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桜と絵本と豆乳と

その先にある大きな世界を

2011年09月21日 | 読書
 この頃あまり「対談本」は読んでいない気がする。
 久しぶりに手にとったこの文庫は、実に刺激的だった。

 『響きあう脳と身体』(甲野善紀・茂木健一郎 新潮文庫)

 甲野の話す武術における型稽古の意義は、今まで自分が考えていた「型」ということを根底から覆す一言だった。

 「型」の重要性は、教育の分野においても強調されてきたことだ。何事も初歩の段階では「型」の指導を重視すべきだし、その意義は「形を真似して、それを反復練習することによって、その動きをスムーズに、自動化していくためのものだ」と考えていた。
 しかし、甲野はこんなふうに否定する。

 ついやってしまいがちな、当たり前の動きを封じるためにあるのであって、反復練習とは正反対の世界なんです。

 反復の目的が違うのである。

 あえて不自由に制限することによって、日常的な動きから飛躍したレベルの高い動きを本人が発見できるように組まれていた

 これは意味が深い。
 日常の授業や活動場面をそんな切り口で見たら、ずいぶんと面白いことがわかるのではないか。

 対談はそんな流れの中で、論理的な教育法やマニュアル化に対する疑問が提示されている。

 例えば「説明力」は、昨今のキーワードの一つとは思うし、わかりやすく、内容をしっかり伝えることに腐心するのは、教師の大きな仕事の一つである。
 しかし、同時にその限界を知るべきだし、そうでない方法も常に吟味するべきだということを考えさせてくれる。

 甲野はこんなふうに指摘している。

 言葉による説明というのは公平で、誰にでも教えられるけど、その先にある大きな世界を失わせてしまうという意味で、長所即欠点だと思うのです。

 「その先にある大きな世界」が、言葉によって封じ込まれたり、萎んでいったりする現実は常にあるだろう。避けられないだろう。それが道具としての言語を獲得していくということなのかもしれない。

 しかし、その意識をもって子どもが伸びる場面に立ち会っているのであれば、ああここは言葉抜きで、語ることを禁欲して、という思考も出てくるはずだ。

 それにはまず、自分が言葉を超えて浸れる大きな世界をいくつ持っているか、数え上げてみることも必要か。

 …ちょっと、愕然としてきた。