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桜と絵本と豆乳と

遥かに遠い友人

2011年11月25日 | 読書
 ああこれは自分のことを書いている、考えていることが全く同じだという本にめぐり逢ったことが数回ある。

 その一冊が穂村弘の書いたエッセイで、それ以来彼には強いシンパシーを感じていた。『ちくま』の連載「絶叫委員会」なども実に楽しい。二年ほどNHKの短歌番組を見続けたことがあったのも、その影響かもしれない。

 今年の読了百冊目は『短歌の友人』(穂村弘 河出文庫)だった。

 歌論集という区分らしい。「伊藤整文学賞」というなにやら偉い賞を受けた本である。文学について浅い知識しかない自分には、結構難解な箇所があった。しかしそれは同時にいくつかの点で、自分がぼやっと考えていたことを見事に言語化してくれたようにも思う。
 例えば、次の文章。

 生のかけがえのなさに根ざした表現が詩的な価値を生むとしても、それが生の全体性にとっても常に最善とは限らないのだ。むしろ日常的な生活や社会的な生存の現場においては不利に働くことが多い。

 幼い憧れとして詩をかじった者にとって、「ああ」と言わざるをえない。
 一言にこだわり続けることが、結果自分を傷つけてしまうことに恐れを抱かない者が詩人であり続ける。

 塚本邦雄の作品に存在した怒りがどう引き継がれたかを問題とした文章には、こんな件がある。

 戦後の現実に順接的な現象として「言葉のモノ化」だけが受け継がれていった。いわば武器ではなく道具としての言葉であり、それを時代への「対応」から受け身の「反映」への変質と捉えることも可能だろう。

 「言葉のモノ化」…虚構の中で作り上げられる歌は、言葉が示した真実、現実の強度を失わせた。ただその変質をどのレベルで受けとめるかは、個々がどれだけ自分に問いかけているかによって決まってくるのではないかと信じたい。

 モノが貴重で新鮮なうちはよかったが、手垢に染まった、デフレ的な粗悪品というイメージも膨らんでいる気がするし、今自分が放つ言葉の芯を、不断に磨いていく作業が必要だと痛感する。

 知識満載で刺激的で、時に重厚な語り口で評した歌論集となった。
 勝手に友人と決めていたが、実は遥かに遠い所に立っているのだった。ちょっと寂しい気がする。

 「もう一度、せめて茂吉から勉強してみようかな」とふと思った(実際無理だろうけどネ)。