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「自分の言葉で」という驕り

2011年11月17日 | 雑記帳
 ある学校の冊子で研究主題の一部に「自分の言葉で表現しよう」という文言を見た。
 けして珍しい言葉ではないが、少しひっかかる気持ちが湧いた。

 「自分の言葉で」といったとき、どんな姿をイメージするのだろうか。
 文字通りに読めば、特殊な例を除き、誰しも自分の言葉で語ったり、書いたりしているだろう。
 それをわざわざ「自分の言葉で」と書くにはわけがある。

 その設定理由の説明では「主体的・意欲的」にという面が強調されていた。誰かに指示されたり強制されたり促されたりするだけでなく、自分から進んで表現することは当てはまる部分があるだろう。
 ただ一般的にいってもそれだけではちょっと足りない。
 「自分なりの」「個性的」といった意味合いが付け加わるのではないか。

 自分なりの言葉、個性的な言葉が表現されるのは、なかなか難しいことだ。だからこそそういう取り上げ方をしたのかもしれない。

 ただ、その自分なりの言葉、個性的な言葉の表現ということに、「文学的」なイメージを持ってしまうのは私だけだろうか。
 もちろん、その言葉に価値がないと言っているわけではない。究極的に人はそういうものを欲するのかもしれない。
 しかしそれは結局「自分が、自分は」を目指し、言葉そのものにきちんと向き合えない危うさも持つのではないか。
 それは驕りではないか。

 最近、頭にこびりついている一つの言葉がある。
 何かの雑誌の俳句コーナーで見かけたように思う。

 自分は小さい。けれど言葉は大きい。

 その自覚を手離さずにいたい。
 教育現場でも「自分の言葉で」と使うとき、どんな姿をいうのかもっと具体的で相応しい言い方はあると思う。