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自分で自分を教育する

2011年11月07日 | 読書
 『ただ一人の個性を創るために』(曽野綾子 PHP文庫)

 この著の要諦を一言で表すとすれば、「文庫版まえがき」に記された、この箇所を挙げたい。

 自分で自分を教育するほど、楽しいことはない。

 しかしそれは同時に厳しいことであり、それを受けとめる覚悟をつくることを「教育」というのかもしれない。

 この本にも様々なエピソードが書かれ、また背筋をのばすように読むことができた。
 考えさせられたのは、著者が日本財団の理事として面接試験を通して驚いたと挙げてある、次の三つのことだ。

 誰もが揃いも揃ってリクルート・スーツなる没個性的な服を着ていること

 今の若者たちが、自己宣伝をすることに対して少しも羞恥を持たないこと 

 短い作文の実に下手なこと

 この三つの関係は、実に象徴的なのかもしれない。
 つまり、没個性的な外面だけれど、内面はそうでないと宣伝はできる。しかし、的確で強い芯を持っているわけではない。

 もちろん、先の二つについてはいわゆる就活のセオリー的なこと(我が家の子もそういうことをしていたのは事実)を守ろうとしているだけとも言える。
 だが、結局三つ目の指摘によって、その浅薄さは露呈してしまう。

 著者が小さい頃から文章表現に親しみ、見方が厳しいのだと言えなくもないが、おそらくはそういう教育があまりされてこなかった若者が大半であることには違いない。
 それは作文技術ということよりも、自分の考えを練り上げて短く端的に表すことがおよそ足りなかったと言っていいと思う。

 結局それは、そうやって組織や社会を形づくっていくほうが都合が良かったのだという見方ができる。
 口でいくら個性、個性と叫ばれても、目に見えないラインか有刺鉄線で囲われたような、真綿で包んだような世界の中で、わずかな相違をたいそうに語る程度のことしか意識されなかった。

 それはもはや、見せかけの個性づくりと呼んでいいかもしれない。
 現場にある閉塞感の大きな部分を占めているような気がする。

 そう考えると「自分で自分を教育する」楽しさを感じさせることこそ、それらを打ち破る核となるか。
 大きな言い方をしたけれど、日常の学校生活の中にも、一時間の授業の中にも、そのきっかけは溢れているはずである。振り返ってみる価値は十分ある。