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水位差のある場所へ

2007年12月13日 | 雑記帳
 「情報化社会」とは何か。
 諸計画や学習指導案などにも頻繁に書かれるこの言葉。
 自分なりに振り返ると、様々なメディアによる情報が満ち溢れている、または氾濫している世の中といったイメージで捉えているようだ。

 広辞苑には、次のように書かれていた。

 情報が物質やエネルギーと同等以上の資源と見なされ、その価値を中心として機能・発展する社会。情報社会。

 なるほど、情報の価値の高さが強調される社会か。

 なぜこの言葉について気になったかというと、なかなか読み進めない文庫本『ためらいの倫理学』に見つけた内田氏の次のフレーズにうなったからである。

 「全員が多くの情報をもつ社会」もありえない。情報とは「より多く持っている者」と「より少なく持つ者」のあいだの水位差のことだからだ。

 水位差。

 水位差が情報だとすれば、その水位差が明確になるのが情報化社会と言えるのだろう。

 だから、より多く持てるための力を育てるのが教育なのか…
 それも一つの方向ではあろう。
 しかし、それは際限のないことでもある。情報の価値が一元化されている印象も持つ。

 そうではない。
 物質やエネルギーと同じように価値があることを認められれば、それでいい。
その情報が自分を幸せにしたかどうか、幸せにするための道具や材料になるかどうかだ。
 たしかに、見きわめる力を養うことは容易ではない。
 なにしろ、一歩外へ出れば豪雨のように降り注ぎ、洪水のように流れ出ているのだから。

 まずは目を伏せ、心静かに部屋にこもるか。
 そして小さな舟で漕ぎ出す時期を待とう。
 自分の内なる柄杓に目を向けて、情報を掬い取っていく腕が必要だ。
 バランスさえ失わなければ、水位差など克服できる。

 となんだか、誰かを励ましているのか、自分に言い聞かせているのか、わからなくなってきた。