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非情な教師が子どもを成長させる

2006年12月09日 | 雑記帳
 10月に上條晴夫先生とお会いして話をしているとき
何度か今泉博氏(北海道教育大釧路校)の話題が出た。

「挙手しない子は、指名しない」

というその考え方はインパクトが強かった。

 『授業づくりネットワーク誌12月号』の冒頭に、
上條氏の今泉氏へのインタビューが載っていて、興味深く読んだ。
 今泉氏の考えがわかりやすく紹介されている。

 実は以前ベネッセの冊子で、別の方がインタビューした記事を読んでいて
その時の印象的な言葉をこのブログにも残していたのだが
それは「連絡帳」のことであり、話の核となる部分を取り上げていなかった。
 それは今思うと、私自身の目が避けていたというようにも受け取れる。

「挙手指名はやめるべきだ」

 これは師と仰ぐ野口先生の言であり
表面上は、まったく正反対に位置する今泉氏の考えに対する戸惑いとでも言えばいいか。

 今泉氏は「どの子にも発言しない自由があり、教師はその自由を守るべき」という。
 野口先生は「発言したいことよりも、発言すべきことを言う」を主張する。
 今泉氏は「自由な雰囲気」の中で、子ども自身が自分で発言することを決定していく過程を重要視している。
 野口先生は、1時間の中での「向上的変容」を目指し、学習参加への責任を果たさせることで、子どもの力を鍛えていく。

 この違いは授業スタイルというより、教育観、人間観といったレベルのことではないか。

 混迷する社会を生きぬくという意味で、「言うべきことを言える」力は確かに必要だ。
 その点で、野口先生の主張はまっすぐにそこを捉えていると思う。
 しかし、今泉氏の方法が間違っているとはいえまい。
 4月に数人だった発言者は、三学期にはほとんど全員となるという。
 子どもが自分で決定し、そこに至るまでの葛藤を乗り越えたことは価値が大きい。

 どちらの手法の選択が有効か、検証する術はないだろう。
 子どもの「向き不向き」も重要なことではあるが
何より、教師がその精神や手法に共感できるかどうかにかかっているのではないか。

 そして実は、二つの手法がある点においてかなり似ているのではないか、という気がしてくる。

 教師は簡単には助けてくれない

 したくなくても指名され発言せねばならぬ子

 発言したいと思っても手が上がらず指名されない子

 どちらも教師の非情さ?感じながら成長し、力をつけていくのである。