すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ものは、汚れをもたらす

2007年12月20日 | 読書
 まど・みちおの作った「朝がくると」という詩がある。

 朝がくると とび起きて
 ぼくが作ったのでもない
 水道で 顔をあらうと

で始まる有名な詩だ。

 この詩は例の『心のノート』にも取り上げられたように、日本人の価値観に強くフィットするのだと思う。
 私自身にもそういう思いがある。
 繰り返される「ぼくが作ったのでもない」。
 水道、洋服、ごはん、本やノート、ランドセル、靴、道路…
 老境間近?になった今でさえ、たまに「ああ俺は何も作れないのか」とふとよぎることさえある。
 第一次産業や製造業に対して少しコンプレックスを抱いているような…

 ところが『豊かさの探求』(加藤廣著・新潮文庫)を読んでいて、えっそうなのと今さらながらに教えられたことがある。
 歴史モノのベストセラー作家である著者は、「もの作り」について先人の様々な言葉を拾ってきて、こう結論づける。

 古代から近世に至るまで、貴族や権力者は、武人における武器を唯一の例外として、実用的なことを軽視~もっとはっきりいえば軽蔑~してきました。(略)現代人は実用的なことばかりに価値観を追い求めています。

 胸に手をあてると、さもありなん。
 そして、それが何故いけないかと問うたとき、このような先人の言葉がとどめをさす。

 機械術と呼ばれるものは、社会的な汚れをもたらす

 溢れかえるゴミ、廃棄物の例は挙げるまでもない。
 必要か必要でないかさえ判断できないほど圧倒的なものを抱えて暮らしているのが、今の私たちである。

 もの作りを目指す心は、人間の本質的なことだと思う。器用な手足を使うことによって脳を発達させてきたのだから。
 しかし作ったものによって様々な争い、諍いが起きたことも確かだ。

 「もの作りにばかりのめり込み、心を作ってこなかった」なんて格好いい言葉を使いたくなるが、そんな言葉は、今はもう力を持たない。
 いずれ溢れかえる「ものによる汚れ」が、例えば制限の見えない消費志向のように個人の心まで侵食していることは確かだろう。
 ものをめぐった人と人との争いではなく、ものと人との対決のような風景も思い浮かぶ。

 本当に欲しいものとは、いったい何なのか。
 それは自分で作れないものなのか。
 ものの消費に明け暮れないで、夜はそのことをぼんやり考えるのもいい。
 
 そして、朝がくると…