないかと推定されます。その沼から流れ出す川が、二代川だったのではないかと思います。

              御神輿の行幸ルート

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリーン作戦日に備えて草刈り

2017年05月11日 | イベント,行事

 日曜日に田布施町ではいっせいのクリーン作戦があります。昔は道普請と言いましたが、いつの日にかクリーン作戦になったのでしょう。奇数月にありますが、今回は草刈りなどの美化ではなく側溝などの溝さらいが中心です。

     草もぐれの我家の敷地        草刈り後の我家の敷地
 

 そのため、クリーン作戦前に草刈りを済ませておく必要があります。私も敷地を草刈りしました。道路や側溝に面している斜面などを中心に草刈りしました。ただし、側溝に面している敷地はとても危険です。側溝は相当な深さがあります。足が滑って落ちないように踏ん張りながら草刈りしました。クリーン作戦当日は勤務日でもあるため、早めに作業を切り上げようと思います。

            草刈りをした側溝側の敷地

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光市 牛島 下見ウォーキング(3/3)

2017年05月10日 | 歴史探訪他ウォーキング

 旧牛島小中学校跡地から山道をどんどんと進みました。島の道なのに海が全く見えません。それだけ、樹木が生い茂っているのです。針葉樹は少なく広葉樹が多いです。細い山道だけは歩きやすく草木が生えていません。歩きやすいのは、牛島の方々が今でもこの山道を使っているからではないかと思います。

   樹木に囲まれた牛島の山道        分かれ道はちゃんと矢印
 

 山道を歩いていてレンガ作りの陶芸用?窯がありました。しかし、その窯の周りに土器も無ければ薪もないのです。しかも、窯は細長いのです。不思議な窯だと思っていたのですが後で判明しました。牛島を離れる時に島の方に聞いたところ、その窯は人を焼く窯だったとのこと。つまり、火葬用の窯だったのです。細長いのはお棺に合わせているからです。やれやれ、聞かなければよかった。

          平茂海岸から見た、麻里府,馬島,佐合島,佐賀など


 山道には所々分かれ道がありましたが、部外者が迷わないように矢印がありました。その矢印のとおりに進むと、じきに下り坂になりました。その下り坂を歩いていると、ぱっと目の前が開きました。平茂海岸です。とても広い小石混じりの浜です。端から端まで500m位はあるような気がしました。とにかく広々とした海岸でした。そして、海の向こう側に見える島々の景色がとても良いのです。

        平茂海岸を背に下見ウォーキング参加者5人(1人は撮影)


 平茂海岸からの景色は不思議でした。馬島と佐合島の順が逆なのです。いつも通る平生町佐賀からは、右から馬島そして佐合島です。しかし、平茂海岸からは左右が逆なのです。船が出るまでたっぷり時間がありました。30分位でしょうか、砂浜に座って楽しく雑談しました。海岸の端から端まで歩けば良かったです。本番ウォーキングでは海岸を歩いてみようと思います。

        牛島の方々が最初に住んでいたと言われる三浦の海岸


 平茂海岸には面白い伝説があります。茂平伝説です。昔々のある時、茂平が平茂海岸で大きなタコを見つけたそうです。そのタコはあまりに大きかったため持ち帰れませんでした。そのため、毎日足を一本ずつ切りながら平茂海岸に通ったとか。最後の一本を切ろうとした時、その最後の足にからめ取られて海に引き込まれてしまったそうな。

       日本土木学会の選奨土木遺産の牛島港防波堤


 平茂海岸から帰る時、三浦と呼ばれる海岸に寄りました。そこは牛島の人々が最初に住み着いた海岸だそうです。三浦には立派な石垣があります。人が増えて今の場所に移り住んだそうです。船に乗る前に島の方から牛島の各海岸の名前などをききました。ナコーラなどの海岸です。ナコーラを漢字にすると奈子浦だそうです。午後5時出航の船で室積に戻りました。
          
  波しぶきを立てる船    伊保木方面を眺める     室積港に到着
  

 なお、牛島港の防波堤の石組は日本土木学会の土木遺産に指定されています。そして、未来に残したい漁村の歴史文化遺産百選の一つです。また、国土交通省の島の宝100選にも選定されています。

          今回、下見ウォーキングした牛島のコース

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和綿の苗と種まき、紅花の種まき

2017年05月09日 | 花,野草

 先日は仲間に手伝ってもらい、洋綿の苗を植えたり種まきをし、藍の苗を植え付け、さらに紅花の苗を植え付けました。今回は、洋綿と同様にやはりいただいた和綿の苗を植え付けたり種まきをし、紅花の種まきをしました。仲間に何度も手伝ってもらうわけにはいかないので、今回は私一人で作業しました。一人で作業するのはマイペースで良いのですが、話し相手は作業のじゃまをしにくる猫のリンちゃんだけです。

    和綿の苗        苗箱から苗を取り出す    畑の畝に移植
  

 まず和綿の苗を植え付けました。最初に畝に巻き尺を引きます。そして、50cmごとに苗を植え付けました。すべての和綿の苗を植え付けると、今度は和綿の種を苗に続けて同じ間隔で種をまきました。好天だったため初夏のような暑さです。額から汗が出てきました。

               畝に膝をついて和綿の苗を移植


 和綿の苗の移植と種まきが終わると、次に紅花の苗を植え付けました。移植時期が遅かったのか子葉が白くなっていました。そもそも、紅花は移植に向かないのかも知れません。苗を植え付け終わると、その畝に続けて今度は紅花の種を蒔きました。紅花の種は、色が白くヒマワリの種に形が似ています。

    紅花の苗          苗を取り出す      畝に苗を移植
  

 苗の移植と種まきが終わると、ジョロで水やりをしました。しばらくは雨が降りそうもないため今後水やりが欠かせません。ここの畑は肥料分が少ないため、化成肥料か有機肥料をやろうと思います。6月になると梅雨に入り、さらに暑さが厳しくなります。それまでにしっかりと根が張るように世話をしようと思います。

         移植したり種をまいた箇所にジョロで水やり


 綿作りも紅花作りも初めてのことで、今年はいわば試作です。栽培のノウハウを少しでも多く習得しようと思います。そして、来年の綿作り,糸繰り.織物作りなどに生かそうと思います。

      紅花の白い種            畝に紅花の種をまく
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田布施町 麻里府 住吉神社祭礼 2017 (4/6)

2017年05月08日 | 歴史探訪他ウォーキング

 中郷影平の御旅所を出ると、次に尾津西の御旅所に向かって出立しました。中郷影平と尾津西は少し距離があります。1.5Km位でしょうか。この頃になると疲れが出てきたのか、「じょーいさん、じょい!」の掛声も小さくなってきたように思います。

        桜川に沿う舗装道路を下流に向かって御神輿が進む


 尾津西の御旅所は桜川の河口近くにあります。そのため、スタートした住吉神社前を通り過ぎ、さらに旧麻里府小学校跡前を通り過ぎます。江戸時代ここが海だったことが信じられません。また、昭和2年頃に麻里府から光市へ抜ける国道188号線が開通しました。つまり、昭和2年までは麻里府は、行き止まりの里だったのです。

 桜川をどんどん下流に    桜川に泳ぐ鯉を見下ろす   元気な子供神輿
  

 昭和2年前までは海岸線に沿う188号線はありませんでした。しかし、尾津西から今の立石墓地に向かう古道がありました。今は立石墓地で古道は終わっていますが、かつては立石墓地からさらに大平山に向かう山道があり、峠を越えて伊保木に向かう道があったようです。おそらく中郷から伊保木に向かう古道と合流したのではないかと思います。

          スタートした住吉神社前を通過する御神輿


 麻里府の尾津は幕末に大事件がおきました。加徳丸事件です。麻里府の水田家所有の加徳丸が薩摩藩に借り上げられ、たまたま麻里府に寄ったときに大事件が起きたのです。当時(文久3年)、長州藩と薩摩藩は犬猿の仲でした。その敵である薩摩藩の船を上関の義勇隊が襲ったのです。そして、その船に運悪く乗っていた薩摩藩の大谷は殺害されました。その大谷は今、静かに尾津西の立石墓地に眠っています。

 尾津西に到着した本神輿     休む子供神輿      お接待をいただく
  

 幕末から明治にかけて貿易が盛んだった麻里府はとても興隆していました。明治22年に麻里府村ができた時、面白い逸話が残っています。麻里府村ができる時、麻郷村と境界線でもめたそうです。麻里府は貿易で栄えていましたので、陸地はそれほど重要ではなかったようです。そのため、取りたいだけ麻郷に渡したとか。

          尾津西の御旅所で禰宜(ねぎ)さんに交代


 ところで、見田団地は一見麻里府地区のように見えますが地目では麻郷です。陸地に興味がなかった当時の麻里府の方々が麻郷に渡したのです。でも団地が開発された今、見田団地の方々は麻里府の住人としてこの住吉神社のお祭りに参加しています。地目は麻郷であっても実質麻里府なのは歴史の不思議なところです。

  尾津西御旅所で休憩    子供神輿も休憩    次の尾津中御旅所に向かう
  

 明治22年に麻里府村ができた時、それまで上関だった馬島は麻里府になりました。近くでもあるし同じ貿易を生活にしていた馬島と気が合ったのでしょう。江戸,明治,大正と麻里府や水場など、平生湾に面する町は内陸の麻郷や田布施よりはるかに栄えていました。水場に遊郭があったほどです。同じように麻郷でも海側の米出が栄えていました。同じ麻郷でも米出側を麻郷と呼ぶのに対して、竹重・奈良・三宅方面を麻郷奥と呼ぶのはそのような時代背景があったためなのです。

                御神輿の行幸ルート

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光市 牛島 下見ウォーキング(2/3)

2017年05月07日 | 歴史探訪他ウォーキング

  続いて、教念寺に行きました。もともとは田布施町麻郷の浜城にあったものが、どうして牛島に移転したのかその経過を知りたいものです。明治初期、苛烈な廃仏毀釈がありました。そのため、いくつものお寺が廃されました。教念寺もその候補になったものの生き残りをかけて、それまでお寺がなかった牛島に移転したのかも知れません。

    教念寺の本堂を仰ぎ見て        海の眺めがとても良い教念寺
 

  教念寺のご住職がおられないか、呼び鈴を何度も鳴らしましたが反応がありませんでした。そのため、失礼とは思いましたが、本堂前の眺めが良い場所でお昼休憩にしました。本堂はやや高台にあるため、ほとんどの家を下に見ることができます。その昔は1200人が牛島に暮らしていたそうですが、今は40人位とのこと。八島の19人と比べれば多いですが、教念寺も楽ではないだろうと思いました。

            昼食休憩した教念寺本堂前、眺めが良い


 教念寺を出ると、一路平茂海岸に行くことにしました。途中、お地蔵様や丑森明神を見学しました。牛島と呼ばれるだけあって、その昔は農耕用の牛を多く飼っていたようです。ある牛の供養をしたものが丑森明神とのこと。人の墓地の中にこの明神がひっそりとあるのです。牛の伝説が丑森明神として残っています。

   平茂海岸に向かう      お地蔵様      ひっそりとある丑森明神
  

 丑森明神がある場所は、牛島の方々の墓地が密集しています。その墓地群を抜けると突然広い場所に出ます。旧牛島小中学校跡地です。校舎を見るとそれほど古いようには見えません。10年位前に閉校したのではないかと思われます。体育館も立派に見えます。広い場所は校庭のようです。かつてはこの校庭で子供達がスポーツしたり遊んでいたにちがいありません。

  それほど古くは見えない旧牛島小中学校跡、草がそれほど茂っていない校庭


 旧牛島小中学校跡地を過ぎるすぐに山道に入りました。その山道をよく見ると、保護されているのでしょうヒトツバハギが生えていました。ヒトツバハギは絶滅危惧種に登録されているそうです。山道はどんどん高度を上げていきました。何もない山道ですが、道の両サイドをよく見るとかつての人々の生活の痕跡が色濃くありました。

       今回、下見ウォーキングした牛島のコース

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洋綿を種まきし、藍と紅花の苗を移植

2017年05月06日 | 花,野草

 5月に入り、時には初夏のような暑い日が多くなりました。連休を利用して一気に種まきや苗を移植しようと思っています。今回は、洋綿の種まきをして、紅花と藍の苗を移植しました。一番の心配は雨です。好天なのは良いのですが、苗を植えた後になんとか雨が降ってほしいところです。しかし、雨は降りそうもありません。しばらくはジョロでの水まきが欠かせません。

    A:紅花の苗,B:藍の苗           洋綿の種から綿外し
 

 最初に洋綿の種まきをしました。いただいた洋綿の種には少しばかり綿が付着していたため、種まきする前に付着した綿を外しました。少しぐらい付着してもかまわないと思いますが、念のため種を綺麗にしました。種まきの間隔は50cmにしました。

           洋綿の種を蒔くEtさんとEmさん


 いただいた種は、去年採種したものと一昨年採種したものです。発芽率を考慮して、一昨年採種した種は一か所の分量を多くまきました。EtさんとEmさんには洋綿の種まきを、Fさんには紅花の苗の移植をお願いしました。そして、私は藍の苗の植え付け作業をしました。

 紅花の苗を植えるFさん     蒔いた洋綿の種     のんびりと播種
  

 一方で、草刈機を持ってきたA君は畑周辺の草刈りです。舗装道路沿いは私が草刈りしましたが、残りの大部分を草刈りしてくれました。暑い中、ありがとうございました。刈り取った草は干し草にして、後日植えるサツマイモの日よけにします。作業の合間、ジュースを飲んだりお菓子を食べながらの休憩タイムをもうけました。そして、楽しく談笑しました。

       膝を痛めている私は、両膝を地面について藍苗の移植作業



 休憩が終わると、もう一列に洋綿の種を蒔きました。50cm間隔で並んでのんびりと種まきをしました。当分雨が降りそうもないので、いつ発芽するか分かりません。発芽後は、除草や施肥の作業が次々にあります。夏に開花して秋に綿を収穫する予定ですが、綿の栽培は全く初めてです。ちゃんと綿が収穫できるか心配です。

        ジュース飲んだり食べたりして楽しく談笑する皆さん


 ところで、昭和20年代に田布施の国木方面で綿を栽培している家があったそうです。また、その家には綿を糸にする紡ぎ車があったそうです。田布施町で綿を栽培していたのはそう昔のことではなかったようです。当時はまだ、綿を使って糸を紡いだり織物を織ったりする技術をもっている人がいたのです。その綿栽培,紡ぎ,そして織りの技術は絶えてしまいました。もちろん、その綿の種も絶えました。とても残念です。

     もう一列に綿の種をまく        みんな並んで綿の種まき
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田布施町 麻里府 住吉神社祭礼 2017 (3/6)

2017年05月05日 | 歴史探訪他ウォーキング

 麻里府中郷集会所前広場の御旅所には15分位いたでしようか。飲み物や軽食が用意されていました。部外者の私ですが、何人もの方にお接待をいただいてもよいとのありがたいお声がけをいただきました。ありがとうございました。ただ、まだまだ先は長いので、またトイレが近くなっても困るため、わずかに喉を潤しただけでした。

         中郷集会所前広場の御旅所でお接待を受ける方々


 しばらくすると出発です。中郷の子供神輿を先頭に次の御旅所に向かって列が続きました。中郷は歴史的に興味がある場所です。古代においては中郷まで海が入り込んでいたようです。そして、中郷と上組の境位まで海が入り込んでいたようです。さらに、江戸時代初めまでには中郷と尾津の境まで海が後退したようです。江戸時代中期になると、今の麻里府小学校跡または住吉神社近くまで海が後退したようです。今この付近まで桜川の潮がのぼってきます。桜川の堤防をすべて撤去すれば、今でも住吉神社下は海岸のはずです。
 ちなみに、田布施川のすべての堤防や樋門を撤去すれば、田布施と平生に広がる平地は広大な海になるはずです。0m地帯は干潟となるでしょう。実際、江戸時代初めにそのような光景が広がっていたことが文献,古地図,地名などから分かります。

  中郷子供神輿が先頭    見田団地の子供神輿   最後に本神輿が続く
  

 住吉神社の成り立ちも海と関係しています。住吉神社は、もともとは中郷と上組の境近くにあったとされます。当時は住吉神社ではなく明神社と呼ばれていました。その明神社跡は今でも残っています。草で覆われていますが、その草を除けるとお社の柱跡が残っています。

            中郷を練り歩く御神輿の数々


 その昔、中郷に大水があり明神社のお社が流されたそうです。そのお社は今の住吉神社のふもとに流れついたとのこと。その時、「神様がここがいい。」とおっしゃったとのこと。そこで、今の場所にお社を立てたそうです。その時はまだ住吉神社ではありませんでした。  

 中郷と上組の境でターン   中郷影平を練り歩く   もうすぐ御旅所     
  

 その後、享保6年(1721年)に大阪堺の住吉神社を分神し、元々あった明神社と合祀して今の住吉神社となったようです。江戸時代後期に編纂された防長注進案には住吉大明神として記録されています。

    中郷影平の御旅所           水車で遊ぶ子供達
 

 当時の海岸線は今の麻里府小学校跡近くでした。そして住吉神社下が海岸だったのです。そのため、住吉神社のお祭り時には船が住吉神社下に集結したそうです。そして数百人の若者が交代で神輿を担いで住吉神社から二代川(尾津東集会所付近)まで押し歩いたとのこと。そして、途中で海に入っては暴れまくったそうです。それが「暴れ神輿」の由来です。

               御神輿の行幸ルート


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光市 牛島ウォーキングの下見(1/3)

2017年05月04日 | 歴史探訪他ウォーキング



 今月予定の光市牛島ウォーキングの下見に行ってきました。天候に恵まれ、とても楽しい日帰りの船旅でした。室積の普賢寺の駐車場に車を止めて、10時出航の船に乗りました。島をウォーキングするのは、去年同じ時期の上関町八以来です。八島の時は船が揺れて波しぶきでズボンが濡れるなど大変でした。今回は穏やかな波で、周りの島々を見ながらの楽しい船旅でした。途中、スナメリを見かけました。

     牛島行の連絡船に乗船      波しぶきを立てて室積港を出る連絡船
  

 牛島ウォーキングの目的の一つは教念寺です。このお寺は、元々は田布施町麻郷の浜城にありました。明治4年にこの牛島に移転したとのことです。麻郷では教念寺があった場所を「教念藪」と言っています。今お寺があったことを知る人はほとんどいません。牛島港に入ると、この教念寺の大きな屋根がとても目立ちます。

         連絡船から見た牛島港、教念寺の大きな屋根が目立つ


 牛島港に着くと、牛島公民館に入館し牛島のパンフレットをいただきました。そして、そのパンフレットに記載された史跡を訪れることにしました。最初、民家の西端にある牛島八幡宮に行きました。そして、本殿とその周辺を見学しました。この神社の近くから伊保木方面が良く見えました。

 牛島港についた連絡船   牛島公民館に入館    牛島八幡宮隣の恵比寿神社
   

 牛島八幡宮の見学が終わると、いったん牛島港に戻りました。そして、次に牛鬼「藤内図書橘道信」の頌徳碑を探しました。しかし、なかなか探し出すことができませんでした。たまたま目があった近所の方に場所を聞きました。すると、今は草が生い茂って入りにくいとのことでした。元は庭だったであろう草むらを探すと碑がありました。

         牛島八幡宮の石鳥居と本殿、右側階段上に恵比寿神社


 続いて牛島のタブノキを探しました。これまた場所を探すのに往生しました。坂道を行ったり来たりして、たまたま出会った方に場所を教えていただきました。場所が分からない時には地元の方に聞くのが一番です。見つけたタブノキの根元には荒神様と明神様の祠がありました。牛島を去る直前に地元の方に聞いたのですが、明神様は元々は三浦にあったのを移転したとのことでした。

  牛鬼「藤内図書橘道信」の頌徳碑      左:明神様、右:荒神様
 

 初めて牛島に来たので勝手が分かりません。同じ島でも、以前ウォーキングした祝島平群島八島は案内者がいたため不安なく下見をすることができました。牛島は案内者がいなかったため下見に少し不安を覚えていました。しかし、親切な地元の方々に出会うことができました。ありがとうございました。

           今回、下見ウォーキングした牛島のコース

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田布施町の陶土を使って土器・埴輪作り(その3)

2017年05月03日 | イベント,行事

 布に入れて水分を取り除いた粘土、布を触ってみるといい硬さです。そのため、布から粘土を取り出すことにしました。その布の紐を解いて、中の粘土を出してみました。そして、粘土を触ってみました。すると、やや固めで水分を取り除きすぎたのではないかと一抹の不安が頭をよぎりました。

      水分が抜けた粘土        タライの底に残ったひび割れ粘土
 

 そして、タライの底に残った粘土を見ました。すると、乾くにつれた粘土は少し収縮するようです。タライに溜まった粘土は、細かくひび割れていました。土器を作っても。ひび割れてしまえば一文の価値もありません。とにかく、この粘土で一度土器や埴輪を焼く予定です。もし、うまく焼けないようであれば、陶土の粘土を作り直そうと思います。うまく土器や埴輪を作ることができるでしょうか。

        これから土器や埴輪を作るつもりの陶土

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田布施町 麻里府 住吉神社祭礼 2017(2/6)

2017年05月02日 | 歴史探訪他ウォーキング

動画 約30分


 子供神輿を先頭に、尾津東の方々と住吉神社に行きました。住吉神社に着くと、子供神輿と一緒に急な石階段を登って本殿に行きました。見田団地の方々はすでに到着していました。そして、中郷の方々を迎える段取りになりました。しばらくすると、中郷の子供神輿が急階段を上がってきました。皆さん全員が到着すると、住吉神社本殿内で神主さんのお祓いが始まりました。

    住吉神社本殿で神主さんがお祓い中、お祈りをする麻里府の方々


  神主さんによる子供神輿や麻里府の方々へのお祓いが済むと、各神輿と一緒に麻里府各地への行幸の始まりです。本殿に安置された本神輿を外に出すため注連縄が外されました。注連縄が本神輿に引っかかるため外すとのこと。とても立派な本神輿です。子供神輿と比べてとても重いようです。重さに慣れないためか、本殿から下りる時に本神輿が少しゆらゆらしていたように思います。本神輿を担ぐ方々は大変だったと思います。

  本殿を出る本神輿     急石階段を降りる    子供神輿も降りる
  

 本神輿が住吉神社の急階段を降りると、続いて各地区の子供神輿や太鼓も降りました。住吉神社の石鳥居前で順序を整えると行幸の始まりです。他の神社では、御神輿は軽トラックに乗って各地区を回ります。しかし、麻里府の住吉神社は全員が子供神輿を先頭に各地区を歩いて回ります。100人位の方々が大声をあげながら行列をするのです。呪文のような大声「じょーいさん、じょい!」は何の言われがあるのでしょうか。

 中郷地区子供神輿が先頭    続いて見田団地     最後に本神輿が続く
  

 行幸の順番を見ると、早く到着する地区の子供神輿順になっているのでしょうか。つまり、中郷の子供神輿が先頭で、最後が本神輿なのです。その昔、尾津西、尾津中地区の子供神輿があった頃は、中郷、尾津西、尾津中、見田団地、そして尾津東の順だったのかも知れません。

           中郷地区の御旅所に向かう四つの神輿


 なお、同じ麻里府内でも上組は子供神輿が出ていません。理由は、上組は妙見神社でお祭りをするためとの事です。以前古老から聞いたことがあるのですが、妙見神社と住吉神社のそれぞれのお祭りにはお互いに参加しなかったそうです。一種の競争意識があったのかも知れません。ちなみに、住吉神社は海の神様で妙見社は百姓の神様だそうです。なお、今回の住吉神社のお祭りで上組の方をお見かけしました。今はどちらのお祭りにも自由に参加できるようです。

 中郷集会所前広場に到着した御神輿群      お祓いを受ける中郷の方々
 

 上組妙見神社のお祭りには、かつて人形芝居,操り人形,神舞などが催されたそうでとても賑やかだったそうです。妙見神社のお祭りが今どのようにされているのか分かりませんが、いつか参加させていただきたいと思っています。ちなみに上組は確か、中村じょう、横尾じょう、岩金じょう、成川じょうの四つの地区から成っていたように思います。昭和初期には75軒ほどの家が上組にあったそうです。

             中郷集会所前広場に置かれた子供神輿


 住吉神社を出発してから20分後位でしようか、行幸は最初のお参り地点である中郷集会所前広場に着きました。中郷の方々によるお接待がありました。各地区ごとに机が設けられていました。15分位お接待を受けました。晴天に恵まれたお祭り日でした。なお、この付近は明治期まで八幡田(はちまんだ)と呼ばれていたようです。また、今の舗装道路は昭和になって通されたとか。

              御神輿の行幸ルート

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする