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まず、種を鍛えよ

2011年11月23日 | 雑記帳
 総合教育技術誌の野口芳宏先生の連載に、次のような一文がある。

 その人に備わった何気ない仕草が、実はその人のトータルな教養とも言えるからである。

 なんとも心に沁み入る、また自分自身の言動を振り替えざるを得ない着眼である。
 「自分は育ちが悪いから」などとこの齢にして言い訳にならないことを口にしてしまうこと自体、無教養の極みというかなんというか。

 ただ冷静に振り返っても、ある程度「育ちのよさ」ということは影響があるように思う。
 家庭環境によって支配されるものは大きい。それは言葉遣いであったり、食事であったり、どこかあまり意識されない場でひょいと顔を覗かせたりするものだ。
 そんな時あっと思い、自分に備わっていないなあと感ずることのあまりの多さよ…と言って嘆いてばかりいずに、せめて意識的な振る舞いぐらいはきちっとやるべきか。

 それはそうと、この「仕草」という言葉。辞典などで調べると「仕種」という表記が多い気がする。
 私はもっぱら「仕草」の方を目にしてきたせいか、何故「種」なのか気になる。調べよう。

 以下、わかったことを列記する。

 (1)「種」は「くさ」と読む。
 (2)その意味は「物事を起こすたね。もと」である。
 (3)「仕」は、「す(為)」の連用形の宛て字である。


 よって、仕種とは「その行為を起こす種のことであり、種によってもたらされた行為」という両面の意味を持つのではないか。
 かなり私的な解釈をしてしまった。

 「種」を、「種類、種々」と意味づけて、「行為のいろいろ」としてしまうのは「仕種」に対して失礼ではないか。

 種こそ肝心。種は変えられないものという考えもあるだろう。しかし、実は日々の生活で作られていると言えなくもない。

 まず、種を鍛えよ…そうすれば、仕種も自ずと高められていく。