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繰り返される動きの哀しみ

2011年11月14日 | 雑記帳
 週末にイッセー尾形の一人芝居を観た。
 三度目となる。
 今回はいずれも震災以後に創った新作ということだった。
 http://www.issey-ogata.net/
 
 何か特別な題材を取り上げているわけではない。しかし、自分としては三度目になってようやく、どうしてこの舞台は面白いんだろうかと考える余裕みたいなものが心に浮かんだ。
 優れた人物描写には違いないのだが、何か共通項のような観点があるのではないか。

 今回の舞台で取り上げられた、「自転車に乗れない女」「機械工」「ホテルのボーイ」等々…どれをとっても「繰り返される動き」に笑いが誘われる。
 その動きは、その人の履歴や嗜好などが見事に理解できるように組み立てられるから、観客に伝わってくるのだと思う。
 もちろんそれは言語の場合もあるのだが、イッセーのしなやかな身体によって強調され、目に焼きつくようなイメージを残してくれる。

 そしてまた、それを観て笑う自分たちの姿も、ちょっぴり俯瞰できるような雰囲気があり、普通の演劇や落語などとも違う独特の空間なのかなあと思ったりする。

 繰り返される動きは一種の哀しみを湛えている。
 それは誰しも持っているものである。
 仕事上のこと、家庭生活の中で、小さいときからの癖など…。
 それらは芝居の中では笑いによって客観化されるが、現実にそのどうしようもなさから脱け出ることはそんなに容易ではない。
 それでも一瞬であっても笑い飛ばせれば、自分の心をほぐしていくのではないかと思う。

 まず向き合おう、とイッセーは示しているのではないか。


 さて、今回のセリフで印象深いものを二つメモしておく。

 中小企業?の上司が部下に対してやや説教めく場面である。一面の真実と哀しい現実の取り合わせが、なかなか渋い。

「空気はなあ、読むものでなく、吸うものだ!」

「昔は、アレルギーとノイローゼの二つで済ませられたんだけどな」


 自分も思わず言いそうになる一言だ。