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弱い味方という立ち位置

2007年12月04日 | 読書
 内田樹氏の『ためらいの倫理学』(角川文庫)を読んでいるが、遅々として進まない。
 副題が「戦争・性・物語」であり、自分の知識では読みとれない部分もあるし、ううんと考え込んでしまうこともまた多い。

 もちろん刺激的な論述には違いなく、目を見開かされる表現も多い。

 「有事法制」に絡んで、内田氏はこう言いきっている。

 その意味は「私たちは永遠にあなたの『弱い味方』であり続けます」という意思表示であると私は思っている

 アメリカというあなたの存在ぬきに全ての「有事」が考えられない現状は、私にでも理解できる。
 なるほど、とページを伏せて、数日後。

 BSで放映された『小説 吉田学校』を視聴した。見たいと思っていて見過ごしていた映画だ。森繁と若山富三郎あたりはまさにぴったりの配役だった。

 史実にそっているとはいえ「小説」であるから多分に実情は違うとはいえ、前半のハイライトは吉田茂の講和条約締結への道のりである。
 「再軍備をしない」という一点がぎりぎりの線であるという描き方であったが、まさしくその時点が「強い・弱い」の選択だったのだろう。
 むろん、アメリカの当初の要求を呑んだとすれば、その後の高度成長はなかった。ずいぶんと景色は違っただろう。そして、私たちが身につけたものとは少しかけ離れた様式や思考が備わったのかもしれない。

 とにかく今「弱い味方」としてあり続けることは、アメリカにとっては想定済のことであり、日本人の政治的脆弱性などとうに把握済である、と誰かが笑っているような気もする。
 映画の中での森繁と若山がこなした役も迫力がありそうに見えたが、結局は政治的な信義というよりかけ引きと妥協にまみれていたという言い方ができるのである。それが「学校」という名のごとく延々と続いてきたのがこの国なのである。

 しかし、そうやって築いた「立ち位置」には違いなく、私たちもそこで経済や産業そして教育などを考えていることは確かである。もっと言えば、国ばかりでなく各省も各県もそんな立ち位置の定め方を知らず知らずに学んで、多くの結論がそのあたりに落ち着く…そんな穿った見方もしたくなる。

 それに苛立っているわけではないが、ずいぶんと硬くなっていることは確かで、できる所で揉み解していこうと思うのである。