すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

抜け落ちてしまったディテール

2011年11月19日 | 読書
 文庫本になった上下二巻の『モダンタイムス』(伊坂幸太郎 講談社文庫)を買い、読み進めている。

 上巻の半分過ぎまで読んだが、なるほどの伊坂ワールドだなと思う。通読後に感想メモするのが常だが、長くかかりそうだし、ここで書き留めたいと思ったことがある。

 この小説には「井坂好太郎」という小説家が登場する。主人公渡辺の友人役であるが、このキャラクターが実にいい加減で、実に魅力的である。主人公との会話ではお互いに貶しあうような楽しい?やりとりがある。この後の展開ではどうなるのだろう…それはさておき、小説上の井坂が、こんなことを語る。

 小説にとって大事な部分ってのは、映像化された瞬間にことごとく抜け落ちていくんだ

 ここを読んで、先頃観た映画『悪人』に今一つ喰い込んでいけなかった理由がわかった思いがした。
 海外の映画祭でも高く評価された作品だし、作者の吉田修一もかかわりながら仕上げた映画だと聞くし、私ごときの評価はいかほどのものでもないが…。

 映像を観ていて、本を読んでいたときに迫ってくるような人物の呟きがかなり落ちている気がして、どうも薄っぺらな感じがした。以前も書いたように、それなりに個性的で芸達者な配役をしたわりには、今一つだったという印象しか残らない。
 むろん、ああここは映像でしか表現できない箇所だなと思ったところも数箇所ある。しかし、それ以上に原作にある細かい、おそらく自分の感情が揺さぶられた点が抜け落ちてしまったということなのだと思う。

 作中の井坂も、こう重ねている。

 粗筋は残るが、基本的には、その小説の個性は消える

 小説が映画化された作品をそう多く見ているわけではないが、案外的を得ているのではないか。
 ただ、伊坂幸太郎の小説の映像化は結構面白いのが揃っているという印象を持っていることが、少し不思議ではあるが…。

 「小説の個性」とは何か。
 曽野綾子は、こう書いている。

 小説はおこがましくも、人生を捉えようとするのだ。もちろん分を知っているから、小さな範囲で捉えた人生を描く。だから「大説」とは言わずに「小説」なのである。(『ただ一人の個性を創るために』)

 小さな範囲で捉えること、つまりディテールにこだわることだ。だから読み手と呼応するディテールがどれほどあるかが小説の醍醐味なのだろう。

 限られた時間の中に映像化することは別物であるとよく言われる。
 やはり映画は一種の読書感想の手段なのかもしれない。