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感化されて感化する側へ

2011年09月22日 | 読書
 『響きあう脳と身体』(甲野善紀・茂木健一郎 新潮文庫)

 この本からもう一回書き留めておきたい。

 第三章は「身体を通した教育」。
 最初のキーワードは「感化」だが、これもなるほどと深く納得できる文章で出合った。
 研修の場で何度か聴き馴染んだ「感化」という言葉であり、そして自分も、何人かの先達に感化されてきたという実感がある。
 茂木は、次のことを重要なポイントと挙げている。

 人が人を感化する時、実は感化する側がその何たるかを把握していない、気づいていない時のほうが、どうも感化力が大きいような気がする・・・・(中略)・・・・教える側が気づいていないような「何か」が最も強く弟子のほうに伝わっていくような気がするのです。

 ここには大事なその先が示唆されていると言っていい。
 甲野が受けて語った言葉である。

 生身の人間同士のやりとりには、言語化できない、ものすごく多くの量の情報が行き来しているからです。

 人と人のつながり、と簡単に言う。
 しかしそれは言葉だけ見ていては、実は見えてこない。

 自分が学ぶ時に大事にしている「生身で会う」ことは間違っていなかったと改めて思う。

 学校の授業をつくるときも同じことが言える、と思う。
 私たちがゲストティーチャーを招いたり、人に会う体験活動を見学先に選んだりする基準は様々あろう。
 知識、技能を直接伝えてもらうメリットはもちろんながら、やはり「その人」に伝えてほしいと教師自身が魅力を感ずることも大きな要素ではないか。またそうあるべきだ。


 さて、茂木はこんなことも語っている。

 今行われている受験戦争を前提とした教育システムの中では、そういったコラボレーション能力を高める方向性は構造的に排除されているわけです。

 その認識が百パーセント正しいとは思わないにしろ、全体像を見れば「個人としての有能さ」を求める向きにあることは間違いない。そして、その果てに行き詰まっていた社会はとうに見えているのだが、なかなかみんな足を踏み変えようとはしなかった、ということだ。

 一歩、半歩、変えるということは、とにかく自分が心底いいと思う人を持ち込むこと、いやそれはモノでもコトでもいい。そこに言葉を超えたその先が広がる可能性がある。

 結局、昨日のこととつながってしまった。