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「分かりやすい授業」を分かりやすく

2011年11月02日 | 雑記帳
 今日、参加した授業研究会で、協議の視点の一つ目が妙に気になった。

 分かりやすい授業

 いや、ごく普通の言葉であり、よく使われているのかもしれない。数日前に送られてきた指導案等を見ても何も感じなかったのだが、さてKJ法を取り入れた協議を始める段になって、付箋に書こうかと考えたとき、「えっ、分かりやすい授業ってどういうことよ」という思いが突然浮かんできた。

 これがもしかしたら、国語とか算数などであったらそんなことを感じずにいたのかもしれないが、参観した授業は美術…少し立ち止まるのは人情?というものだろう。

 少人数だったし、グループ内に授業者がいたので、素直に尋ねてみる。

「美術で、分かりやすい授業って言ったとき、どういうことを指すんですか?」

「んんっと、子どもたちがその時間何を目指して活動するか、進め方がわかる、ということですかねえ」

「ああ、そうすればも、子どもが活動しやすい授業ということですかねえ…」
と7割ほどは納得して、時間もないので協議を始めたのだった。

 しかし、そこはいつもの私の性癖で、「結局、分かりやすい授業とは何を指しているのか」という3割の疑問が徐々に頭を支配してきて、いつものごとく自問ブログになるわけである。

 「分かりやすい」が参観者の視点でなく、学習者の視点であることは確かだろう。
 従って、理解する教科であろうが技能教科であろうが、あまり大差はないだろう。
思いつくままに挙げればこんなところだろうか。

 「活動する目的がわかる」
 「活動する手順や方法がわかる」
 「活動を集中して、熱心にできる」
 「活動後したあとの満足感、充実感がある」

 図工や美術であれば、それは作業態度や作品という形で結実するのでわかりやすいではないか…と。
 ところがどっこい、「鑑賞」の授業なのである。

 鑑賞活動における「分かりやすい」はどこに置けばいいか迷いがでるが、少なくとも最終段階で、新しい気づきや自分には今までないものの見方を学ぶことに疑いはないだろう。
 しかし、そこへのアプローチは様々であり、それらの手法が「分かりやすい」かどうかという形容は、あまりふさわしくない気がする。

 そう考えると、国語や社会の授業においても同様で、この表現自体がもう古い!と言い切ってしまおう。
 もはや手垢に染まってしまった。
 世代交代して、新たな表現にしよう。

 学びやすい授業

 どうです。これなら対象もぶれない、その視点での教師の働きかけの意図も問える。
 分かりやすいでしょう。