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「コミュニケーションの量の減少」という問い③

2011年09月20日 | 雑記帳
 きわめて個人的な振り返りをしようと思った。
 自分が子どもだったとき、教員になったばかりの頃、そして現在と比べてみて、子どもたちのコミュニケーションの量は減少しているのか。

 しかし、印象のみで語るとしてもやはり難しい比較だ。
 あきらめよう(誰かに「ハヤッ」と言われそう)。

 ただ、会話場面のみ思い起こしてみたが、量としてそんなに大きな違いがないような感覚をもつ。

 量というよりむしろ質の違いの方が明らかなのではないか。
 取り巻いている環境が大きく変化しているのだから、当然だろう。その質の変化こそが「クラスの中の人間関係」に影響を及ぼしていると言えなくないか、そんな気がする。
 
 どのような質の変化か。
 思いつくまま挙げてみる。
 一つは話題そのもの、次は気遣いの落差が大きいこと(気を遣って言葉を選ぶ子がいるし、全くお構いなしの子もいるという現象が広がっているのでは?)そして、身体性に重きがおかれなくなったこと(反面語いは増えているのか?)。
 
 では、これらの変化が一概に人間関係を狭めたり、希薄にしたりしたと断言できるか。また、自信がない。
 しかしまた、地域社会の多くがそうなっているように、「クラスの中の人間関係」がかつてのような濃厚で同質性の強い結びつきでなくなっているのは確かだろう。

 その現状(といっても各地各教室で幅があるだろう)をどう把握し、どんな方向を目指し手を打っていくかは、学校現場にいる者としてやはり優先度の高い問題だ。

 ともあれ、授業や学校生活に関わる私たちが、改めて確認するべきことの一つに、「コミュニケーションの量の保障」があることは間違いない。
 「コミュニケーション教育」という名づけで、様々な新しい内容を入れ込むことを否定はしないが、やはり先日の研修会で講師陣が語ったように、ふだんの授業の中で「続ける」ことこそ肝要になる。

 どのようにしたら、続けることができるのだろうか。
 「コミュニケーションの量の減少」と言い切った赤坂先生は、飛び込みの授業の中でも、十分すぎるほどのコミュニケーションの場と方法を示した。 
 堀先生は、かなり具体的な数字を示して授業におけるグループ学習の継続を主張された。
 そして情報交換の質疑のとき、参加者の思うように進まないグループ学習の悩みに対して、講師陣が答えたのは「続ける覚悟」に尽きていた。

 しかし、覚悟を持てない、持ってもすぐ降ろしてしまう私のような人間は、何か工夫する、どこかに絞るしかないだろうといつも考える。
 「見取ろうとする」「記録する」…まずは、自分にできる具体的な行動から。