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ナマハゲは徐々に力を…

2011年09月12日 | 読書
 全国学力調査が初めて行われた年の秋、秋田県がトップという結果についていろいろ報道されるなかで、やや冗談めかしてではあるが「ナマハゲ」という言葉が出てきたことがある。
 報道の中で見聞きしたこともあるし、ある方から直接聞いたこともある。このブログの中にも少し触れてあった。 
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/f39d9e7daba2db93f5acb9c2ac1b701f

 もちろん、男鹿のナマハゲが何かの力になったわけではないが、比喩としては結構面白いなと考えていた。
 つまり、結果が良かった理由は複数あるが、ナマハゲが存在する県という風土の力も捨てがたいということだ。
 (学力調査の意義やそこで問われる学力とはまた別問題であり、その点は切り離すが)

 先週出かけた折の電車の中で、内田樹氏の文庫本を読んだ。

 『「おじさん」的思考』(角川文庫)

 その本の中に、こんな件がある。

 「内輪のロジック」や、「親の力」の及ばないところに、「社会的規範」が存在する
 「ナマハゲ」はそのような「社会的規範」の象徴です。


 もう十年も前の文章なので、全国学力うんぬんに絡んだものではない。しかしナマハゲに関連付ければ、本県において「先生の言うことはきくものだ」「宿題はすることが当たり前」「問題は最後まであきらめず考える」といった規範が、他県より多少高かったとは言えるのかもしれない、と改めて思う。
 しかし、だ。

 ほんらい、学校は「ナマハゲ」と同一の機能を果たしています。

 と、ここまで言われると、現実に照らし合わせたときに微妙な問題となる。
 
 私たちは、その自覚を持ち得ているだろうか。
 もちろん個々の教職員が「強く、怖く、畏れ多い者」としてあるべきだといった時代錯誤的な考えではない。
 少なくとも社会的規範とはこうしたものだという言動をきちんと子どもに見せつける場所になっているか、ということである。

 強権や理不尽なことがほとんど通用しない、そういう流れの中ではどこか基盤の弱いスカスカした姿にしか見えないのも、一面の真実だろう。
 「先生に怒られるよ」という言い方も、「そんなことしたら、学校に言いつけてやる」という言い方も、もはや懐かしいのだろうか。
 
 そういえばずいぶん以前になるが、親の面前で悪態をついた子どもを叱責したことがあった。その直後に、父親はその子に対して「ほうら、ゴシャガレダ(怒られた)しゃあ」と、まるで、いい気味だ、ザマーミロというような口調で同化していた。
 その親を、ちょっと「なめた態度」だなと感じたことを思い出す。
 
 かくして、ナマハゲは徐々に力を失っていくか。