先日、加藤廣氏の文庫本を読んでいて「陥穽」(かんせい)という言葉を初めて知った。私たちの今を表わす象徴的な言葉ではないだろうか…などと頭をよぎり、気になっていた言葉である。
そしてたまたま今朝訪れた内田樹氏のブログでも、その言葉の入ったタイトルを目にした。
「接続的コミュニケーションの陥穽」
大学で行われたある講演に触発されて、論が展開されている。一部を引用する。
そういわれてみると、若い人たち(に限らぬが)最近は「空気」とか「場面」とか「流れ」とか、そういう「メッセージが置かれている文脈」を指示することばがコミュニケーションの場で優先的に選択される傾向がある。
今年の流行語にもなった「KY」。
そのもともとは、日本人の持つ「察する」ということだったかもしれない。しかし、そこに込められていた他者の気持ちの理解が実に表面的になって流布しているが「空気を読め」ということなのではないか。
内田氏の次の言葉に頷いた。
そんなに「場の空気が読める能力」って大事なんだろうか。
私はそこにひっかかってしまったのである。
「場の空気が読めないやつとは暮らせない」と公言するのはかまわないけれど、そういう人は「他者との共生」とか「多文化共生」とかいう社会理論にもきっぱり反対すべきではないのか。
今、私たちに求められているものは何か。
「KY」と名づけ人を退けることではなく、きちんと内容を伝えることであり、そのための方法や技術を探ることにある。
そう考えると、別に「KY」が増えたって構わないのではないか。
むしろそう名づけられることを怖れて、きちんと理解しない、表現しないことがどれほど問題なのか。
ここは一つ「AKY」(@池田香代子『このくにのメルヒェン』)宣言をしてみるか。
「あえて空気を読まない」である。
そしてたまたま今朝訪れた内田樹氏のブログでも、その言葉の入ったタイトルを目にした。
「接続的コミュニケーションの陥穽」
大学で行われたある講演に触発されて、論が展開されている。一部を引用する。
そういわれてみると、若い人たち(に限らぬが)最近は「空気」とか「場面」とか「流れ」とか、そういう「メッセージが置かれている文脈」を指示することばがコミュニケーションの場で優先的に選択される傾向がある。
今年の流行語にもなった「KY」。
そのもともとは、日本人の持つ「察する」ということだったかもしれない。しかし、そこに込められていた他者の気持ちの理解が実に表面的になって流布しているが「空気を読め」ということなのではないか。
内田氏の次の言葉に頷いた。
そんなに「場の空気が読める能力」って大事なんだろうか。
私はそこにひっかかってしまったのである。
「場の空気が読めないやつとは暮らせない」と公言するのはかまわないけれど、そういう人は「他者との共生」とか「多文化共生」とかいう社会理論にもきっぱり反対すべきではないのか。
今、私たちに求められているものは何か。
「KY」と名づけ人を退けることではなく、きちんと内容を伝えることであり、そのための方法や技術を探ることにある。
そう考えると、別に「KY」が増えたって構わないのではないか。
むしろそう名づけられることを怖れて、きちんと理解しない、表現しないことがどれほど問題なのか。
ここは一つ「AKY」(@池田香代子『このくにのメルヒェン』)宣言をしてみるか。
「あえて空気を読まない」である。