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東京の名づけ親、ここにあり

2011年11月26日 | 雑記帳
 佐藤信淵という江戸後期の学者の名前を知っている人は少ないだろう。
 詳しくはウィキペディアで。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5

 我が地元秋田県羽後町の出身であり、「しんえんさん」「しんえんさま」という呼び名で通っている。
 出生の地については町内の二カ所にその説があり、定かではない。
 先日聞いた講演では、そういうふうに出生地を明らかにしないこともよくあるらしい。多少、謎めいたほうが箔がつくということなのかもしれない。

 この信淵、江戸時代に多数の本を書いたが、あまり日の目は見ずに明治期に見直された。それは明らかに当時のこの国の大陸進出政策と思想が合致していたということだろう。
 そうした経緯があって、例えば秋田県民歌の歌詞に、平田篤胤とともにその名前が載っている三番は歌わないことになっているという状況が生まれている。

 さて、題した「東京」の件である。

 歴史上はあの大久保利通の建言によるとされるが、その基となった「東京」の名称は、実は信淵の『混同秘策』という著に記されている。この著自体が国内統治論、世界征服論を書いたものだというから、遷都、江戸の改称は合点が行く。

 その文章は、大阪を「西京」とするということも続けられている。そちらの案は退けられたが、190年を経た今、別の形で「西京」を目指している?動きがあることも面白い。(とのんびり構えていい問題ではないだろう)

 それにしてもあの「しんえんさん」が、東京の名づけ親だったとはねえ…。
 東京という命名がこの国の一極集中の形を作るうえで果たした役割は小さくないと思う。いわばそれは国家的なビジョン、世界的な視野に基づいたものなのだろうが、現在の地方の疲弊につながったことを考えると複雑である。

 信淵は「経世家」と言われている。
 「経世済民」がその思想の核にあるからだろう。卓越した考えに時代が追いつかなかった、いわば天才と言うべき信淵が、今この世を見て提言するとすれば、どんな策を示すだろうか。


 講演を聴いて、もう一つ興味深いことを講師が言われた。

 「日本のフレーベルと言ったら、佐藤信淵なんです」

 えっ、と思った。