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日本のフレーベルよ

2011年11月27日 | 雑記帳
 「日本のフレーベルと言ったら、佐藤信淵なんです」

 えっ、と思った。
 フレーベルが幼児教育の祖であることは、遠い昔、教育学か教育史で学んである。しかし教育面で佐藤信淵という名が登場するとは初耳だ。

 信淵が学び広めた考えは、非常に範囲が広い。
 農政、経済、海防、地理、天文…に加え、社会保障や社会福祉に関わる著もある。
 『垂統秘録』にそれが詳しいとされている。

 「病養館」という国立保養所、国民健康保険に相当する考え、そして「慈育館」「遊児館」というのが、貧しい民の子を官費で養育し、修学前の子どもを保育する場所を設けよという考えにあたる。

 そういう経緯で、保育士の試験問題(まだ保母と言われていた時期であるそうだが)で、「日本のフレーベルは誰」という問題では「佐藤信淵」という答になるそうである。
 もっとも、現在ネット検索をかけると倉持惣三という方(幼稚園そのものの設立者)の方が多いようだ。

 講演で講師が紹介した、信淵の教育に関する言葉が興味深い。
 「人はどうすれば活性化できるか」というような命題について考えを巡らし、小さい頃からの教育の重要性を説いたという。 特に驚くのは、次のことを示していることだ。

 二足歩行できた時から、三歳ぐらいまでの教育が重要である。

 つまり「手が自由になったときから頭が働く」という、手指と脳の関連について、もう江戸時代に語っているという。恐るべき識見ではないか。
 これなら、日本のフレーベルと称されても文句は出まい。

 「しんえんさま」自身がどんな幼児期を過ごしたかは記録にないが、少年時代の逸話は残る。乱暴者だったために、寺に預けられ、仏門を嫌ってとび出し、近くの山頂にある神社に籠って、巨岩に座って読書をした、という有りがちと言えば有りがちな話である。

 そして、生涯を通じて各地をめぐり、様々な学問を学び、一時は名声を得ることもあった。ただある時は迫害をうけ結局大きな存在として認められなかった信淵の生涯は、どちらかと言えば不遇だったと括られるかもしれない。

 しかし、心の中に抱えきれないほどの望みが持ち、それは「夢」と言い換えてもいいのだろうが、ひたすら前へ進んだ先人として、自分の中では一つ輝きを増した。

 近くにある碑にお参りするときは、また新たな気持ちで手を合わせることができるような気がする。